第6話 少しも許してないけど

 寿也の泣き声がする。和樹が対処してくれないだろうかと思い、しばらく布団のなかで待ってみる。寿也の泣き声は少しもやまず、それどころかしだいに大きくなっていく。

 きっと、何もしてもらえていない。

 重たい布団をはがし、重たい自分の体を起こした。

 階下へ降りドアを開けると、舞奈がきゃっきゃっ笑いながらリビングにたくさんの本やおもちゃを散らかしながらひとりで遊んでいた。床にはバナナの皮が落ちている。お腹が空いて、自分で食べたのだろう。

 そのとなりの和室で、寿也が手足をばたつかせながら泣いていた。

 和樹は……ソファで寝っ転がっている。

 私も寿也といっしょに泣きたくなった。

 寿也を抱きかかえながら、和樹を睨んだ。

「ねえ、子どもたち、見てくれるんじゃなかったの? 私、胃腸炎でさっき病院へ行ってきたの知っているよね」

 腹に力が入らず、重低音な声でぼそぼそやっと言った。

「だから、見てるじゃん」和樹は平気な顔で言う。

「はい?」

「子どもたちはふたりとも無事でいるでしょ」

 私はまじまじと和樹の顔を見た。

「……寿也、泣いてるじゃん」

「赤ちゃんは、泣くのが仕事なんでしょう」

 呆れた。深々とため息をついた。息をはききるとき、同時に涙もこぼれてきた。

「なんで泣くの?」

 和樹はうろたえたように声をあげた。

「和樹はさ、私が具合い悪くても平気なんだね」

「そんなことないよ。心配しているよ」

「じゃあさ、ちゃんと子供たちのこと、見てよ」

「だから、見てるじゃん」

「何を、どう見ているの? 寿也が泣いたら、抱っこしてあげてよ。おむつの確認してあげてよ。お腹が空いていないか、聞いてあげてよ。離乳食の買い置きだって、いっぱいあるんだし、赤ちゃん用のおやつだってあるの知ってるでしょ。何か食べさせてあげればいいじゃん。そんなところで寝っ転がっていないで、舞奈とも遊んであげてよ」

 和樹の目が三角になっていく。

「俺だって疲れてるんだよ。寝てちゃダメなの?」

「そうじゃないでしょ。そんなこと言ったら、私だって日々疲れているけど、子どもたちのこと世話してるんだよ」

「そんなの、おまえだって休めばいいじゃんか。舞奈だってひとりでちゃんと遊んでるんだし」

 これ以上、子どものまえで言いたくなかった。子どもとの時間が自分の心身や時間を削っていると子どもに聞かせるのは嫌だった。

 何も、この男には伝わらないんだと思った。

 私は泣きながら離乳食とお茶を温め、寿也の器にもった。そこまでしたところで和樹がむきになり「俺がやるからいいよ」と私から寿也の食事をうばった。

「なんなの、今さら」

 私がお膳を奪い返そうとしたら、子供用のプラスチック製の器が食事ごと床にひっくり返った。

「和樹なんか、大嫌い。私まだ、全然和樹のこと、許してなんかないから」

「パパ、もうやめて。ママをいじめないで」

 舞奈が私たちの喧嘩を止めに走ってきた。

 私は舞奈に離れているよう言いながら、床に散らばった離乳食を片づけ、皿を洗い、今度は鍋にうどんを煮始めた。舞奈にも食事をあたえなくてはと思ったからだ。自分もなんにも食べていなかった。胃腸の調子が悪いし、うどんを煮たのだったら食べられるかもしれない。

 和樹の姿はもう見当たらず、おそらくいつも夜勤明けで寝室に使っている部屋に引きこもりにいったのだろう。喧嘩のあとはいつもそう。私の具合いが悪かろうが、気持ちがどん底に落とされていようが、あの男は一切の現実を放棄して、自分ひとりの世界へ逃げ込んでしまう。


 私は寿也を身ごもった日々のことを思いだした。

 あの日々は、本当につらかった。

 寿也を出産し里帰りしたときには、私はもう二度とこの男と生活なんかしないと心底決めこんでいた。


 舞奈を妊娠したときは、体調が悪かったことなどほとんどなかった。味覚が変わり、においに敏感になったくらいだった。

 なのに、寿也を妊娠したときは体調の変化がひどかった。つわりもひどかったし、毎日だるくて何もする気が起こらなかった。


 買い物へ行くのもつらくて、日用品の買いだしを和樹に頼んだら洗剤の種類がわからないからという。仕方なく、和樹の運転でいっしょに行くことにした。

 ホームセンターの駐車場はあまりに広くて眩暈がしそうだった。

「障碍者用のところに停めて」

 私が頼むと、和樹は「おまえは障害者じゃないだろう」と言った。

「妊婦も停めていいことになってるから」

 私が頼んでいる間に、和樹はホームセンターの入口からずっと離れたところへ車を停車させた。

「こんなに遠いんじゃ、行くのつらいから、私、ここで待ってる」

 和樹の顔がゆがんだ。

「はあ? たったこれだけの距離だよ」

「和樹にとってはこれだけの距離だろうけど、私にとってはかなり長いよ」

「何言ってるんだよ。俺ひとりじゃ何を買ったらいいかわからないから、いっしょにきたんだろう。おまえが来なければ意味ないじゃないか」

「じゃあ、障害者用のスペースに車を移動してくれる?」

「あそこは、体の悪い人が置く場所だろう」

「だからさ、何度も言うけど、妊婦さんも使っていいことになってるから。私、今、すごく辛いんだよ」

「あのさ、妊娠は病気じゃないだろう。あんな障害者の場所を使って、誰かに何か言われたらどうするんだ」

 泣きたくなった。

 和樹は、いつもこうだ。自分の主張を曲げようとしない。

  それに、舞奈を妊娠しているときも、この人は、ただの一度も妊娠について勉強しようともしてくれなかった。家事だって、自分から何かしようなんて発想、持つこともなかった。

「私の身体より、世間体のほうが大事なんだ」

 どうしようもないくらい押し問答が続いた。

 私も、我慢ができなかった。とうとう泣いてしまった。

 それでも和樹は自分の主張をやめるどころか、「泣かれたんじゃ買い物なんかできない」と、結局なんにも買い物もしないでそのまま自宅へ帰った。三歳の舞奈が一生懸命なぐさめてくれた。

 結局、いくらか体がましな日に、私はひとりで買い物をした。


 この男と結婚したことを心底呪った。

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