何事も破壊が付きもの
フォレイスタ
短編小説
これまで続いていたものを破壊する者がいたら、その対象が自分であったとしても国であったとしても、彼らを芸術家と呼ぶべきだ。
「スワリさんもっと速く走ってください」シャンスは目の前を走る背の低い女の背中に向かって言った。
シャンスとスワリは警官に追われていた。日が沈み、おんぼろ街灯と点滅している信号機が暗い街の通りを照らしていた。そして後ろからは警官が振り回している懐中電灯が僕らの背中をちらつかせていた。
「おい」スワリが振り返って言った。「もしかするとあれはペンライトを持って追いかけてくる私の熱狂的なファンかもしれないぞ」
彼女はいつもこう僕が焦っているときに冗談を言ってくる。いったい捕まったらどうするんだ、と僕がむすっとした顔をするとそれを見て笑った。
「ははっ なんだその顔は」
うんざりする同じような流れを何度も経験しているのに、どうしてまたスワリの手伝いをしているんだろうか。そもそもスワリのせいでいつもこうやって追いかけられる羽目になっているのに。スワリだけが勝手に捕まってくれないだろうか。そのときはどうか僕のことは売らないでください。
タイミングがあれば彼女に仕返してやりたいが、それは難しそうだ。彼女のすることはいつもシャンスの一枚上手なのだ。知識があり頭がよく、軽く冗談を飛ばすユーモアもある。だからシャンスはいつも彼女の自由奔放さに振り回されている。
でもスワリにも欠点がある。それはこの足の遅さだ。
今も全力で手足をばたつかせているスワリの背中をシャンスが押しながら走ってやらないといけないのだ。
「もうそろそろ、その燃費の悪い走り方なおしてくださいよっ」
「うるさいなあ。これでも必死に走ってるんだぞ」
後ろの警官がもうそこまで近づいてきていた。他の警官もそろそろ駆けつけてくるかもしれない。
僕は目の前を走る彼女の首元をガッと掴んで足を止め、肩の上に乗せるかたちで抱えた。消防士が火災現場から怪我人を運び出すときのファイヤーマンズキャリーだ。
「おいやめろ。わたしはそうやって抱えられるのが嫌いだって言っただろ」
わめく彼女を無視してシャンスは後ろの警官をさっさとまくべく電光石火の速さで走った。
シャンスはスワリを抱えたまま彼女の住まいであるアトリエに着いた。
このアトリエは郊外の見晴らしの良い高台にある。画材や絵具などの絵画道具に加えて家具や台所までが設置されているが、元々ここはただの大きめのガレージだった。それを少し改装してスワリはここで小さい頃から何年も一人で暮らしているらしい。道に面した正面に分厚いシャッターがあり、その横に小さな玄関扉があるだけで、こうして見ると外見はただのガレージだ。
中に入るとすぐにリビング兼アトリエの空間が広がっている。中央に置いてある大きな作業机が天井からの照明を浴びて、この部屋の家具の中で一番の主役みたいだ。右にはあとからくった小さな部屋が二つあり、一つは倉庫として、もう一つは寝室としてスワリが使っている。
シャンスはソファに身体を倒した。バフッと寝転ぶとどこまでも沈んでいくこの心地良いソファはこのアトリエで唯一高級感がありシャンスのお気に入りだ。その他の置いてある家具はどれも少しきれいな粗大ゴミと言えるようなものばかりだ。理解出来ないがスワリはそういう古びた家具の方をむしろ好んでいる。
「疲れたー」肺にたまった空気を吐き出して、ゆっくり鼻から息を吸うとアクリル絵具の匂いがした。
横を見ると、スワリはもう次のグラフィティ(ストリートアート)の準備に取りかかっていた。またすぐに外へ落書きに行くつもりだ。彼女が外で描く絵は芸術的でメッセージ性があって僕は好きだ。コンクールに出せばきっと表彰ものなのに、スワリはグラフィティでしかその絵を描かない。
「わたしを抱えて疲れたとは失礼な男だな。」
「スワリさんは小柄で軽いですけど、警官を走って振りきるのは一人でも疲れますよ」
「おまえは臆病なんだよ。なにもこのアトリエまで私を抱えて全力で走ることはないんだ」
「万が一にも別の警官に出くわすこともあるかもしれないじゃないですか」
「大袈裟だなー」彼女は笑った。「抵抗する女性を抱えて全力で走るのを見られる方が職質ものだろ」
「確かにそうですね」シャンスも笑った。
「そうだろ」スワリはカップに紅茶を注いで口にした。
スワリは大学の先輩だ。大胆な人で、自分と比べてもちろん身長も慎重さも足りていない。
「それにしてもお前は本当に法律だの規則だの気にしすぎだ。もっと自由に生きたらどうなんだ?」スワリが言った。
「これは僕の生き方なんですよ。僕は法律から学校の校則まで守るべきルールは守って行動したいんです。教師に言われたことにも僕は背いたことが一度もありませんよ。これは僕が誇れるポリシーですよ」
「今となってはもうないようなものだろ」
そうだ。シャンスの手はもう汚れてしまっていた。シャンスは彼女に簡単に騙されて共犯になってしまっていたのだ。彼女のグラフィティを手伝ってしまったのだ。
あの日バス停で待っていると、講義で顔を合わせていたスワリに声を掛けられた。面識のあってスワリに協力してくれるパートナーが欲しいから手を貸して欲しいと頼まれたのだ。特に断る理由もなかったし、そのときは時間が有り余っていたので、シャンスは彼女について行くことにした。
許可は取っているからと人通りの少ない時間帯に、彼女はとある倉庫が並んでいる区画のコンクリート壁に自分の作品を描いていた。シャンスはその隣でそれを手伝っているところだった。
「おい、逃げるぞ」彼女は道具をササッとしまって言った。
「どうしてですか?何から逃げるんです?」
「管理人が巡回しに来たんだ。バレたら捕まるぞ」
僕は夢にも思わなかった。まさか彼女が無許可で壁に絵を描いていたなんて。シャンスは彼女にまんまと騙されてしまったのだ。
シャンスにとって犯罪を一緒に犯してしまったことはとても許せる問題ではなかった。このウェスミンで警察に捕まると些細なことでも酷い仕打ちが待っているからだ。見つからなかったから良かったものの、もしものことを考えると鳥肌が立った。
もう二度とこんな事はしないでくれとスワリに言ったが、「お前はもう共犯者だ。これからも頼むぞ」と強く押されて断れなかった。
それからシャンスはスワリの“見張り役”として手伝うことにした。スワリが度を超した行動を取らないように横で見守る。これなら僕は法律を守ることはできなくても、法律の味方でいられるのだ。
「おまえ生きづらいと思わないか?」スワリが言った。
「全然思わないですよ」
シャンスたちが暮らすこの国は東西に長く伸び、東地区と西地区に別れている。東地区にある都市は海に面しているため貿易が盛んに行われていて裕福な家が多い。反対に西地区の都市には広い平野と国境となっている山々があるだけで他には何もない。貧しい者や社会のはみ出し者が多く、治安も悪い。
その西の地区において指折り3つに入る治安の悪さのウェスミンという都市がシャンスの住む都市だ。深夜の暴力事件や窃盗事件というのは日常茶飯事で、この都市で安全に暮らしていくためには夜に出歩くのは控えないといけないのはウェスミンの常識だ。
親のいない子供や既に働いている子供も少なくなく、親に殴られるくらいのことは彼らの間では取り立てて問題にはならない。それらの類いによる問題を抱えている子供はウェスミンに多い。
シャンスもその一人だ。
まだ10歳にも満たない頃だった。今よりも目の位置は低く、周りにあるもの全てが大きかった。自分の存在なんてこの広い世界の中でちっぽけなものだった。それでも自分の未来を壮大に思い描いていた頃だ。
その日、シャンスは大きな不安を抱きながら公園から家に向かって走っていた。
数分前、空き地の公園で友達と遊んでいると、近くに住むおじさんがシャンスの所に駆けつけて言った。「シャンス、おまえの家が大変なことになってるぞ。何があったかは知らんが犬(警官)が家を囲んでる」
家のある通りに出ると警察車両がシャンスの家の近くで何台も停まっているのが見えた。野次馬もすでに湧いていた。その様子を目にして嫌な予感が頭の中をぐるぐる回る。
警察が家に駆けつけている時点で、母さんか父さんに逮捕状が出たんだろうということは、子供の僕にも分かっていた。ただこのウェスミンの刑罰は厳しい。最悪もう会うことはできないことだって十分にあり得る。そんな懸念がまだ10歳弱の僕にまとわりついて離れない。考えれば考えるほど最悪が更新されていく。
野次馬の間を通り抜け最前列まで出てくると、家の周りには進入禁止テープが貼られていて見張りの警官が立っていた。家の方を見ると僕の家の扉は警察に開放されていた。
様子を見ている間に何人かの野次馬の声が聞こえてくる。
「この間の連続殺人犯がこの家の奴だったんじゃないのか」
「先週の警官暴行事件のあれじゃないのか」
「この家の主人が奥さんを殺したって聞いたわよ。だってあそこの夫婦………」
みんな自分勝手に適当なことばかり言って、お前らには関係ないだろ。声を上げて怒鳴りつけたかったが、シャンスはそれより家と警官の様子に注意を向けた。
間もなく父さんが手錠を繋がれて出てきた。
父さんが捕まったみたいだった。父さんはいつも時間がある時に外に遊びに誘ってくれていた。いま家から出てきた父さんの目元は暗く、表情も陰っていた。
母さんも家にいるのだろうか。
次の瞬間シャンスは目を見開いて息を飲んだ。母さんまでが手錠をつけられて警官に連れられて出てきた。
その日を境にシャンスはウェスミンの数カ所に設置されている保護施設に預けられた。シャンスの両親がどういう理由で捕まったのか、詳しいことは知らない。どれほど酷い行いをしたのかも知らない。父さんと母さんが本当に悪いことをしたのかさえも知らない。
でも正直、そのときのシャンスにとってそんなことはどうでも良いことだった。家族が自分の全てだった。僕の帰りを待っていてくれる温かい家があったから、安心して暮らしていけた。その家を僕は失った。
父さんと母さんに戻ってきて欲しかった。いつもの当たり前な日常が戻ってくれば他は何だってよかった。朝、「おはよう」と言ってくれる母さんも、仕事帰りにお土産を買ってきてくれる父さんもどこに連れて行かれたのか分からない。居場所が分からないから追いかけることもできない。どうして僕の両親が連れて行かれたんだ。何が僕の両親を奪っていったんだ。どうして僕の大切なものが奪われないといけないんだ。僕が何をしたっていうんだ。
後日、シャンスの両親が連行されて4日が経過した日だった。父さんと母さんはシャンスの目の前で殺された。
シャンスは保護施設を抜け出して家にこっそり戻ってきていた。警察の捜査が入っていたせいか部屋の様子はいつもよりも冷たい感じがした。家にあるものがほとんど押収されてしまったらしく、残っているものが少ないせいだ。つい先日までは確かにあったものが今はもうシャンスの記憶にしか残っていない。虚しさがシャンスに重くのしかかる。
どうして、どうして、どうして。
いくら涙を流しても悲しみは消えない。胸は針で刺されたように痛かった。
持って帰れそうなものは全てバッグに入れて、帰る用意をしているところだった。家のすぐ前で車の止まる音がした。家の扉がバタンと開いた。振り返ってそこにいたのは父さんと母さんだった。
「父さん、母さん!戻ってきたの?」
「シャンス、お前がどうしてここにいるんだ」父さんが言った。シャンス?と母さんも後ろから顔を出した。
「丁度荷物をとりにきたんだよ。父さんと母さんはやっぱり無罪だったんだね。そうだったんだね」シャンスは必死に言った。
父さんと母さんは顔を見合わせた。二人の表情には困惑と焦りが混じっていた。
「聞いてシャンス。」
「いやだ。違う。何も言わなくていい」
「いいえ」母さんは続けた。「まず私たちは国の法に逆らってしまったの。無罪なんかじゃないのよ、ごめんね。だからあなたは私たちの近くにいてはいけないの。今すぐここを出て私達から離れなさい。それに私たちといるとあなたの身まで危険なの」
「いやだ。離れたくない。どんなに父さんと母さんが悪くったっていいよ。離れて暮らすなんて嫌だ。父さんと母さんがいない生活なんて僕にはできないよ」シャンスは泣きながら抵抗した。
「仕方のないことなの。私たちも急いでいるから、ほら」母さんはシャンスの涙を手で拭いながら言った。
「じゃあどうして今ここにいるんだよ」
「それはね......」
外に再び数台の車の止まる音がした。車のドアが閉まる音が聞こえた後、何人か静かな足音でこちらに向かってきた。
「シャンス奥に隠れていろ」父さんが声を潜めながら鋭く僕に言ったあと、玄関から出る準備をした。
「はやく」
シャンスは訳も分からず言うとおりに部屋の奥で目立たないように屈んで身体を小さくした。
「ごめんねシャンス」母さんが最後にそう言って父さんと玄関から出ていこうとしたそのとき、勢いよく外側から玄関扉を押し開けて武装した警官が入ってきた。
そして、父さんと母さんを確認した瞬間に何発もの銃声が響いた。シャンスの数メートル目の前でそれは起きていた。父さんと母さんは重力に逆らう力を失ってそのまま倒れた。警官数人が二人を囲いこんでいるその足元の床にはどろどろと2人の血が流れているのが見えた。
一人の警官がシャンスを見つけて銃口を向けながら言った。「なんだ、子供がいるぞ」
「どうして撃ったりなんか.....」シャンスは声を震わせながら言った。
「どうして僕の父さんと母さんを殺したの。」シャンスはゆっくりと奥から出て来た。他の警官らも子供がいることに一瞬驚いた様子を見せた。
そこにいた一番年をとっているでだろう男の警官が状況を察してシャンスに近づいて言った。
「君のご両親は連行中に逃亡したんだ。連行中の逃亡した容疑者は射殺してもいい決まりなんだ。君の両親はルールを破り、俺たちはルールを破った者を処罰しただけなんだ。したくてした訳じゃないんだよ。すまないね」
父さん。母さん。目の前に倒れている2人の死体の姿は消えることのない記憶となった。それからシャンスは心に殻を作っていった。その殻から抜け出さないといけないと思いながら。
シャンスは土曜の朝からスワリに言われてアトリエに来ていた。鍵が開けっぱなしだったので勝手にいつも通り右側にある玄関から入ると、スワリはソファで昼寝をしていた。スワリさん、と声をかけるとピクッと反応して目を覚ました。
「そんな暇そうにしてるのにどうして僕を呼んだんですか?」目を細めて言った。
「おもしろいものを見せてやろうと思ってな」スワリはソファからピョンッ立ち上がり、絵画道具を一式まとめて収納している部屋に入って行った。そして目をキラキラさせて興奮した息づかいと共に部屋から出てきた。両手には少し大きな段ボールを抱えていた。それは何なのかと尋ねるとスワリは
「少し前から裏で回り出した“ルギー”っていう凄くおもしろい塗料だ」と答えた。
都市ウェスミンは厳しい取り締まりが行われていて、他の都市では流通している物がウェスミンでは正規ルートで手に入らないことがよくある。危険物だけじゃなくて新しく新鮮な珍しいものもウェスミンには入ってこない。だから、表では何代も世代の遅れた製品が流通している。そのせいで他の都市の人々の中には、ウェスミンのことを博物館と言う者もいる。
しかしウェスミンにはそんな政府の目をくぐり抜けて存在する裏ルートが隠れて存在あるらしい。スワリが手に入れたそのルギーもそのルートから調達してきたものだそうだ。
スワリは段ボールから液体の入った缶を5個取り出して、その内の一つを開けた。そのルギーという塗料の見た目は少し青みがかった緑色をしていて、あまり綺麗といえる色ではなかった。そして段ボールに一緒に入っていた大小ある専用の筆の中から一番小さい筆を一つ袋から取り出した。
「ちょっと大きめの薄い木板を持ってきてくれ」とスワリに頼まれて、僕は外に出てガレージの横に積まれている粗大ゴミの山の中から適当なものを持って来た。
スワリはそれを壁にたてて、筆を塗料に少しつけた。
「少し離れておいた方がいいぞ」スワリに言われてシャンスは彼女の1歩後ろに退いた。
そしてスワリは胸を高鳴らせながら木板に向かって筆をあげた。シャンスはその横で何を見せたいのだろうか、とただ突っ立って様子を見守るだけだ。
そのまま木板に筆を置いた、かと思うと素早く筆を走らせ一瞬の内に可愛らしい子ネコの絵を描き上げた。
「よし」と言ってすぐに缶と筆を置いて電気を消した。
室内が暗くなって初めてその塗料が微かにオレンジ色に発光していることに気がついた。スワリの姿がうっすら見える程度の微量なオレンジ色の光がネコから放たれていた。
「綺麗だろ」スワリが言った。
「確かに綺麗ですけど、蛍光塗料なんて大して珍しいものじゃないですよ」
「蛍光塗料はため込んだ光をちょっと放出するだけだ。ルギーは自ら光エネルギーを生み出しているんだ。それに、これからさらに発光していくぞ」
スワリの言う通り可愛らしい子ネコの線がどんどんオレンジ色に強い光を放ち、ネオン管の様な綺麗な燈火が部屋を満たしていった。
「これは凄いですね。部屋に小さな太陽が降りたみたいですよ」
さらに光が強くなっていく。
「え、これどこまで光るんですか」
「もうすぐ止まるぞ」そう言ったスワリの表情はこれ以上ないほどワクワクしている。
「ほら色が白くなってきただろ?」
本当だ。オレンジ色の光の中から白い光が混ざってきていた。そしてどんどんその白い光が優位になっていく。
「このまま白くなった後どうなるんですか?」
子ネコの線から放たれる光がすべて白くなった。そしてスワリは答えた。「爆発する」
キーンという高い音が数秒聞こえた後にシャンスの目の前で木板が爆発した。
驚いてか、吹き飛ばされてか、気づいたらシャンスは床に倒れていた。部屋はもう静まっているはずなのに耳の中ではキンキンという音がまだ聞こえている。顔に降りかかった木のカスを手で払い落とし、上体を起こした。数秒前、なにがあったんだろうか。呆然としているシャンスの横でスワリは抑え切れんばかりの興奮で辺りをピョンピョン跳ねていた。
「絶対に駄目ですよ」シャンスは部屋の中央にある作業机を叩いて言った。
爆風で散らかった部屋をひとしきり片付け終わった後のことだ。スワリが自分で近日にでもルギーを外で使いたいから手伝ってくれと言いだしたのだ。それもウェスミン中央議事堂の近くに設置されている“平等の石碑”でだ。
このウェスミンに存在する全ての規則法令はこの中央議事堂で取り決められている。
その建物はお城のようなたたずまいで、周辺に広がっている小さな建物が顔を上げれば、首を一太刀で切り落とすかのような威圧感がある。
「あんな少量でさっきのあの爆発の威力ですよ。外でやるには度が過ぎています。それも中央議事堂の近くだなんて論外です」
「人に危害を加える訳じゃないんだから安心しろ。あのふざけたモニュメントに唾を吐くだけだ」
「スワリさんが危険なんですよ。こんな目立つものをあんな警備が厳重な場所の近くで使えばどうなるかなんて言わなくても分かるでしょ」
「もちろんだ」
「それでもやるって言うんですか?」
「だからお前に手伝って欲しいんだ。けどもしお前が嫌だと言うなら別に構わないぞ。別の方法でもやってやるつもりだ」
スワリの声はいつもの軽い調子ではなかった。その声は真剣で、決意を固めた人の落ち着いたものだった。
「テロリストにでもなるつもりですか」シャンスはスワリを挑発するように言った。
「まるでわたしが悪者みたいに言うじゃないか」
「スワリさんがしようとしていることは、言い換えればウェスミンの政府機関の目の前で爆弾テロを仕掛けようとしているんですよ。そんなの駄目に決まっているじゃないですか」
「確かにテロかもな。だが正義か悪かなんて見方の問題だ。腐った政府に対するテロ行為なら市民にとっては正義の革命運動だ。シャンス、おまえは市民革命を快挙ではなく暴挙と考えるのか」
「そこまで言ってないですよ。僕は単に議事堂の近くで目立つようなことはしない方がいいって言っているだけじゃないですか」
お互いに一歩も譲らない口論が続いた。いくら説得しようとしてもスワリは考えを変えてはくれなかったし、それは僕も同じだった。どちらにも心中揺るがない何かがあって、お互いに一歩も譲らない口論の末に、最終的にはお互いに相手の悪いところを言いたい放題言う言葉の嵐となった。
2人の間でぶつかり合う多色な暴言が火花を散らしていた。そんな言い争いの中、シャンスはスワリの一言に我慢の限界がきた。
「そんなに僕がどうしようもない駄目人間みたいに言うのならもういいですよ」
シャンスはアトリエを飛び出した。もう付き合ってられない。これまでスワリの頼みを聞いてあげていたのは僕の方なんだ。もともと自分からここに残っている必要はなかったのだ。そうだ、どうして僕はスワリの手伝いなんか続けていたんだろう。
スワリの一言が僕の逆鱗に触れた訳でも、傷付ける内容だった訳でもない。ただシャンスはスワリとの関係を一度見直すべきだと考えたのだ。
3日が過ぎた夜、すでに日は落ちて外は暗くなり始めていた。さっきから近くの通りを何台かのパトカーが通り、その度に回転灯の光が窓から入っていた。気にせずシャンスは自分の部屋で歯ブラシを加えながらラジオの放送を聞いていた。
パトカーのサイレンの音がまた聞こえてきた。きっとまた誰かが問題を起こしているんだろう。生まれた時からウェスミンで暮らしていると、意識しなければ気になることではない。
この時間帯は音楽放送がやっていて、今夜も聞き飽きた古い音楽がラジオから流れていた。何年も前から同じレパートリーの曲しか流れていない。ウェスミンの外で流行っている音楽や真新しい音楽は政府の検閲に引っかかってしまうからだ。
それでもラジオを付けるのはこの音楽放送の後、10分ほど今日のニュースが放送されるからだ。シャンスはその放送から唯一得られる新しい情報を聞くために、いつもこの時間にラジオをつける。その放送を聞けばその日ウェスミン内外で起きた新鮮な出来事を少しでも知ることができるのだ。情報が入ってこないこんな土地だから、なおさらシャンスはこの放送を楽しみにしている。
音楽放送が終わり、ニュースが始まった。シャンスは歯磨きを終えて土に水を含みながら聞いていた。
『ただいま入りました情報をお伝えします。先ほどウェスミン中央議事堂横の近くに設置されている石碑を爆破する事件が発生しました。爆発による負傷者は未だ確認されていません。今回の事件は単なる事故という可能性は極めて低く、現在警察は何者かの犯行とみて捜査中とのことです。おそらく先ほどからの_____』
シャンスは勢いよく口に含んだ水を吐き捨て、鍵も閉めずに部屋を飛び出した。外に出ると議事堂に向かって走った。
足の遅いスワリが一人で逃げられるとは思えない。あそこは警察の巡回も多い。もし捕まってしまったら、きっとウェスミンの監獄からこの先10年以上出られないだろう。ウェスミンの刑罰は厳しい。
もしかしたら既にスワリは捕まってしまっているかもしれない。
だめだだめだ。今考えたって仕方のないことは考えるな。行って状況を確かめてから考えればいい。
議事堂が近くまで見えてきた。部屋を飛び出したときより落ち着いて、街の音が徐々に耳に入ってきた。色んな方向から聞こえるパトカーのサイレンの音に紛れてはっきりと聞こえなかったが、さっきからあちこちで爆発音もしている。いつもより街が騒がしく警察の動きもせわしない。
事件現場にはもうすでに進入禁止テープが貼られていて警察が警備する周りに野次馬が集まっていた。近づいて奥を覗くと、高さが三メートルあった石碑は土台を残して破壊され粉々だ。足元を見ると吹き飛ばされた破片が散らばっていた。
野次馬の中にスワリが紛れているかもしれないと思って、背の低い女性を探した。しかし、「スワリさん」名前を呼んでも反応する人もいない。スワリはどこにいるんだ。
シャンスは二人の警官が現場を離れようとしているのが見えた。二人は無線でのやり取りをして、シャンスの近くに停まっている車両に近づいてきた。
スワリが捕まったかどうかこの人たちに聞いたら分かるかもしれない。考えるより先に警官の前に出ていった。出て行ってから自分はいったい何をしているんだろうと思った。それは今までの自分の行動からは決して考えられない行為だった。何かが自分を突き動かしたのかもしれない。それが何なのかは自分でも分からない。
とにかくスワリが無事なのか知りたい。捕まってさえいなければいい。捕まってさえいなければ先に僕が見つけて抱えて一緒に逃げてやる。
「犯人は今どこにいるんですか」シャンスは警官の正面に立って言った。
「うるさい、どけ」片方の背の低い方の警官がシャンスの肩を押した。目はまるで汚いものでも見るような目をしていた。他の警官がいつも自分たちに向けてくる目と同じだった。
「犯人が捕まったのかどうかだけでいいから教えてください」
「なんでお前に教えてやらんといかんのだ。邪魔だ」警官は舌打ちしてシャンスの顔面を殴った。そしてそのまま足裏でお腹に蹴りをいれた。シャンスはうぅ、とお腹を押さえた。カチャッという音に反応して顔を上げると、それはホルスターから取り出された拳銃を構える音だった。あの時見た同じ型の拳銃が目の前にあった。
「公務執行妨害だ。次俺の前に出てきたら殺すぞ」
心の中にゾッと何かが湧き上がった。シャンスの身体はピタリと止まり、思考が真っ白になった。これ以上考えると心が破裂してしまいそうだった。もうあの光景を思い出したくなかった。
「なんだこいつ、急に死んだような面して気持ち悪い」と警官の声が遠くに聞こえた。
今までにもこういうことがあった。シャンスは過去の記憶が蘇ってくるのが怖かった。できることなら二度とあんな光景を思い出したくない。だから考えないようにしていた。
だけどこれまで目を逸らし続けるほど、あの時の記憶はシャンスに与える恐怖を大きくしていった。シャンスの視界は狭くなっていき、興味を抱く感情は失っていった。
「何やってんだ」一緒にいたもう一方の警官が言った。「急いでるんだぞ、そんな奴放っとけ」
「あぁ分かってる」と言って目の前の警官はシャンスに背を向けて車両に向かった。
シャンスはそのまま立ち止まり、自分を守るためにスワリを追いかけることを諦める。自分の部屋に戻って布団に潜り、スワリとの出会いも一緒に過ごした思い出も全てまた視界の後ろに追いやって、何もない生活に再び安定を求める。そうやってまた自分を殺して自分のいない人生を送る。
かつての自分ならそういう未来になっていただろう。
だけど今の僕は違う。自分で前を向いて足を踏み出せる自信があった。
どうしてだろう。
ああ、そうか。
スワリに出会ったからだ。
彼女は色んなことに興味津々で、大胆で賢くて、僕の殻を壊して見える世界を拡げてくれた。彼女といると、もう少し外の世界を見ても大丈夫だと思えた。
たまに思うことがあった。どうして考え方が全く違うスワリと一緒にいれたんだろうと。スワリから離れようとすることもできたんだ。
いま、その答えが分かったような気がする。
僕はスワリみたいに生きたかったんだ。
「待ってください」シャンスは背を向けた警官の制服を硬く掴んで言った。
「その手を放せ」
「ここを爆破した犯人の特徴とゆくえを教えてください」
「お前、どうなるか分かった上で俺に絡んできているんだろうなぁ」その警察の男は再びシャンスの顔面めがけて拳を振るった。が、シャンスはそれをかわした。そしてそのまま二人とも服を掴んで取っ組み合いになった。
男はシャンスを押して遠ざけ、シャンスの脇腹に重たい膝の一撃を食らわせた。口からうめき声が漏れた。今度はシャンスが男の足を引っかけて地面に叩きつけた。もう後のことなんて考えなかった。
男はシャンスを引き剥がそうとするが、シャンスは必死に男を掴む。この騒ぎに人が集まりかけているところに、男が持っていた無線からノイズとともに連絡が入った。
『緊急連絡。西地区のミルセンで再び爆破事件が発生。議事堂付近で任務を終えた者は直ちにミルセンに向かえ。議事堂付近の爆破事件の犯人はすでに確保を完了した。なお現在、他の現場においても容疑者と思われる3名を確保しているが、未だ行方の分から......』
「どけ」男はシャンスを突き飛ばして車両に乗って走り出した。
スワリは捕まってしまったみたいだ。
結局自分には何もできなかった。
あの時から少しは成長していると思っていたのに、何も変わっていなかったのかもしれない。それに今回は止めようと思えば止められたはずだったんだ。スワリを失わずに済んでいたかもしれないのだ。
なんて僕は無力なんだ。また近くにいた人が手の届かない所にいってしまった。
母さんと父さんを失って、今度はスワリを失った。
帰路の途中、ようやく馴染んできたガレージのアトリエに立ち寄った。黄色い進入禁止テープはなく、まだ警察局の捜査が入っていないようだ。扉を開けて中に入ると天井中央の明かりがついていた。しかし、室内にスワリの気配はなかった。
シャンスはソファに腰を下ろし、顔を下に向けた。そして目を閉じた。壁に掛かった時計と机の上に置かれた時計の針の音が交互に響いていた。一方がもう一方の針に追いつこうとしているが、いくら経っても音の間隔は縮まらない。しばらく目を閉じてそんな時計の針の音を聞いていた。
ため息をついて目を開けた時だった。足元にスワリの顔が転がっていた。シャンスは声を上げ、全身がバネになったように飛び跳ねた。そして足をもたつかせて尻餅をついた。衝撃のあまり呆然としていると、小さく「クックックッ」と誰かが笑う声が聞こえた。今度は吹き出したように笑う声が聞こえた。それはよく聞き覚えのある笑い声だった。スワリの笑い声だ。
スワリは地下から手を出し、肩を出し、全身を持ち上げて姿を現した。
「スワリさんですか」シャンスは確認せずにはいられなかった。
「ああそうとも、どうしてそんな顔をしているんだ。気持ち悪いぞ」
「もう会えないと思っていた人が目の前に現われたんですから、そりゃあこんな顔にもなりますよ」
シャンスは手みじかに今日起きたことについて話しスワリに質問した。
「今日の連続爆破事件にスワリさんは関係しているんですか」
スワリは少し間をとって言った。「今日のウェスミン中で起きた爆破事件は全て私が指示したものなんだ」
「どういうことですか」シャンスは言った。
「私は小さい頃からここで一人で暮らしているんだが、その前は母さんと一緒だったんだ。私の母さんはウェスミン革命派のリーダーだったんだが、優しくて強い人だった。だけどある時、母さんは警察に嗅ぎつかれて捕まったんだ。それから私は知り合いの家に預かることになったんだけど、犯罪グループの主犯の娘だ、このガレージに居場所を与えられただけで一人で暮らすことになったんだ」
「革命派が警察に潰された事件ってあの10年くらい前の事件のことですよね。その事件のこと誰かに聞かされた覚えがあります。革命派の構成員の数がかなり多くて、でも捕まったのは主犯メンバーの数人で、警察にとって後味の悪い結果になったはず」
「そうだ。私の母さんは自分の意志で他の仲間の犠牲になったんだ。警察が嗅ぎつけていることも分かっていたんだ。だから母さんは前もって私に革命派を動かすための暗号を教えていたんだ。母さんが居なくなっても、代わりに私がウェスミンを変えれるように。ストリートに落書きしていたあれはグラフィティじゃなくて、昔の仲間にメッセージを伝える暗号だったんだ。まるで母さんが10年越しに帰ってきたように見せかけてな」
メッセージを見たかつての仲間が、10年越しに結集して革命を起こそうとしていた。そしてその決行の日が今日だったということらしい。シャンスは事の大きさに驚きの顔は隠せないが、スワリの言っていることの意味は概ね理解した。もっと細かく質問したいことは山ほど残っていたが、とりあえず話を進めることにした。
「この後どうするつもりなんですか」
「ウェスミンに革命を起こすんだよ」スワリの声には情熱が入っていた。この人は本気で言っているんだ。
「どうしてスワリさんがそこまで。スワリさんがする必要はないんじゃないですか?」
「このままじゃウェスミンの住民はずっと奴隷みたいな扱いをされ続ける。いまウェスミンは変わるときなんだ。そしてそれは私にしかできない。母さんから受け継いだ意志がある。それに、なによりさ___」スワリがニヤッとしてシャンスの目を見た。
「おもしろそうじゃん」
できるとかできないとか、責任とか無責任とか、危険とか安全とか、この人に言っても意味がないみたいだ。
「シャンス、これからまた手伝ってくれないか」
このままスワリと居続けると自分が危険な目に遭ってしまうかもしれない。警官に追いかけられるだけに留まらず、最悪の場合つかまって処刑されてしまうことだってあるかもしれない。だけど、このときシャンスはスワリとならどこまで行っても楽しめると思った。
「いいですよ」シャンスは数年ぶりに笑顔を見せて言った。
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