思い出となる前に
杉内 健二
序章
序章 令和二年 三月
横殴りの雨だった。もちろん傘を持ってはいたが、役に立っていたのかどうか実際のところわからない。掛け始めたばかりのメガネは水浸しで、ズボンも濡れまくったせいで肌に貼り付きまくっていた。
どうしよう……。
そう思って立ち止まり、彼はそこで初めて、そんな状態を知ったのだ。
ただとにかく、目的の場所は目の前にある。そこだけが昼間のように明るくて、まるで別世界のように浮き上がって見えていた。
あと十メートルも進めば、彼もそんな空間に入っていける。
そうしていれば、立ち止まってさえいなければ、果たして違った未来があったのか?
彼は心でこう思い、その後に起きた過去を心奥底へ追いやろうとするのだ。
ところがまったくもってうまくいかない。
気付いた時には、遅かったのだ。
あっという間に目の前までやってきて、
――来るんじゃなかった!
そう悔やんだ時には彼への声を聞いていた。
「よくもまあノコノコと、こんなところまで来れたわね!」
そんな罵声が響き渡って、いきなり頬に衝撃だ。
それはよろめくほどで、さらに手にしていた数珠が当たって強烈に痛い。家に帰った時には左目が出血、母親が驚くほど真っ赤に染まっていたらしい。
確か途中で振り返ってみると、女性は地べたに座り込み、その肩を男性らしき影が抱きしめていた。そしてその時、その影が彼に向け、突然大きな声を出したのだった。
「こんなことになって申し訳ない。本当に、申し訳ない!」
その後も、似たような言葉が聞こえたが、彼は振り返ることなく歩き続ける。
それからどこをどう歩いたのか、ずいぶん遅くなってから自宅に着いた。そして玄関に入ったところで倒れ込み、気が付いてみれば病院のベッドに寝かされている。
そんなことから二十年。当初は生きる気力も失っていた――実際、大学を一年間休学してしまった――が、これが若さというものなのか、一年過ぎ去った頃にはそこそこ元気になれていた気もする。
そしてまた、一年ぶりにここに来た。
吉崎涼太、三十八歳。昨年から、沖縄にある小児科医療センターに勤めていて、たった一日の休みだからそうもゆっくりしていられない。
羽田から実家までは一時間ちょっとで行けるのだが、行き来の時間を考えれば滞在時間は僅かしかない。だからまっすぐここへやってきて、二十年前にも入った蕎麦屋でトロロ入りのそばをゆっくり食べる。出されたお茶も味わって、そうしてやっと頂上目指して歩き出すのだ。
京王線高尾山口駅から少し歩くと、ケーブルカーに乗れる清滝駅前広場がある。
そこからすぐ右手にある一号路を登っていくのだが、薬王院の参道でもあるこの道は平日だろうがいつもけっこう人がいる。そんなハイカーたちを追い抜きながら、ひたすら前だけを見つめて進んでいった。
あっという間に高尾山駅に着いて、そこで着ていたフリースをリュックの中に仕舞い込む。そうして汗ばんだ顔をタオルで拭いて、彼はそこでやっと辺りの景色に目をやった。
昔と、何も変わっていないようだが、きっと気付かぬだけだろう。なんと言っても二十年だし、遠くに映るビル群だって、きっとあの頃とは違っている筈だ。
そんな感じを毎年思って、彼はこの二十年間、同じ日、同じ時刻にこの場所に立った。
そして誰に言うでもなく、「さあ、行こうか……」と呟いてから、再びリュックを背負い歩き出すのだ。
しかしさっきまでのような早足ではなく、そこからは妙にゆっくり、一歩一歩踏みしめるようにして彼は上へと進んでいった。
それでも、一時間もすればあっという間に頂上だ。
途中、急な階段が続いて多少苦しい思いもしたが、二十年前を思えばなんとも気楽な道のりだといえる。
そうして頂上に着き、正面に見える富士山を眺めながら岩壁に腰を下ろした。
ちょっとの間、山々の景観を楽しんでいるうちにあっという間に汗も引く。彼は再びフリースを着込んで、さらにリュックからワンカップ大関を二つ取り出した。その一つを岩壁の上に静かに置き、手にある方の蓋を慎重に外し取る。それからまるで乾杯でもするかのように、それを置かれている方にコツンと当てた。
ゆっくり一口……彼にとって、やはり一年ぶりとなる酒だ。
カアっと熱いものが喉元を通り過ぎ、ストンと胃の中に到達する。震えるような感覚が腹にあり、ほんの少しだけ胃の中が熱くなった。
――あの頃は、こんなもんじゃなかったな……。
そんな思いとともに、彼は過去の感覚を思い出そうとする。
確か最初の一口で、喉から腹にかけてが大変なことになった。
それでもなんとか飲み終えて、病室を出た途端いきなり気持ちが悪くなる。今にも吐きそうでトイレに駆け込み、顔を便器に向けたがぜんぜん吐けない。
次第に辺りが回り始め、彼は心に強く思ったのだった。
――もう二度と、酒なんか飲むものか!
そうして彼は、それ以降特別な日以外、酒を一切飲んでいない。
しかし本当のところ、酒を遠ざけているのはこの経験だけのせいじゃなかった。
年に一回、ここで日本酒を口にする以外、一切アルコールを口にしなくなったのはまったく別の理由からだ。
そんなことを思い出し、彼は再びリュックサックに手を入れる。
そこから引っ張り出したのは、そこそこ厚みのある日記帳のようなものだった。
それを膝の上に置き、暫し眺める。
するともうほとんど最後の方に、小さなしおりが挟んであった。
彼はしおりのところのページを開き、そこに書かれている日付を見つめる。
三月十三日。
そしてその日は土曜日だ。
彼はこの二日後の月曜日に、ある高校の試験を受けた。
だからきっと、残りはあと一、二ページなのだ。
日付からすれば、もうそうそう時間は残されていない。
そんなことを悟ってからは、彼はここ何年間も、次のページを読めないでいる。
ここで毎年、同じページを開き見て、そのまましおりを挟んで閉じた。
そしてまた、
今年も同じところをゆっくり開き、
そのまま天を仰いで心に思った。
――優衣、今日こそ、読ませてもらうよ……。
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