優成の背後に現れたのは、異形の存在だった。

 とはいえ頭から角が生えているだとか、背中から翼が生えているといった、人外らしい特徴がある訳ではない。二本足で立ち、二本の腕を持ち、四肢には五本の指を持ち、大きな頭がある……個々の特徴はどれもちゃんと人間のものだ。その姿は街灯に照らされているため全身くまなく見えており、実は尻尾があったという事もあり得ない。特徴的には、間違いなくそれは人間だった。

 だが、感情的には人間と認められない。

 街灯に照らされた肌は、ヘドロのような黒さと緑の混ざった色合いをしている。二本足で立っているが、背筋は老人のように曲がり、人並みの長さしかない首も縦ではなく斜めに伸びていた。二本の腕はだらりと垂れ下がり、力は全く籠もっていない。頭には毛髪が一本も生えておらず、染みだらけの頭部が剥き出しだ。腹はでっぷりと膨れているが、太っているというよりも、飢餓で苦しむ子供達のお腹のような……歪で痛々しい膨らみ方。そしてそんな身体を、服やらなんやらで隠そうともしていない。僅かに膨らんだ胸や、モノが生えていない股間など、女性的な特徴が丸見えだ。尤も、人並みに助平なつもりである優成でも、色香は全く感じられなかったが。

 何より目を引くのが、顔。

 白濁した瞳が、じっと優成を見つめている。半開きの口からは舌が伸ばされ、べろべろと口の周りを舐め回していた。涎も流れていて、顎や喉を汚していたが……目の前の人物は気にした様子もない。

 これではまるで――――


「餓鬼……」


 思わず優成は、頭の中に浮かんだ言葉を呟く。

 餓鬼。地獄に落とされ、飢えと乾きに苦しむ亡霊だったか。優成はオカルトに詳しくないのでこの程度の知識しかない。そんな優成ですら、さらりとこの言葉が出てくるぐらい、目の前の『人間』は異形染みていた。

 無論人間を化け物呼ばわりにするなど、ある種の罵声や差別心の現れと言われても仕方のない事。しかし優成の前に立つ人間……餓鬼は侮蔑を気にした素振りも見せない。優成の言葉を理解していないかのように、呆然と立っているだけだ。

 気にしていないのは優成の声だけではない。餓鬼は全身がずぶ濡れで、足下には大きな水溜りが出来ている。夏場とはいえ真夜中。身体はかなり冷えそうだが、餓鬼は特段震えてもいない。濡れている事に慣れているようだった。

 いや、そもそも何故全身がびしょ濡れなのか。まさか今の今まで、ずっと水に浸っていたのか? 下水道の、吐き気を催すほど臭い汚水に――――


「うっ……!」


 意識して気付く。餓鬼から漂う、甘ったるさのある汚物の臭いに。今まで緊迫感から麻痺していた感覚が急に戻った事で、一際強く感じてしまったのか。あまりの強烈さに思わず優成は仰け反った

 その瞬間の事だ。


「ぐぼぉおおおあああああっ!」


 凡そ人間が出したとは思えない、濁りきった雄叫びと共に餓鬼が動き出したのは。

 しまった、と思う間もなかった。餓鬼の動きはあまりにも素早く、まるで短距離走の選手のような力強さを発揮している。加えて臭いに怯んでいた優成は体勢を崩しており、咄嗟の動きが出来ない。左右に転ぶように動けたならまだ躱しようもあっただろうが、生憎此処は狭い路地裏。左右に古びたビルが建ち、優成の行動を制限している。

 このままでは餓鬼の肉薄を許してしまう。

 ただの変質者であれば、そこまで恐れる必要はない。落ち着いて、手が届くところまで来たら投技の一つでも使えば良い。曲がりなりにも凶悪犯罪者と幾度となく対峙した事はあるのだ、ちょっとやそっとの相手ならば負けない自信が優成にはあった。

 だが、恐らくこの餓鬼には通じない。

 マンホール内から現れた事から考えるに、餓鬼の正体は『人喰い殺人鬼』だと思われるからだ。奴は人間の腹を素手で引き裂き、骨を容易く砕く怪力の持ち主。いくら仕事柄鍛えている優成でもそこまでの怪力はない。組み合ったところで押し返されるのは目に見えている。もしも腕を掴まれたなら、簡単にへし折られてしまうだろう。

 腕の骨を折られた状態で、腰のホルスターから銃を抜けるか? 後遺症云々を全て無視して、とびきりの気合いを入れてやれば、出来なくはないだろう。しかしどうしても動きは酷く鈍り、時間は掛かる。

 その時間があれば、餓鬼は更なる攻撃が可能だ。腹を引き裂き、腸に頭を突っ込んで噛み付いてきたら……痛みを堪える云々の話ではなくなる。苦しみで四肢をバタつかせるのが精々で、銃を抜くなんて出来やしない。そんな状態で何かがやれるほど、人間の身体というのは合理的なものではないのだ。


「(クソッタレ! せめて大声を上げて夏目に危険を知らせて、アイツが来るまで時間を稼ぐしか手はないか……!)」


 咄嗟に考えられる最善手は、あまりにも他人頼り。しかし他に案がない以上仕方ない。せめてもの抵抗として、迫りくる餓鬼を受け止めようと両腕を広げた。この動作に驚いて躊躇えば良し。組み付き、両手を怪我したとしても時間は稼げると考えての行動。

 だが、その手が役目を果たす事はない。


「おやっさん! 大丈夫ですか!?」


 唐突に掛けられた叫びが、走り出していた餓鬼の足を止めたからだ。

 反射的に声の方を見れば、そこにいたのは神楽。優成の真正面、そして餓鬼の背後を取っている形だ。未だ十数メートルと離れた位置にいるが、真っ直ぐこちら目指して走っていた。

 餓鬼の動きが止まった事で、危機は一旦遠退く。そして逆にチャンスとなった。神楽の方を振り返った餓鬼は優成に背中を向けていて、こちらへの警戒を弛めている。今ならば手錠を掛ける事は難しくない。

 素早く、胸ポケットの中にしまっていた手錠を取り出す優成。カチャリという金属音に反応し餓鬼は振り返ったが、優成の持っている物が何か分からないのか、キョトンとした様子だ。それは優成が手錠を掛けてからも変わらない。

 その間に優成は力いっぱい手錠を引っ張り、もう片方の手にも伸ばす。もしも餓鬼が少しでも抵抗すれば、優成の目論見は呆気なく潰えただろう。しかし餓鬼は未だ自分の状況を理解していないらしい。

 優成の動きに逆らう事もなく、餓鬼はあっさりと後ろ手に手錠を掛けられた。


「……ごぉぼぽぽ……?」


 餓鬼の口からは、溺れているようにも聞こえる声が漏れる。そして自分の手に付けられた手錠を、がちゃがちゃと動かした。まるで赤子が初めての玩具で遊ぶように。

 どうやら自分が拘束された事に、未だしっくり来ていないようだ。


「お、おやっさん? その……この人、誰です?」


「人喰い殺人鬼だ……と思う。マンホールから出てきたからな。仮に違っていても、全裸で怪しいからとりあえず逮捕で良いだろ」


「うっわ、雑ぅ……」


 呆れたような口振りで、神楽はぼやく。しかし強く反論しない辺り、「マンホールから出てきた」という説明で大体納得したのだろう。

 無論、現状ではまだそうだとは確定していない。暴漢に襲われ、服を捨てて下水道に逃げ込んだ女性という可能性もある。もしそうなら無実どころか被害者に手錠を掛けた事になり、優成には懲罰が与えられるだろう。世論次第だが、最悪仕事を失うかも知れない。

 しかしそれで構わないと優成は考えている。

 彼の直感では、九割九分九厘でコイツこそが人喰い殺人鬼だと確信しているのだから。仕事と治安(及び自分の命)、どちらかを選ぶなら間違いなく後者だ。


「んな事は後で分かるんだから良いんだよ。ほら、早く応援を呼んでくれ。俺はコイツを見張ってる」


「はーい。無線機無線っと」


 神楽は口では如何にも呆れながら、懐から無線を取り出す。その動きに躊躇はなく、また万一餓鬼が逃亡を図っても捕まえられるよう、優成と共に餓鬼を挟み撃ちにした陣形を保つ。

 一応、『不審者』逮捕という成果は出せた。焦っていた訳ではないが、早期に目標を達成出来て優成は安堵する。

 とはいえ問題はこの後にもあるだろう。指紋や唾液など、証拠品は山ほど存在するため立証はなんら難しくない。しかし、こういうのもまた差別的だと優成自身思うが……この餓鬼に『判断能力』があるとは思えない。先の咆哮にしろ、手錠を掛けられた際の反応にしろ、人間というよりも獣のそれだ。そして手錠を掛けられた今でも態度に変化がないところを見るに、どうやら素でこの思考らしい。

 心神喪失状態の可能性がある。優成は専門家ではないので正確な事は言えないが、ここまでイッた状態ならば認められてもおかしくない。仮に警察側が認めなくとも、弁護側はその点を武器にして(或いはそれ以外に手がないかも知れない)裁判を進めるだろう。巷で言われているほど、心神喪失やら判断能力やらで無罪判決を勝ち取るのは簡単ではないが……此度ほどの『本物』だとどう転ぶ事になるのか。


「(いや、そもそもコイツは一体なんなんだ? 浮浪者や異常者にしたって、この振る舞いは……)」


 監視を怠らないようにしたつもりでも、疑問が意識の集中を奪っていく。何より、手錠で拘束したという安心感が大きい。距離さえ取っていれば安全だと、無意識に思っていた。

 その思い込みが幻想に過ぎないと教えてくれたのは、バキンッ、という金属音。


「……は?」


 なんの音だと、無意識に視線を向ける優成。

 その目に映ったのは、を片手で摘んでいる餓鬼の姿だった。

 ……見た光景は理解出来た。しかし『何故』を考えると、頭の中が真っ白になっていく。

 何も難しい事なんてないのに。

 餓鬼が手錠を素手の力で壊した――――ただこれだけの事実を認識するのに、優成は少なくない時間を費やしてしまう。


「……ぼぉおごぼぼぽぽおおおぉぉ」


 唖然とする優成の前で、餓鬼がゆっくりと振り返る。

 壊した手錠は投げ捨てられ、がちゃんと、虚しい音を鳴らす。確かに人間の腹を引き裂く馬力の前では、金属とはいえ構造的に開閉出来る作りの手錠など脆弱なものかも知れない。

 落ち着いて考えれば、多少は納得出来なくもない。しかし、いくら理屈で納得しても、理性はまるで納得出来ていない。人間が金属製の手錠を素手で破壊するなんて、曲がりなりにも犯罪者の自由を奪うための道具を簡単に壊すなんて、あまりにも非常識が過ぎる。

 だが、現実逃避をしている暇はない。


「ぼごぼぼごおおおおおおおおっ!」


 自由を取り戻した餓鬼人外が、再び優成の方へと駆け出してきたのだから――――

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