夫婦劇場

木村 まい

シーズン1 第1話 点滴の日

「はぁ……」体ひとつぶんがやっとおさまるベッドに寝そべり、私はため息をついた。500ccの点滴ボトルからぽたぽたしずくが垂れてくる。ぼんやりながめた。か細い針のような先端からゆっくり時間をかけて滴っていく。


 昨夜からお腹が痛かった。何が原因だろう。家族そろって同じものを食べたっていうのに、私だけが吐いたし下した。おふとんに入った直後に下腹のほうがもよおしはじめ、家族が寝静まってから、私はひとり苦しんだ。

 4歳の舞奈(まいな)を起こしたら悪いと思ったし、生後10ヶ月の寿也(ひさや)には、悪いというよりは静かに寝ていてほしかった。

 だけど、和樹にだけは絶対に気づいてほしかった。やさしく吐いている私の背中をさすってほしかった。

 だけど、絶対にそんな奇跡は起こらない。

 私はたったひとり苦しんだ。

 さなかに寿也がぐずりはじめた。

 幸か不幸か、寿也は完全母乳で育てていた。好んでそうしたのではない。舞奈のときはちっとも出なかった母乳が、なぜか寿也のときには溢れんばかりに分泌した。そのうえ寿也は粉ミルクを嫌がった。何度ためしてもベッとはきだしてしまう。粉ミルクも様々なメーカーからサンプルをもらったり、少量パックのを買って試したけれど全滅。飲み口が気に入らないのかと思ってそれもいくつか試したけれど駄目。お金の無駄だと思ってあきらめた。

 粉ミルクなら、こんなとき和樹にミルクをたのめるのに。

 それに寿也が泣きだしても、当然のように和樹は起きない。この男は、一度寝ついたら何があっても目を覚まさないのだ。

 下痢嘔吐のゲリラ戦をむりやり中断させ、急いで手を洗い、寝室へ戻った。これで舞奈まで起きたら大変なことだ。

 私は寿也を抱っこしながら和樹を蹴った。

 すると、迷惑そうに寝返りをうち、布団を頭までかぶった。


 泣きたい。


 寿也に乳をあたえながら、私は中島みゆきさんの「時代」をくちずさんだ。


 「そんな時代もあったねといつか笑える日がくるわ♪」


 本当かなぁ。

 それって、私がこの男を呪い殺したあとじゃない?


 寿也は、寝ついたと思って布団に寝かせると、たちまちぐずった。しかたなく抱いてやるとまたうとうとし、しばらく時計をながめてやりすごした。もういいかなと思って、布団にそっと、それこそ割れ物でもあつかうように慎重に布団へ寝かせるのに、どうして抱っこやめようとしてるの気づくんだろう。

 お腹もまたごろごろしてきたし、すぐにトイレへ駆け込みたい。

 何ごともないように安眠している和樹が妬ましくてならなかった。

 もう、我慢の限界だった。このままではふとんにはいちゃう。

 和樹のふとんをはがし、隣に寿也をおいてはがした布団をかけると、トイレへ足音たてずに急いだ。


 嘔吐下痢がひとまず落ち着いたので寝室へ戻ってきたら、寿也は和樹にぴったりくっついてよく寝ていた。


 なんだよ。

 ぼんやり思った。

 男も、赤ちゃんが産まれたら母乳が分泌すればいいのに。


 ろくに眠れず朝がきた。

 和樹も子どもたちもケロリとしている。


 体調不良だというのに洗濯をし、朝食を準備し、和樹が起きたら病院へ行こうと思っていたのに、土曜日だからか少しも起きやしなかった。

 うちは寝室が2階にあり、ベランダへ洗濯物を干していた。和樹が窓側で寝ていたから、そこを通らないと洗濯物を干せない。リビングの窓からとなりんちの旦那さんがふとんを干している姿がみえた。うちも、これくらい気が利けばしいのに。残念くじをひいたような気持ちになった。

 時計が九時をまわったとき、いよいよ苛立ちがピークに達した。私は洗濯物の押しつまったかごをかかえ2階へあがった。


 寝ぼけながら和樹が「おはよう」とのんきにあくびした。

 たちまち私は泣き出してしまった。

 和樹は「突然泣かれても困るよ」となだめるでもなく不機嫌な声でぼやいた。

 私が夜の惨事を伝えても「辛いなら、寝ていればよかった」などと言い、じゃあ、寿也の面倒をみてくれとたのむと、たちまちたじろいだ。

 そんなの知らない。

 瓶詰めの市販品の寿也の離乳食の説明をし、舞奈の歯磨きや洗顔、整髪、食後の食器洗いなどを頼み、さっさと家を出た。

 何の事情も知らない起きぬけの舞奈には悪いことをした。

 私は目をこすりながら、青い軽自動車の運転席に乗り込んだ。


 自宅から車で20分ほどの距離にあるクリニックで、私はウイルス性胃腸炎の診断を受けた。

 脱水の症状があるからと、点滴を受けるように言われた。


 うっかり携帯電話を忘れてきてしまった。

 今ごろ和樹は寿也と舞奈との襲来になかばパニックを起こしながら、食器を洗っているのかな。

 想像すると、悪い気はしなかった。

 むしろ、やれやれ、もっとやれ。

 がんばれ。

 そう思った。


 もう少し、こうして寝ていたい。

 つかの間の休息だ。


 カーテンのむこうで看護師さんの歩く音や、作業する音が聴こえる。

 見上げると、相変わらずボトルから点滴の雫が滴り落ちてくる。血管を介して体内にミネラルの含まれた水分が浸透されていくのを感じる。

 まだ、半分くらい残っているだろうか。

 それは、とても静かな情景だった。

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