第5話 さいしょのひずみ

 恋は盲目とはよく言ったものだ。

 和樹に惚れた瞬間は、あの笑顔を見てからにほかならないけれど、恋というオブラートで包まれた生活は、永遠に続くというわけではない。

 結婚生活は、かなりはっきりとした現実的な日常であるからだ。にもかかわらず、のんきに日々を過ごせていたのは、新婚という名の毒のせいだろう。


 婚姻前、和樹は私のアパートから車で二時間近くかかるところに住んでいた。

 結婚の話がまとまると、私は和樹の住む町へ移り住もうと心に決めた。和樹と相談したわけではない。なんとなくそういうものだろうと思っていた。女は結婚したら寿退社するものだって。

 頭が古かったかもしれない。だけど、専業主婦をしてみたい気持ちもあった。

 私は商業系の短大を出ていて、ワードやエクセルはもちろん使いこなせたし、パソコン利用技術検定の資格もウェブデザイン技能検定の資格も持っていた。商業簿記・工業簿記なども学んでいたし実績もあるのだから退職してもどこかしら勤め先が見つかるだろうという自信はいくらかあった。

 けれども、長年勤めた職場を辞めることは、やはりどこか寂しかった。

 仕事を辞めるということよりも、仲間と離れることが、この会社と自分との関係がすっかり切れてしまうということが、なにより寂しかった。

 忙しかったけど、職場環境はよく、親しくなった人たちがたくさんいた。あらためて、自分は幸福な日々をすごしていたんだと実感した。


 それに、アパートは実家から車で二十分ていどのところにあった。

 和樹と結婚するということは、実家からも車で片道二時間ぶん遠く離れることになる。自立したくてアパートを借りていたけれど、やはり甘えるようにときどき実家へ帰っていた。そこから離れるということはそれなりの覚悟が必要だった。


 その覚悟を、和樹はちゃんと知ってくれていただろうか?


 和樹は言った言葉をそのまま受けとる人だった。人の言葉の裏の解らない人だった。

 ほんとうは、和樹に引っ越しの手伝いにきてほしかった。重い荷物があるとか、私の父や弟への配慮とかしてほしい、もちろんそういうこともあった。

 だけど、一番には、自分を迎えにきてほしかった。


 引っ越しを決めた日、和樹は夜勤明けだった。だから私は遠慮した。

「新居のアパートで待っていて」そう、伝えた。

 だけど、その言葉の裏で、でも、私から言わなくても、「引っ越しの手伝いに行こうか」って言ってほしかった。


 新居のアパートを探すときも、私も住んでみたい間取りのアパートを探していくつかLINEで送ったのに、見てくれたかどうかもわからなかった。

 結局、和樹がふたつ、みっつあげた候補のなかから選ぶことになった。

 私は家を建てるわけでもないんだし、アパートはなるべく安くて広くて住み心地がよさそうなところを選びたかった。

 だけど和樹は新築にこだわった。

 新築されたアパートは、確かに真新しかった。だけど、キッチンもベランダも狭かった。

 どうして、私の要望を何にも聞いてはくれないんだろう。

 そう思ったけれど、それを言うのも面倒くさかったし、その部屋も決して嫌な部屋ではなかったから、まぁ、いっかと妥協してしまった。

 

 でもさ、そのころの私に言いたい。

 結婚生活は、はじめが肝心だよ。さいしょにこっちが妥協しちゃうと、ずっと妥協する生活を送らなくちゃいけなくなる。

 夫婦としてやっていくなら、三歩後ろを歩く女なんて、もう古いんだよ。男を立てるなんてさ、そんなの古い。

 女だって、自分の意思や意見は言うべきだよ。


 今思うと、このとき私たちの間には、最初のひずみができていたんだと思う。

 それを新婚という名の毒で、うやむやにしてしまったんだ。

 

 

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