第2話 結婚とは一時の暴走
診療所から帰ると、舞奈が「おかえりなさーい」と部屋から駆けよってきた。娘の母への愛情を感じると、自然と顔がほころんだ。けれどもそれは、束の間のこと。
玄関から廊下へあがりリビングへと続くドアを開けた瞬間、うす気味悪い空気の重たさを感じた。
ドアを開けたすぐのシンクで、もくもくと和樹が食器を洗っていた。表情のない顔でうつむきながら手だけはせわしなく食器を泡立てている。その全身から、真っ黒な闇のようなオーラが滲み出ているように見えた。
——なんだか、ますます具合が悪くなりそう。
隣接された畳の部屋で、寿也が横たわっていた。赤ちゃん布団も出してもらえず、畳の上に、じかに寝ている。そして、絶対に気のせいではない。お尻がこんもりと膨らんでいる。
「ただいま」
声をかけると、和樹はこちらを見もせずに「おかえり」と小さな声で返事した。
この男はもともと声が小さい。百八十センチも身長があるのに体重が五十キロ程度しかなく、腹筋とよばれる筋肉の存在はどうも見あたらない。脱がせると、この細身の下腹部に内臓が収まった膨らみが締まりなく垂れさがっている。お腹に力がないから声がでないのだ。
声質そのものは嫌いじゃぁなかった。太く低い男の人の声。
けれども、腹筋の働かない声は、話していてもぼそぼそと聞きづらくてイライラする。
——私、たった今、病院へ行ってきたところなんだけどな。
言いたいのをぐっとこらえ、「寿也、ごはん食べた?」と尋ねた。
「食べなかった」
「えっ?」
シンクの三角コーナーに離乳食がこんもりと捨てられているのが見えた。
「捨てたの?」
「うん」
和樹はまだ、うつむいて食器を洗い続けている。
「どうして?」
私の問いにようやく顔を向け、「食べなかったんだから、仕方ないじゃん」と言い放った。
「ミルクは?」
「ミルクは飲まないじゃん」
「せめて、麦茶は?」
「飲ませてない」
「えーーっ?」
私は息をのんだ。
「それって私がいない間、飲まず食わずだったってこと? おむつも替えてないよね」
和樹は無言で私をぼぅっと見て、「忘れた」とぼやいた。
言いたいことは山のようにわいてきた。それとともに、どっと疲れが押しよせてきた。この男を目のまえに、私は何度、この疲れを飲みこんできたことだろう。
そして、何度目かの自分への問い。
私は、どうしてこの男と結婚したんだろうか?
いや、あれは一時の暴走に過ぎなかったんじゃないかって、それは今でも思う。
点滴のためいくぶん楽になった体を自分で励ましながら、畳に横たわっている寿也のところへ歩みよった。
そのとなりで舞奈が「お腹すいちゃった」と私を見あげた。
私は渾身の力をこめて、シンクに立つ男を呪った。
いったい食器洗いに何時間かけてんだよ!
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