「『人喰い殺人鬼事件、未だ手掛かりなし。事件未解決の原因は警察組織と内閣府の間に出来た、恐るべき因習にあった』」


「……また随分と胡散臭い記事が出てるもんだな」


 警視庁刑事部の一室にて、机に書類を広げている優成は、自分の目の前にいる後輩・神楽が読んでいる雑誌に心底呆れ返った。

 優成は今、『人喰い殺人鬼事件』……先日起きた若い女性、そして高齢男性が喰い殺された事件について捜査情報を纏めようとしている。神楽はその付き添いで、今は自主的に小休止を挟んでいる最中だ。

 時刻は夜の十時を越え、この部屋に優成と神楽以外の姿はない。とはいえ他の刑事達が退勤している訳でもない。殆どの刑事は今も外で聞き込みや捜査を行い、犯人の手掛かりを探しているところである。

 無論それは警察の威信に賭けて凶悪犯を捕まえたいから……というのは勿論ある。しかしそれだけでなく、警察組織に向けられている『世論』の目というのもあった。


「まぁ、最初の事件からもう一ヶ月経ってますからね。おまけにもう五人も殺されているとなったら、こんな陰謀論臭い記事も出てきますって」


 神楽が言うように、人食い殺人鬼の被害者だと思われる者はこの一ヶ月で五人となった。

 いずれも腹を素手で引き裂かれ、腸を喰われている。何処からか情報が流れたらしく、被害者の腸が喰われているという話はネット上に広まり、警察としても発表せざるを得なくなった。お陰で今や巷でも『人喰い殺人鬼事件』と言われる有り様である。ついでに警察は、五人も犠牲者を出した無能とも。真面目に捜査している優成としては悪態の一つも吐きたくなるが、しかし犯人逮捕が出来ていない状況でそう言われるのは仕方ないとも思う。

 いや、逮捕が出来ていないだけなら、まだ言い訳ぐらいはしただろう。しかし未だに『容疑者』の候補すら挙がっていない。何しろ被害者は一人目がキャバクラ店店員の二十代女性、二人目はランニングをしていた六十代男性、三人目は深夜徘徊をしていた九十代女性、四人目は巡回していた三十代女性警官、五人目は家出中だった運動部所属の十代高校生男子……と、まるで共通点がない。犯行時刻が午前一時〜四時の深夜帯である事以外は曜日もバラバラ、マンホールの傍である事以外現場はビル街住宅地公園と選り取り見取り。

 あまりにも範囲が広く、これでは『怪しい奴』を絞り込めない。仮に見付けても、どれかの事件でアリバイがあって、容疑者から外れてしまう状況だった。


「容疑者の見当すら付いてないからな。あれこれ言われても仕方ねぇ……だからってこの記事はどうかと思うが。殆ど陰謀論じゃねぇか」


「ですねー。あとネットとか見るともう本当に無法地帯で。犯人は警察関係者だから庇われているとか、大臣の息子のアリバイがないからコイツが犯人だとか、総理大臣が野党支持者を暗殺してるとか」


「警察がそんな一枚岩なら不祥事なんて表に出ねぇし、大臣の息子がした殺人を隠蔽出来るなら本人の脱税ぐらい簡単に隠し通せるし、野党支持者何千人殺しても支持率は一パーセントも上がんねぇだろ。馬鹿かそいつら」


「所詮ネットの書き込みですし。九割以上は聞く価値のない戯言ですよ。駅前でくだ巻いてるおっさんみたいなもんですから、真面目に受け取らない方が良いです。たまーにマジに受け取っちゃう人もいますけど」


 それぐらい分かってる、と言いつつ、不貞腐れるように優成はそっぽを向く。

 ネットは匿名の世界だ。警察が本気で調べればいくらでも暴けるとはいえ、ごく普通の一般人相手ならその通りと言える。だからこそ、好き勝手な事も言えてしまう。陰謀などという、証拠もなく『人』を陥れる事も。


「あと、最近はあれですね。米軍が開発した生物兵器が逃げ出したって話が、ちょっとしたブームになってます」


 それこそ、オカルティズムな話だって白面しらふで口に出来てしまう。


「……生物兵器ねぇ」


「実際やってる事は人間離れしてますし、未だ腹を引き裂いた『凶器』は不明扱いですからね。マジで信じてる人はそんなにいないでしょうけど……」


「いっそその方がマシだって思ってるのは、捜査関係者だけだろうな」


 はぁ、と二人揃ってため息を吐く。

 人喰い殺人鬼事件の犯人が例えば本当に、生物兵器でも突然変異でも構わないが、『モンスター』だったなら……恐らく事件捜査は(解決してるかどうかは兎も角)今頃大きく動いているだろう。勿論現実の世界でモンスター云々などそう簡単には信じられないだろうが、鱗やら体液、歯型などの物証が出てくればどんな頭でっかちでも完全否定は出来ない。存在が確実視されたなら、その時は猟友会やら自衛隊やらの出番だ。警察は怪獣映画よろしく、市民の避難を行うだけである。

 だが、人喰い殺人鬼は間違いなく人間だ。

 初期の事件から採取されている指紋、裸足のゲソ痕、歯型……あらゆる証拠品が犯人は人間だと示している。科捜研の調べが進んだ今では毛髪や唾液からDNAが採取出来ており、犯人がである事まで判明している。裸足の足跡から足の正確なサイズが分かり、そこから逆算して身長百六十〜百七十センチだという身体的特徴まで把握済みだ。ここまで明らかになっていながら、犯人は人間ではありません、というのは流石に通らない。

 集められたどの証拠も犯人が人間だと示している。しかし人間技とは思えない殺人方法、未だ見付けられない容疑者の存在が、人外の仕業だと警察を嘲笑う。


「(お陰でどんな容疑者も、任意提出してもらった指紋や唾液で即座に否定される有り様。これじゃあマジで砂漠で針を探すようなもんだぞ)」


 指紋などの物証は容疑者が犯人だと証明するのに欠かせないものであるが、犯人の名前や現住所までは教えてくれない。近隣住民の目撃証言、前歴者、逃走経路、監視カメラの映像――――そうしたものから『誰』が容疑者なのか絞り込んでからが、指紋や遺伝子の出番である。容疑者が『誰』か分からない状況では、これらの証拠は左程役に立たないのだ。

 手詰まりというしかない現状。唯一、犯人に迫れる手掛かりがあるとすれば……


「……下水道の中を、念入りに調べるしかないか」


「はい? 下水道ですか? そこってもう鑑識さんが徹底的に調べていますよね? 今更私らが調べても、なんも出てこないと思いますけど」


 無意識に呟いた言葉に、神楽は首を傾げながら反対意見を言葉にする。

 中々容赦のない物言いであるが、実際、神楽の言う通りだろう。犯人が犯行後下水道に逃げ込んでいる事は捜査の初期から判明しており、また捜査が進展した今では犯人が事も分かっていた。第一・第二の犠牲者が出た時は大雨で下水道内が増水していたため捜査が出来ず、また存在していたであろう証拠品等も流されてしまったが……第三の犠牲者以降は下水道内を念入りに捜査し、様々な証拠品を押収している。

 鑑識は証拠集めのプロだ。彼等が念入りに調べた場所を改めて調べても、新しい証拠が出てくる事はまずない。

 それぐらいの事、長年刑事をやってきた優成は分かっている。どれだけ泥塗れになって探そうと、新たな証拠品なんて見付からないだろう。そもそも毛髪も足跡もある現状、何が見付かったところで捜査状況はそこまで変わるまい。

 そう、探すのは証拠品ではない。


「探すのは犯人そのものだ」


「犯人そのもの? ……えっ!? 犯人が誰か分かったんですか!? というかなんで下水道!?」


「落ち着け。まず、犯人が誰かは分からん。だが捕まえに行く事は出来ると思っている」


 優成の物言いに、神楽は最初困惑した表情を浮かべた。だが少し考えて、その意図に気付いたのだろう。大きく目を見開き、手に持っていた雑誌を落とす。


「……まさか、先輩は犯行時以外も犯人は下水道にいる、と?」


 神楽が訊き返してきた言葉に、こくりと頷く優成。

 犯人は下水道を出入りして事件を起こしている。数々の証拠からそれは明らかであり、警察としても現場のみならず周辺のマンホール及び下水道を調べた。結果的に犯人につながる手掛かりは無数に手に入ったが……一つとして犯人が、つまり帰宅経路は特定出来ていない。だからこそ容疑者候補を絞りきれず、任意提出してもらった証拠で返り討ちに遭っている訳だが――――発想を逆転させれば違う見方も出来よう。

 例えば、犯人にとって下水道こそが家であるならば?


「犯人は下水道から出ちゃいない。恐らく、そのまま次の犯行まで下水道に潜んでいる……暮らしているって訳だ。目撃情報がないのも、これで説明が付く。出てないんだから、目撃者なんている訳がねぇんだ」


「た、確かに、それなら容疑者が見付からないのも……って、いくらなんでも無理があります! 下水道に暮らしてるとか、ホームレスでもあり得ないですって!」


 あまりに突拍子もない考えに、神楽からは全否定の意見が出てくる。

 神楽の反応は至極真っ当だ。人間が下水道内で暮らしているなんて、常識的に考えれば確かにあり得ない。食べ物がない上に、不衛生で危険な環境に誰が住むというのか。

 しかし状況証拠で考えれば、犯人が下水道から出てきていないという可能性は否定出来ない。

 我ながら突飛な発想だと優成も思う。そして突飛な発想というのは、大概外れているからそう呼ばれるもの。恐らくこれから行おうとしている捜査は、無駄に終わると優成も考えていた。

 だが、捜査をしなければ『間違い』である可能性は潰せない。


「まぁ、万が一を考えての事だ。それにもしかしたら鑑識が見落とした証拠があるかも知れないし、運が良ければこれから犯行をしようとしてる犯人と鉢合わせるかも知れない」


「ううん、それは、そうかもですが……いや、でもだからって下水道内に入るのは自殺行為ですって。もし予想通りなら相手のテリトリーじゃないですか。現行犯逮捕しようとしたところで返り討ちに遭いますよ」


「あんまり見くびるな。こっちだって刑事歴二十年だぞ、ちょっと力の強い輩ぐらい柔道の技術を使えば――――」


 逮捕出来るだろうか? 言葉の続きが頭の中で疑問文に変わり、そして優成はそれにYesと返す事が出来ない。

 相手は人間の腹を素手で引き裂き、手足の骨を手の力でへし折るような化け物だ。警察官としてそれなりに身体を鍛えている優成だが、こんな相手と真っ向から戦えば為す術もなく負けるだろう。

 念のため銃は携行するつもりだが、日本の警察官が持つのは小さな拳銃。威力や射程はお世辞にも優れていない。勿論これでも銃には違いなく、頭や胸に弾が当たれば相手は普通に死ぬ。しかし下水道の中となれば暗く、足場も悪いだろう。しっかりと射撃訓練を受けた軍人ならば兎も角、警察官程度の技量では恐らく命中精度はかなり悪くなる。撃ったところで当たらなければ、大きな音を鳴らしただけだ。仮に当たったとしても、人体を引き裂く怪力があるなら鎧のように逞しい筋肉もあり、一番命中させやすい胸部は弾丸が貫通しないかも知れない。そもそも背後から襲われたら、銃を撃つ間もなくやられる。

 もしも犯人と遭遇したら、十中八九生きては帰れまい。神楽の言う通り、自殺行為というものだ。


「……だからってお前、他に案があるのか」


 しかし他に犯人逮捕に繋がりそうな方法があるのだろうか?

 尋ねてみたが、神楽は顔を顰めた。次いで腕を組み、首を傾げ、唸り出す。返答は中々帰ってこない。

 当然だろう。優成も考えた末にこの危険な考えが一番だと思ったのだ。そう簡単にひっくり返されたら、先輩として立つ瀬がない。


「あ。そうだ。囮捜査とかどうです?」


 勿論、囮捜査という方法も検討済みだ。検討した上で却下したのである。


「囮ったって、誰がやるんだ? 犯人がどんな人を狙うかすら分かんねぇんだぞ」


「いやまぁ、そうですけど……」


 神楽が言い返せないように、現在までに確認された五人の被害者に共通点は全くない。性別・年齢・職業の全てがバラバラだ。なんらかの関連性(例えばとあるマルチ商法に手を出したなど)があるのではないかと思って調べられたが、残念ながら繋がりはない。

 囮捜査は犯人を誘い出し、犯行に及んだところで捕まえるもの。故に囮は犯人の目に留まる事が最低条件であり、そして犯人が対象に選びたいと思わせなければならない。ターゲットの共通点が見当たらない状況では、囮捜査は無理なのだ。


「……今思ったんですけど、この犯人ってそもそも誰かを狙ってるんですかね?」


 そんな大前提をひっくり返す発言を、首を傾げていた神楽がぽつりと呟く。


「まぁ、これだけ被害者に統一感がないと、通り魔的な犯行にも思えるな」


「なら、案外誰でも関係ないんじゃないですか。私やおやっさんが適当に歩き回るだけでもターゲットになるかも」


「……否定は出来ないな」


 実際、巡回中の女性警察官も犠牲となっている。どんな殺人犯でも、例え通り魔だとしても普通は何かしらのターゲット ― 力の弱い女性など ― があるものだが……もしかするとこの犯人は、本当に目に付いた人間を片っ端に襲っているのかも知れない。

 だとすると、目に付きさえすれば誰であろうと襲われるという事は十分あり得る。


「(問題は何処に現れるかだが……考えてみれば、下水道を調べるにしたって何処に現れるか分からない訳だからな)」


 事件解決を焦るあまり、短絡的な考えに陥っていたか知れない。自分の考えた『妙案』が囮捜査に劣ると思えてきて、優成は照れ隠しをするように頭を掻いた。

 無論より良い方法があるなら、それを採用しない理由はないのだが。


「……少し視野が狭くなっていたな。足で調べるのは刑事の基本。囮捜査、やってみるか」


「お、お? そうですね! 私も覚悟を決めて同行しましょう!」


「いや、俺一人で良い。男であっても老人から高校生まで犠牲者に幅がある。刑事のおっさんも十分ターゲットになり得るだろう。わざわざお前が来る必要はない」


「いやいや、一人でとかそれも自殺行為ですって。私、これでも肉体的にはかなり強いですから、ちょっとはお役に立てますよ」


 神楽はそう言うと袖を捲り、力瘤を作ってみせる。確かに単純な『強さ』で言えば、神楽はかなり頼もしい。率直に言って、日頃鍛えている優成よりも僅かながら上回る程度には。

 犠牲者の無惨な死に方を見るに、人喰い殺人鬼の身体能力は恐らく人間離れしている。そういう意味では、例え勝てずとも、足止め出来るぐらい強い者がいると鉢合わせた時の対応が大きく変わるだろう。そもそも人数が二人になれば、背後の警戒が簡単に行える。それだけでも安全性は大きく向上すると言えよう。

 しかし。


「……女子供を危険に巻き込むのは、なんというか、こう、な?」


「いや、今時そういう配慮はちょっと時代遅れですから。つーか自分より強い相手の身を心配するのは、強い方からするとカッコいいというより身の程知らずにしか見えません」


「手厳しいなオイ」


 あまりにも容赦ない物言いに、思わず優成はツッコミを入れる。

 だが、神楽の言い分は正しい。わざわざ一人という危険なやり方をして、万が一にも犯人を取り逃がしたなら、失態どころの騒ぎではないだろう。

 警察官であり、刑事であるなら、可能な限り事件解決に近付けるよう全力を尽くすべきだ。女だろうが新人だろうが関係ない。使える手は全て使い、そして星を上げる。


「……分かった。明日の夜九時に囮捜査を始める。諸々の手続きは俺がやっておく。一応俺は拳銃を持っていくが、お前はいらないな?」


「ですね。私、銃の腕はボロクソですから!」


「胸を張るんじゃない阿呆。前から練習しとけって言ってただろうが」


 やっぱり頼りないんじゃなかろうか。そんな印象を抱かせる後輩に、優成は乾いた笑みを返す。

 しかしやっぱり同行はなしと言わず、神楽の額にデコピンを一発お見舞いしておくだけで済ませるのだった。

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