深夜一時。

 夏を迎えて日の出が早くなった時期とはいえ、この時間帯は当然暗闇に閉ざされている。建ち並ぶビルも殆どの光は消えていて、街灯の明かりが都市を照らす。

 道を歩く人の姿は全くない。気配もない。道路を走る車もなく、街路樹に潜む虫の音だけが都市に響く。

 一般人であれば、この暗闇と静寂に恐怖を抱くだろう。

 しかしこの暗闇の中で動く事も少なくない優成達警察官にとっては、そこまで恐れるものではなかった。


「ふぁああ〜……眠い」


「おいおい。ちゃんと仮眠は取ったのか? もし犯人と遭遇した時、眠くて動けませんは勘弁してくれよ」


 とはいえ何事にも限度はあるというもの。恐れがなくて眠たくなっては本末転倒だ。欠伸をする神楽を窘めながら、優成は肩を竦める。

 無論、逆にもまた限度はある。平静を装っているが優成だが、内心、人生で一番の緊張感を覚えていた。それを解そうと大きく息を吐いたが、あまり効果はない。これでは最高のパフォーマンスは出せないだろう。

 今から化け物染みた力の殺人鬼を誘き出し、あわよくば逮捕しようとしているのに。


「(まぁ、早々鉢合わせるもんじゃない、と言いたいが……)」


 直近の人食い殺人鬼による犠牲者(あくまでも『だとされる』という言葉が後ろに付くが)が確認されたのは、今から五日前。犯行曜日がバラバラであるように、犯行間隔も一〜十日と幅があるため断言は出来ないが……今日、人食い殺人鬼が次の犯行を起こしたとしてもなんらおかしくない。

 加えて今のこの町は、それどころか東京は人気がない。

 何しろ人喰い殺人鬼という恐ろしい存在が、未だ野放しなのだ。一般人は人気のない時間帯、特に犯行時刻である深夜帯に出歩こうとは思わないし、出歩かないといけない時はかなり警戒している筈だ。単独行動を避ける、暗い場所は通らないなどの対策を取っている者も少なくないだろう。もしも人喰い殺人鬼が次の獲物を求めていても、そのターゲットを見付けるのは困難だ。

 時期良し、候補なし。相手が『囮』に引っ掛かる可能性は、かなり高くなっていると言える。


「……繰り返すが、気を抜くな。本当に犯人と出くわす可能性もあるんだからな」


「うっす。気合い入れ直しますね」


 優成の忠言を素直に受け入れ、神楽はバチンっと自らの頬を叩く。

 強い痛みで眠気は消し飛んだようだ。パッチリと開いた目は、暗闇に潜む微かな悪意も逃しそうにない。恐らく神楽なりの『万全』にはなっているのだろう。

 後輩の力強い瞳に、優成も気合いが入る。後輩に負けたくない、というと少々子供っぽい考えのようにも思うが、その気概がやる気を生んだ。また緊張も幾ばくが解れる。「今のコイツは頼れる」と感じたお陰だろう。

 また、落ち着いて考えれば、自分達が全てを背負う必要もない。

 優成はしっかり囮捜査の申請を出しており、警察組織に受理されている。そして優成達以外にも幾つか囮捜査を実施しているチームがあった。少し離れた地域で、今頃捜査を始めているだろう。人喰い殺人鬼が向かうのはそちら側かも知れない。

 緊張感は大事だ。しかし気負う必要はない。適度なストレスが身体を万全な状態に持っていく。

 これならば、悔いのない捜査が出来そうだ。


「良し。それじゃあ行くとするか」


「はいっ! と言っても、私と先輩は別行動ですけどね」


 返事をした後、神楽は確認するように行動の指針を語る。

 共通点が見出せない人喰い殺人鬼の犯行だが、たった一つだけ、被害者の行動には特徴があった。

 それは被害者が一人で行動し、周りに誰もいなかったというもの。現時点で、という前置きこそ必要だが、狂気的で残虐な犯行をしながら、人喰い殺人鬼は決して複数人が纏まっている時には襲わない。目撃される事を避けているのか、数で押されたら負けると思っているのか。どのような意図があるかは分からないが、兎に角狙いは『一人』だ。優成達も二人で行動していては、犯人の狙いから外されてしまう可能性が高い。

 囮捜査を行うなら別行動が最適だ。無論相方が犯人に襲われた時、即座に向かえるよう位置の把握を忘れてはならない。また別行動と言っても、精々犯人の視界に入らない程度の距離を維持する。相方が大声を上げれば一分も掛からずに駆け付けられるようにし、数の有利を活かして取り押さえる……これが優成達の考えている作戦だ。

 無論、危険は付き纏う。いくらすぐに駆け付けられる距離とはいえ、慣れていれば十数秒で人なんて殺せる。犯人逮捕と引き換えに警察官一人が殉職であればまだマシで、相棒を殺した後犯人は逃走、或いは返す刀で二人共返り討ちなんて事もないとは言いきれない。他の囮捜査チームを呼ぼうにも、やはり距離が遠過ぎる。

 囮捜査は極めて危険な捜査方法だ。ましてや今回の殺人鬼相手では、命の保障なんてない。

 だからこそ、必ず犯人を逮捕せねばならないのである。


「……任せたぞ」


「はいっ!」


 元気良く歩き出した神楽を見送り、優成も自分の巡回コースを進む。

 辿るルートは人気のない路地裏。街灯なんてろくになく、非常に暗い。そして何より重要なのが、マンホールが存在する事。

 犯人がマンホールを出入りしているのは間違いない。恐らくマンホールの下から、殺害対象を選んでいるのだろう。

 だからマンホールを警戒していれば不意打ちは避けられる……と言いたいが、これは囮捜査だ。不意打ちを警戒していたら、犯人は襲い掛かってこないかも知れない。本当に油断する必要はないにしても、ある程度隙を見せる必要がある。フリだとしても、それは危険な行いだ。

 尤もそんな心配も、そもそも犯人が襲ってこなければ杞憂というものだろう。


「さぁて、俺はちゃんと獲物と認識してもらえるかね……」


 独り言では疑念を漏らす。だが、優成の内心としてはそこまで心配もしていない。

 確かに優成は体格に優れた中年男性。しっかりと鍛え上げた二十代や三十代には劣るとしても、一般的な成人男性よりも力が弱いようには見えないだろう。通り魔的な連続殺人鬼は確かに『気狂い』ではあるが、連中なりには合理的だ。殺しのターゲットとして、自分より強そうな相手を狙う輩はそういない。銃が武器であれば力の差など実質なくなるが、人喰い殺人鬼の武器は素手。出来れば弱い者を狙いたい筈だ。だから普通は成人男性を狙わない。

 しかし人喰い殺人鬼は、遺体の状態から考えるに人間離れした力の持ち主である。それに被害者の中には十代の男子学生(しかも運動部所属でかなり身体を鍛えている)がいた。柔道などの技術があるので優成の方が『戦い』では強いだろうが、見た目は男子学生の方が強そうに見える筈だ。若い人間を食い殺したい訳でもない事は、犠牲者の中に老人が二人いる事実から窺い知れる。

 視界にさえ入れば、襲わない理由がない。少なくとも『常人』の観点でこれまでの事件を見れば、という前置きは必要だが。


「(今のところ、人の気配はない)」


 刑事として培ってきた感覚をフル動員し、怪しい気配がないか探る。それでいて如何にも隙があるようにゆったりと歩く。勿論、ポケットに入れたスマホの音を、神楽からの連絡を聞き逃さないよう注意しながら。

 ろくに街灯の明かりもないような路地裏の奥へと、優成は迷いなく進んでいった。






 結論を言えば、作戦は恐らく失敗した。人喰い殺人鬼は現れず、同じく囮捜査中の仲間からの連絡もないまま時間だけが過ぎ……午前四時を迎えている。

 予定では、囮捜査は四時まで行う事となっている。延長しても構わないが、これまでの犯行時刻からして、延ばしても効果は薄いだろう。そもそもこの時間は申請にも関わってくるので、無視すると上から酷く怒られる。最悪、捜査から外されるかも知れない。

 故に優成は既に諦めムード。もしかしたら神楽の方で動きがあったかも知れないと思い、スマホで電話しているが……神楽の方も優成と同じらしい。元気で開き直った声が返ってきた。


【こっちは全く無事でーす。正直拍子抜けですね】


「おう、元気そうで何よりだ……仕方ない。一度例の場所で集合するぞ。念の為に言うが、最後まで『仕事』がバレないようにな。誰が見てるか分からんのだから」


【了解でーす。あ、例の場所って言うとアレですね、ヤバい取引みた】


 ぶちっ、と通話を切り、優成はスマホをズボンのポケットに入れる。それから小さくため息を吐いた。

 一日目から囮捜査が成功するとは露ほども思っていない。東京の何処にいるかも分からない犯人の目に入る『確率』なんて僅かなもの。複数チームで挑むなどでその確率を上げる事は出来ても、確実に引っ掛ける方法なんてない。

 今日が駄目ならまた明日。明日が駄目なら明後日……犯人が掛かるまで繰り返す。結局最後は根比べだ。


「(まぁ、俺の推理が間違っていて、犯人のターゲットにならない条件を満たしているかも知れない訳だが)」


 推理が正しい事は、犯人が接触してくれば分かる。しかし間違っている事は証明出来ない。見付かってないだけという可能性が否定しきれないのだから。

 それでも、改良し続ける事は出来る。これまでの犠牲者の情報を再度調べれば、なんらかの共通点が見付けられるかも知れない。家で一眠りしたら再度被害者の資料を見て……

 様々な考えが優成の頭を過っていく。それは優成が警察官という職務に誇りを持つが故の事であり、囮捜査が終わったという事から生じる気の弛みでもあった。

 もしも犯人が、優成が晒している隙を突いただろう。優成は失念していたのだ。まだ此処が人気のない、狭っ苦しい路地裏である事を。今し方自分が、マンホールを跨いで渡った事さえも。

 しかし幸運な事に、優成は襲われるよりも前に――――バゴンッ、という音が背後から聞こえてきた。


「……………」


 大きな音ではなかった。むしろ周りで五月蝿いぐらい鳴いている虫の音に溶け込むような、微かな音と言うべきだろう。しかし今までにない奇妙な音は、優成の耳はくっきりと残る。

 途端、優成は全身の血の気が一気に引いていく感覚に見舞われた。心臓がばくばくと鼓動を鳴らし、鳥肌が全身に浮かび上がる。

 二十年と続けた刑事人生。殺人犯と正面から対峙した事は、一度や二度ではない。通り魔的犯行を目にして、現行犯逮捕を行った事だってある。刃物を振り回す犯人を、自慢の柔道技であしらった経験だってあった。

 だが、今回は何かが違うと本能が叫んでいる。


「……ついにお出ましか」


 それでも彼が後ろを振り返る事が出来たのは、刑事としての責任感があったから。刑事の誇りがなければ、きっと情けなく逃げ出していたに違いない。

 尤もその誇りを胸の中で感じていられたのは、『犯人』を目にするまでの事。犯人を見た瞬間、彼の頭の中から理性的な考えは吹き飛んでしまった。

 外されたマンホールの傍に立つ者が、あまりの『異形』だったがために――――

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