第7話 離婚届け

 寿也を生んだあと、和樹とは離婚しようと思った。

 私は、和樹のことをなにも知らなかった。じっさいにいっしょに暮らしてみて、やっとわかることがたくさんある。妊娠や出産をしなければ、こんなふうに和樹を呪うこともなかったかもしれない。

 私はようやく、和樹という男の本質を知ったんだと思う。

 この人は、私を愛してくれる男では、なかった。


 舞奈が一歳になったころのことだ。私は外の空気を吸いたくなった。

 家事と育児で家に閉じこもっている生活が息苦しかった。会話できる大人が和樹だけだったこともストレスだった。和樹は話しかけても聞いているのか聞いていないのか分からないような相槌をてきとうに返してくるだけだった。


 独身のころ、いっしょに仕事をした仲間を思いだすようになった。忙しく仕事を市し、稼いでいたころが懐かしくなった。


 舞奈の相手をしながら家のこともなんとかこなせるようになったので、私は、パートに出ることにした。フルで働くには自信がなかった。

 仕事をしてもいいか尋ねると、和樹は「好きにすればいいじゃない」と言ってくれたけど、そこには「おれも家事を分担するよ」という意思など微塵もありはしない。「家のことを今までどおりこなせなくなるかもしれない」と伝えたら「おれ、家事できないよ」と家事分担をたのむまえから即答された。

 和樹のことなんか気にしないで、なんとかやれることをやってみよう。

 そう、思った。


 あんなに頑張ってパソコンを使いこなせるようになったというのに、子持ちの私に受け皿はなく、家から近いコーヒーショップで働くことになった。運よく保育所に空きがあり、舞奈を預けることもできた。


 パートではいる収入なんて全然たいしたことがなかった。

 一歳では保育料もとられるし、舞奈のおむつ、洋服、クレヨンやお絵描き帳などの文具、いろいろなところでお金がかかった。和樹の収入だけではやり繰りがきつかった。

 けっきょく私の稼ぎもほとんどが生活費に消え、自分で自由に使える額はお小遣い程度にしかならない。


 それでも家の外に出られることはすごくありがたかった。毎日コーヒーの香のなかで働けるのも、悪くなかった。


 けれども良いときはそう長くはつづかない。

 寿也の妊娠は、舞奈の妊娠のときと全然ちがっていた。

 立ち仕事だったからか、お腹の張りが出るようになった。診察へいったら入院にはならなかったけれど、切迫流産の診断を受けた。お医者さんから安静にするように指示があった。

 私はもちろん和樹に伝えた。

 けれども、相変わらず和樹は何もしてくれなかった。

「無理しないで」とか「休んでたら」とか言うのだけれど、じゃあ、代わりに何かやってくれるのかって言ったら、何もやらない。

 私がじゃあと思って本当に何にもやらないで休むと、自分だけさっさと朝食をとって、さっさと仕事へ行ってしまう。舞奈のことも、私のことも、家のことも、みんなほったらかし。

 ——私がやらなければ、生活がまわらないじゃん。

 仕方なく体調を見はからって洗濯物を二階のベランダへ持っていっていこうとしたら、和樹にでくわした。だけど和樹は何も言わない。「起きていて平気なの」とか「俺が持っていってやるよ」とか、そういうのを全然言わない。ただ黙って、私が洗濯物を持っていくのに邪魔にならないように道を開けるだけ。

 私は辛くて悲しくて、思わず泣いてしまった。

 そしたら和樹は「どうして泣いているの」って、うろたえるように尋ねてきた。

「どうしてって、わからないの」

「そんないきなり泣かれても、びっくりした。わからない」

「辛いから泣いてるんだよ」

「休んでればいいじゃん」

 和樹の頬つらをはたいてやりたかった。

「私が切迫流産の診断受けて、安静にしていないといけないの、知っているよね。こんなときくらい、いつもより早くに起きて家のこととか舞奈の世話とかしてよ」

「そんなことを今言われても、仕事に間に合わなくなっちゃうよ」

「私の体調のことを職場に言って協力してもらえばいいじゃん。最近は男の人だって育休もとれる時代なんだよ。奥さんが辛いとき、支えてほしいって思うのは、私のわがままなの」

「それはできないよ。会社で誰もそんなことしてないし、そんなの俺のわがままになっちゃうから」

 また、世間体か。

「あなたが帰ったとき、私が流産してて、赤ちゃんも私もいっしょに死んでても平気なんだね」

「そんなことは言ってないよ」

 和樹は私を放置し、逃げるように仕事へ出かけてしまった。

 一度ならまだしも、安定期を経て、妊娠後期に入ったときも私は切迫早産の診断を受けた。同じようなことがまた、起こった。


 母に、寿也の出産のあとは長めに里帰りしたいと伝えた。

 そのまま長居して、折りをみて頭をさげて、そのまま住まわせてもらおう。

 離婚届を、はじめて市役所でもらった。窓口で頼むと、あっけなく手渡された。

 ああ、こんな紙切れ一枚でこの男と別れられるのかと思った。

 心のなかが、すーっと、静かになった。


 和樹をほったらかして子どもたちとうどんをすすった。舞奈が「おいしー」と目を細め、寿也は切られたうどんを不器用にスプーンですくって食べている。その子どもたちを見ていると、いくらか気持ちが和んだ。

 やわらかなうどんが温かく食道を通りお腹におさまっていくと、私もほのかに幸せを感じられた。

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