「ぬ、おおおおおおおおおおおッ!」


 餓鬼が動き出した時、優成よりも先に神楽が雄叫びと共に走り出した。餓鬼を拘束し、優成目掛け突撃する動きを止めるために。

 しかしここで挟み撃ちの陣形が仇となる。餓鬼は真っ直ぐ優成へ向かって走り、神楽はそれを追う格好だ。だが餓鬼の方が素早く、神楽との距離は開くばかり。

 神楽が餓鬼を押さえるよりも、餓鬼が優成に辿り着く方が早い。いや、そもそも果たして神楽に餓鬼を押さえられるのか。相手は金属の手錠を簡単に破壊するような力の持ち主なのだ。真っ向から勝負したところで、勝ち目があるとは思えない。

 つまるところ、今正に優成へと迫る餓鬼は、優成自身がどうにかしないといけない訳だ。勿論優成にも、金属製品を簡単に破壊するほどのパワーはないのだが。


「ぐっ……!」


 反射的に、腰のホルスターに入っている拳銃に手が伸びそうになる。が、優成の理性はそれを堪えた。

 犯人を生きたまま逮捕するという考えがあったから、ではない。理由はもっと利己的なもの。つまり拳銃を使っても勝てないと考えたからだ。

 拳銃は確かに威力も射程も優れるが、ちゃんと狙いを付けて撃たねばまず当たらない。外れた弾が神楽に当たる可能性もあり、適当に撃つ訳にはいかなかった。至近距離で撃てば確実に当たるだろうが、頭が吹っ飛ぶような猟銃と違い、拳銃の威力では胸に穴が開く程度。無論胸に穴が開けば普通の人間は死ぬが……即死しなければ勢いだけで優成の下に辿り着く。腹を引き裂く怪力で頭を一発殴れば、十分致命的な打撃となるだろう。

 そもそもこの餓鬼は拳銃一発で死ぬのか? 数年前、商店街に現れたイノシシを警察が射殺したというニュースがあったが、あの時は拳銃四発を当ててようやく仕留めたという。この餓鬼の勢いは、イノシシと相対したかのようなイメージ。拳銃一発ではとても――――

 そうした考えが次々と過った結果、優成は身体が固まってしまった。後になって考えれば、神楽への心配は兎も角、他の事は撃ってから考えれば良かったのだが……人間は最善手を選び続けられるような生物ではない。最悪の状況でも、誤った行動を取ってしまう事もあるのだ。


「ぐぼごおおおおおおっ!」


「ぐ、糞が……!」


 迫りくる餓鬼に対し、優成が取った行動は素手での対応。自分目掛け伸びてくる腕を咄嗟に掴む。

 そしてほぼ反射的に、身体が動いた。

 相手の腕を掴んだまま、素早く身体を半回転。相手に背を向ける格好となったら、掴んだ腕を肩に乗せ、身体を屈める要領で引っ張る。引っ張られた餓鬼からすればいきなり身体が加速したようなもの。戸惑いから力が入らなかったのか、餓鬼は特段抵抗する事もない。目の前にある頭を捻れば、簡単に止められたというのに。

 優成の肩を通り過ぎるように餓鬼は投げられ、綺麗な背負い投げが完成した。投げ飛ばされた餓鬼は背中をコンクリートの地面に叩き付けられた形となったが、特段痛がっている素振りもなく、何が起きたか分からず唖然としている様子だった。


「っぶね……!」


「おやっさん、お見事です!」


 何はともあれ怯んでいるなら好機と、優成はそのまま後退り。称賛の言葉を投げ掛けてくる神楽と合流する。

 背負投はただの反射的行動だったが、お陰で命が助かった。もしも考えて技を仕掛けたら、きっと餓鬼の動きを追えずやられていただろう。下っ端時代に嫌というほど鍛錬していたお陰だと、優成は心の中で過去の自分(を扱いてくれた先輩)に感謝しておく。加えて意外とあっさり技が通じた事も驚きだ。まさか技を掛けてから、なんの抵抗もないとは思わなかった。

 ともあれ背負い投げは成功した。されど、警戒はまだ緩めない。

 目の前にはゆっくりと、痛がっている素振りもなく立ち上がった餓鬼が、虚ろな目でこちらを見ているのだから。


「とりあえず合流出来たが……アレ、俺とお前の二人で無力化出来ると思うか?」


「いや、無理でしょ。おやっさんの背負い投げを喰らって痛がってる様子すらないんですよ。顔面にパンチ喰らわせても、そのまま拳に噛み付いてきそうじゃないですか」


「だよなぁ……つー事は、だ。やっぱりこれを使うしかないな」


 そう言って優成は、腰のホルスターから拳銃を取り出した。

 先程は当てたところで一発では止められないと考えて躊躇ったが、相手は『人間』だ。猛獣のような分厚い頭蓋骨も、脂肪をたっぷり含んだ皮下脂肪もない。筋肉に阻まれて致命傷には至らないかも知れないが、肉が貫かれる痛みは与えられるだろう。

 餓鬼は銃口を向けられても、キョトンとした様子だ。銃を知らないのか、白濁した目ではろくに見えていないのか。いずれにせよ素早く動かないなら好都合。


「良いか、動くな。動いたら撃つ……警告はしたからな」


 無意味だと思いつつも警告する優成。予想通り餓鬼は優成の言葉を理解出来ていないようで、何も気にせず躙り寄ってきた。

 優成は餓鬼の脚に狙いを定め、引き金を引く。

 パンッ、という破裂音と共に放たれた弾丸は、秒速三百メートル以上の速さで飛んでいく。人間ならば到底見切れない速さであり、ましてや街灯しかない暗がりならば尚更弾など見えなしない。餓鬼は呆然と立ったまま。

 ぶちゅ、という生々しい音と共に、餓鬼の足に穴が空いた。血が吹き出し、そして餓鬼は膝を付く。


「ご、ぽぼこぽぽ……?」


 自分の身に何が起きたのか分からず、困惑したのか。餓鬼は動揺したような声を上げ、怪我した足に手を当てる。

 流石に銃が効かないというほど、出鱈目ではなかったようだ。そこは一安心する優成。ただ、それと同時に一つの懸念が浮かぶ。

 ――――本当に、コイツは人喰い殺人鬼なのだろうか?

 下水道から現れた事、手錠すらも砕く力、言語を理解していないと思われる行動……どれもこれも『異常』であり、人喰い殺人鬼がある。要するに極めて怪しい。しかし怪しいだけで、断言するための証拠はないのだ。

 その事実は出会った時から自覚していたが、餓鬼が膝を付いた事で警戒心が弛んだ際、ふと理性が戻ってきた。もしも、万が一にもこの餓鬼が殺人事件と全く無関係なら……無実の市民に銃弾を撃ち込んだ事に他ならない。市民を守る警察官として、絶対にあってはならない事である。

 優成は決して生真面目な人間ではない。しかし刑事として、警察官としての責務はある。確証のない事に ― 例えほぼ確定だとしても ― 迷いが生じるのは、決して誤った考えではないだろう。

 ただ、餓鬼がその『隙』を見逃すとは限らないのだが。


「ご……ぉぽぼぼおおおおぁおおあおっ!」


 溺れるような雄叫びを上げ、餓鬼は猛然と走り出した!

 足に銃弾を受けていながら、まるでそんな怪我などないかのようなスピードを出す餓鬼。突然の事に優成は一瞬反応が鈍り、引き金に掛かった指も硬直してしまう。

 餓鬼はその僅かな隙に優成へと肉薄。腕を伸ばし、銃を持った優成の手に掴み掛かろうとしてきた。

 拳銃を奪おうとしている。反射的にそう考えた優成は、まずそれを防ぐべく銃を持つ腕を引こうとした。だが餓鬼の動きの方が圧倒的に速い。優成の銃は呆気なく餓鬼の手に掴まれた

 直後、ばぎんっ、という音が鳴る。

 なんの音か? 優成はすぐに想像が付いた。だがその事実を理性は中々受け入れない。反射的に認めたくないと思ってしまう。

 餓鬼の手で銃が握り潰されたなんて、どうして受け入れられるのか。

 しかし餓鬼が手を離すのと共に、バラバラと幾つかの欠片になって崩れ落ちる銃を見れば認めるしかない。引き金と取っ手こそ残っているが、銃を銃たらしめる銃口と銃身、中身の弾丸は今や地面に転がっている。完全に、壊されてしまった。


「(コイツ、今銃を狙ってきたのか……!?)」


 直感で銃が危険なものだと理解したのか、それとも本当は銃がどんなものか知っているのか、はたまた飛んできた弾丸が見えていたのか。いずれにせよ餓鬼は、銃が自分にとって危険なものだと判断したらしい。

 その判断は的確だと言わざるを得ない。銃を壊された事で、優成は『必殺』の力を失ったのだから。

 銃は人類が野生動物に対し、明確な『有利』を取れる武器だ。勿論人間相手にも有利に立てる。餓鬼に対しても有利だったが……その有利は失われてしまった。

 優成と神楽は緊張で顔と身体を強張らせた対して銃を壊した後の餓鬼の顔には、笑みが浮かぶ。更に白濁した瞳が血走り、笑みを浮かべた口からはだらりと涎が滴る。

 ようやく獲物にありつけると、そう言わんばかりに。

 優成は思った。奴は人間ではない。理性を一切持たない動物、ヒトという名のケダモノだ。

 どれだけ鍛えた肉体を持とうとも、文明に浸った人間が素手でケダモノに勝てる訳もない。


「い、一時退却だ!」


「了解っす!」


 優成の合図を受け、神楽も即座に逃げ出す。

 犯人を前にして逃げ出す。普段なら例え銃を持った犯罪者相手でも優成はやらない事だが、今回ばかりは例外だ。勝てない勝負をして喰われては、折角犯人の面を拝んだというのに全くの無意味。情報は、持ち帰り、誰かと共有して始めて意味を持つ。今は生き残りが優先なのだ。生き残れば『勝ち』である。

 逆に言えば、ここで二人を仕留めたなら、それが餓鬼にとっての勝利となる。


「ぐごぽぼぉおごぼおおおおおおっ!」


 それを理解しているのか、していないのか。恐らくは後者だと思われる猛々しい雄叫びと共に、餓鬼は猛然と優成達を追ってくる!

 声に反応して振り返った優成は、即座に二つの事で驚く。

 一つは餓鬼のスピードが、優成達よりも事。銃弾を足に一発喰らわせたというのに、餓鬼は猛然と走り抜けている。確かに傷を受ける前と比べれば遅くなっているし、片足はびっこを引くように動きが鈍い。だから怪我を負う前よりは遅くなっている筈だが……それでも優成達並の人間よりも速い。銃を壊した時のように『瞬発力』なら速いのもまだ頷けるが、継続的に走り続けるのは出鱈目だと言うしかない。

 二つ目の驚きは、餓鬼がで迫ってきている事。

 手脚を左右に広げ、例えるならばワニのような体勢で走っているのだ。勿論人間は二本足で立ち、二本足で走る生き物。進化の過程でそれが一番楽な姿勢になるよう身体の形を変えてきた。だから四つん這いの体勢で走る事は、身体の構造上不向きな筈なのだが……餓鬼はお構いなしに駆けている。

 正にケダモノだ。それも肉食性の。この餓鬼に捕まったらどうなるか、優成にはありありとその光景が想像出来た。そしてこのままでは、その想像が現実になると予感する。

 しかし全てを諦めるのはまだ早い。逆転の一手、その布石が優成にはあるのだから。


「神楽! 応援は何処に来る!」


 神楽が呼んだ応援の警察官達だ。

 犯人逮捕の知らせを受け、付近にいる警察官……囮捜査中のメンバーが集っている。その人数はざっと十二名。餓鬼のパワーがどれだけ圧倒的でも、十二人もの警察官に取り押さえられたなら、きっと身動きを封じる事が出来る筈。それに警官達は銃を持っている。いざとなればその銃で蜂の巣にすれば……

 なんにせよ、合流すればなんとかなる可能性が高い。警察に連絡を入れた神楽ならば、応援がやってくる場所も聞いている筈だ。


「こ、この先の公園です! 徒歩、五分!」


「走れば二分だな!」


 指で方向を示す神楽。優成は力を振り絞ってその方角へと駆ける。

 とはいえ相手の方が速い状況で、二分間走り続けるのは困難だ。そもそも人間の全力疾走は二分も続くものではない。長距離走やマラソン選手だって、ペースを考えて走るもの。優成達もまだ路地裏から出てもいないのに、疲労感から少しずつスピードが落ちてきていた。

 このままでは間違いなく追い付かれる。時間稼ぎが必要だ。


「っ! あれは……」


 その時優成の目に入ったのは、誰かがポイ捨てしたであろう大きな酒瓶。

 浮浪者辺りが酒盛りでもして捨てていったのか。曲がりなりにも『ポイ捨て不法投棄』なので警察的には許す訳にいかないが……今回ばかりは優成も感謝する。


「ふっ、うりゃあっ!」


 拾い上げた酒瓶を勢いよく、自分の前方向の地面に叩き付ける。それなりに硬いとはいえ、酒瓶の材質はガラス。大の男が本気でコンクリート舗装された道路に投げ付ければ、ガラスなんて簡単に割れてしまう。

 瓶の破片は四方八方に飛び散り、路地裏いっぱいに広がった。優成は前方向に瓶を投げたので、破片は行く手を阻むように散開したが、優成達の足には靴がある。多少くたびれてはいても、ボロというほどでないそれはガラス片から優成達の足を守ってくれた。

 だが、靴を履いていない餓鬼はそうもいかない。


「ごぼぽっ!?」


 背後から聞こえる、呻くような声。

 振り向けば、餓鬼はガラス片の傍で止まっていた。恐らくガラス片を思いっきり ― 触れたのは四つん這いの姿勢で地面に付いている前足の方のようだが ― 踏み付けてしまったのだろう。皮膚がどれほど頑丈かは分からないが、常人より多少分厚くともそれなりに刺さった筈。

 足止め成功だ。


「ご、ぽごぉぼっ!」


 尤も、足が止まっていたのはほんの数秒だけ。跳べば良いと気付いた餓鬼は、悠々と跳躍してこれを乗り越える

 人間なら助走が必要な程度にはガラス片が散乱していたのに、餓鬼はこれを立ち幅跳びで越えてみせた。正に超人的身体能力。

 とはいえ数秒程度の時間は稼げた。加えて餓鬼の走りが更に遅くなる。ガラスを踏み付けた際、手の裏が傷付いたのだろうか。更に長い猶予を稼げた。

 しかしそれでもやはり餓鬼の方が優成達よりも速く、徐々に距離は詰められている。もう一手、何か手を打たねば不味い。何かないものかと考えを巡らせる優成だが、名案は浮かばず。

 そして状況は、更なる悪化を遂げる。

 優成達二人は路地裏を抜けて、だだっ広い一般道に出てしまったのだから――――

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