第6話「穂村絵里は本が好き」

 確か、この声はツン崎さんとは反対の方向に住んでいる隣人のもの。穂村ほむら絵里えり。彼女は挨拶はするけれど、まだ親密にかかわったことはない。

 ツン崎さんの正体に驚き、何秒かは反応できずにいた。しかし、すぐに気を取り直してドアを開けることにする。一体、何の用だろうか。


「はーい……やっぱり、穂村さんだったんだ。珍しいですね……」


 彼女は薄茶色のふんわりとした髪をした同級生。声どころか顔までもが本当に可愛らしく、一部の同級生が女神のようだと噂していた。そしてまた「何で君の隣が、あの巨乳美人なんだ」と羨ましがられていたが、迷惑でしかない。あいつらが思っているようなラブコメ展開もしたことはない。

 穂村さんは保育学科で、音楽学科のツン崎さんと比べても交流は更に少ない。授業でも会うことがほとんどない。こうして隣の家だからこそ、たまたま顔を合わせるだけ。

 そんな彼女が何故、僕に話をしに来たのか。そうだ。女性同士、ツン崎さんとは親交が深いようで。もしかしたらツン崎さんの命令で「あの人、潰してきて」と言われたのかもしれない。

 だから、今彼女の手には刃物か、拳銃が握られている……ことはなかった。持っていたのは一枚の紙、だ。


「あの、課題のプリントが落ちてました! それでお届けにまいったんですが、これ、長谷部くんので間違いないんですよね?」


 彼女が持ってきた紙を確認すると、僕の名前が書かれていた。間違いない。カフェラテ子さんの配信を視聴する前に窓から飛んでいった課題のもの。

 

「ああ……! ありがとう!」

「良かったです。それにしても、文学部の課題って、こんな小説のキャラクターに関しての課題もあるんですね。何だかとっても興味深いです」


 彼女はにこやかな表情で課題を見つめている。保育学科ではあるが、小説も好きなのだろうか。


「小説を読むの?」

「ええ。主にライトノベル、ファンタジーを……。なろう系って奴から、いろんな文庫で出てるものまで」

「ほぉ……」


 本、か。生憎、うちの部屋には本と言える程のものがない。漫画は多数あっても、小説を買っていないのだ。だいたいは図書館で借りれば、良いと思ってしまっている。その上、この辺りに本屋がない。買おうとしても、コンビニにほんのちょっと置かれているだけ。そこでは漫画の方が量も多いためについつい、そちらを選んでしまう。

 ライトノベルには興味があった。僕の考えを穂村さんは顎に手を当て笑いながら、見抜いていた。


「だいぶ目がキラキラしてますね。やっぱり文学学科に来たのも本が好きだから、ですか?」

「まぁ、一番得意なのが国語だったからってだけなんだけどね。僕の場合……」

「自分も同じようなところです。子供を見るのが好きだからって……ことで……」


 彼女が「子供」という時の顔、光り輝いていた。本当に小さい子のことが好きなのだな、と思いつつ、話を続行する。

 

「穂村さんっていい人だよね」

「えへへ。そうだ! ライトノベル読みません? 貸しますよ?」

「いいの? ほとんど初対面のような感じの僕にそんな大事にしてる小説を貸してもらっても……あっ、気持ちは嬉しいんだけどね」

「問題ないですよ。だって、長谷部くん、自分が使い終わった後の食堂もゴミ捨て場もいつも掃除をしてくれるじゃないですか。テーブルとかもほこりが付いてないか、確認して。時々、大学内でもやってますよね」

「見られてたんだ……」

「はい。なので、綺麗好きでものを大事にする人だって分かってます」


 いや。そういう性格なのではない。手持無沙汰か、自分がぼっちであると感じるとどうにもこうにも心に落ち着きがなくなってしまう。それを収めるために近くのゴミを拾ったり、箒で掃いたりしているだけ。

 決して善意があって、やっている行為ではないのだけれど。

 褒められると、照れてしまう。賞賛のお礼をしておいた。


「あ、ありがと……じゃあ、借りていいの?」

「そんなに心配なら、うちの家で一晩中読んでいって構いませんよ。自分がしっかり見張ってます!」

「ちょっと! ちょっと待ってよ! そもそも男を家の中にいれていいの? 一人暮らしだよね? もし、何かあったら……いや、しないけど。何かあるって思われでもしたら」

「大丈夫です!」

「へっ?」

「女性の一人暮らしの方が自分にとっては物騒です。そこで長谷部くんがいてくれた方が安心できます」

「で、でも」

「前にうちの近くに立ち寄った両親も言ってました。あの子が隣人なんて恵まれていますねって」


 何か、そう言われると照れる。以前、心理学の講義で「普通に誉め言葉を貰うより、誰かが褒めていたと間接的に言われると嬉しい」と聞いたことがある。逆に陰口を聞いた時、正面から悪口を言われる時よりもショックだということは分かっていたから、その原理は納得できた。

 今もまた、同じ仕組みで僕は褒められてどうにもこうにも嬉しい気持ちになってしまう。


「そ、そんな……」

「後、あの子ならうちの子の嫁にしてもいいって言ってました」

「えっ?」


 一旦、時が止まる。僕の顔が固まった。婿むこでなくて、嫁? いや、そもそも婿と言うのもおかしいのだが。

 僕があれこれ考えていると、彼女は吹き出した。


「すみません。冗談ですよ。冗談です。でも、嫁にしてもらいたい位、家事もできるんだろうなぁ、と。顔から真面目さが伝わってくるそうです」

「へぇ……」

「自慢する訳じゃないんですけど、うちの親、大企業のスカウトマン的な存在なので、長谷部くんのことについて間違いはないと思います! こっちの話は本当ですよ」

「そりゃ、光栄だね」


 そんなたわいもないかどうかわからない話を終わりにして、穂村さんの部屋に招待された。女子の部屋については何があるか分からず、構えていたが、ごく普通のものだった。熊のぬいぐるみが置かれているところが可愛らしいが、それ以外は僕とほとんど変わらない。僕の心はそれを知って、緊張が少しずつ和らいでいく。

 他のものを見る心の余裕も生まれた。

 ベッドのそばには大きな本棚が設置されていて、本がずらっーと並べられていた。

 言われた通り、ライトノベルやら文庫本がきっちり揃っている。

 一つ一つ見ていると、先に部屋へ入っていた彼女が感想を聞いてきた。


「どうです? この本の量!」

「いやぁ。地震があったら、穂村さん大丈夫?」

「そっちの心配ですかっ!」

「いや……心配じゃない?」

「まぁ、ちゃんと固定はしてあるので問題はないと思います。本もちゃんと引っ張らないと取れないようになってますし。地震で飛び出ることはないですよ」

「なら良かった。って、ん?」


 本棚の横にある机、パソコンのようなものと共に全て黒い布が掛けられていた。少々大袈裟な置き方が気になって、僕は注目してしまった。

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