第39話 5日間の時間旅行

 ――5月3日。

 きょう詩音しおんの2人が、鳴子めいこを探し回っている中、当の本人は無自覚な5日間に及ぶ深い眠りについていた。時計の針が12時を指し示した今も、その瞼は休むことなく鳴子のルビー色の瞳を隠し続けている。

 午後の陽光が開いた窓から差し込み、鳴子に降り注ぐ。彼女の白肌はほんのりと赤みがかり、いつもより生気のある顔立ちを見せた。


 光が顔に落ちた影の全てを飲み込んだその時、鳴子の瞼はゆっくりと開いた。彼女の目に最初に映ったのは天井に設置された照明。紐を引くことで点灯を促すスイッチには、手が届く様にと、月の装飾が施されたリボンが括り付けられていた。それは水中を自由に揺蕩たゆた海月くらげの様に、風になびいている。

 鳴子はただ空虚なままに、真昼の月が動く様を見つめていた。


「目が覚めたか、怪崎鳴子」


 扉の開く音と共に、鳴子の名を呼ぶ声が部屋に響く。鳴子は声の方へ首を傾けようとするが、不思議なことに彼女の肉体は脳から発せられた信号を拒絶する。


「無理にこちらを向かなくてもいい。外見的な傷跡は無いが、筋肉疲労と酷い筋繊維の裂傷……。即ち“重度の筋肉痛”だ」


 鳴子の肉体が目覚めるにつれ、徐々に全身を覆う気だるさと鈍い痛みを知覚し始める。つい最近にも似たようなことがあったと彼女は思い出すが、その比ではない。もはや痛みを通り越し、指の先さえ動かすことが出来ないのだ。

 鳴子の乾燥で傷んだ喉は、声を掠れさせながら至極真っ当な疑問を口にする。


「ここは……?」


「此処は“明日暮あすぐれ診療所”。俺は院長の明日暮優あすぐれゆうだ。まるで記憶喪失の患者だな……と、言いたいが無理も無い。貴様が運び込まれて5日は経つからな」


「いつっ……!?」


 記憶の欠落による5日間の時間旅行に、鳴子は驚きの声をあげようとするが、それは息苦しさによって引き起こされた咳に邪魔されてしまった。

 優は手にしていたペットボトルを鳴子の手に持たせ、丸椅子に腰掛ける。

 鳴子は喉を鳴らしながら水を勢い良く流し込む。飲み口から伝う水は口元から所々垂れた。しかし彼女は気にも止めずにただ渇きを癒す。その姿は、さながら砂漠の中にオアシスを見つけた飢えた獣だった。


「5日ぶりの目覚めだ。腹も空いているだろう。粥も用意してある」


「……ありがとうございます。答えにくいとは思うんですけど……」


「――“身体に何が起こっているのか”」


 鳴子が質問を投げかける前にその意図を汲み取った優の言葉は、彼女の心と身体を緊張させる。合わせる事を躊躇っていた鳴子の視線は、優と自然に交じり合う。優の瞳は一点の曇りもなく、真摯に鳴子を捉え続けていた。そこにはただ鳴子の目覚めを安堵する意思だけがあった。


「明日暮先生って意外と優しいんですね。会って2回目ですけど」


「意外も何も医者の端くれだ。患者への接し方くらいは心得ている」


 だったらその無愛想な表情をもう少し柔らかくすればいいのに。鳴子はそう思ったが口にすることはなかった。


「話を戻そう。怪崎鳴子、貴様の身体に起こっている異変についてたが……実を言うとよく分からん」


「あれだけ意味深な前置きで!?」


 鳴子は思わず鋭いツッコミを入れた。病み上がりには少々荷が重かったのか、肋骨に響く痛みに鳴子は思わず顔をしかめた。


「あまり大声を出すな。貴様の腹斜筋も例外無くズタズタなんだ。身体に響くぞ」


「明日暮先生、忠告が遅いです……」


 痛む脇腹を擦りながら鳴子は不満を顔に出した。


「あと数日間は貴様の筋肉痛も続くだろう。治るまではここで休むといい。残念ながらゴールデンウィークは潰れるだろうが」


「ゴールデンウィーク……あっ!?」


 鳴子は急いで体をまさぐるがお目当ての物は見つからない。それどころか動く度に走る激痛に思わず涙目になってしまう。


「スマホはそこの机の上だ。個室だし気にせず使うといい」


 優は鳴子にそう告げて病室から1人出ていった。鳴子はその姿を横目で見送ると、言われた通り机の上に置かれたスマートフォンを手に取り電源を付ける。その画面は無数の通知で埋め尽くされていた。


「響さんと詩音さんからだ……」


 そこには鳴子を心配する声が連なっていた。彼女が寝込んでいた5日間全てに欠かさず添えられた2人の言葉は、鳴子に安堵とほんの少しの罪悪感を植え付ける。


「ちゃんと謝らなきゃ」


 返信の為に鳴子がメッセージアプリを開くと、最新のメッセージが映った。


「ん?」


 それは1枚の写真だった。そこには響と詩音、そしてもう1人女がアイスクリームを手にして写っていた。鳴子はその女と接点は無い。だがしかし鳴子は彼女を知っていた。


「この人、八脚馬はかくまの生徒会長だ。確か、山田閑やまだしずかさんだっけ?」


 写真と共に添えられたメッセージにはこう書かれていた。


『一緒にアイス食べよ!ウチの生徒会長も心配してるぞ!』


 いつもの2人の明るい表情に対して、真顔でピースをする閑の“場違い感”のある写真は、鳴子にシュールな笑いを引き起こす。クツクツと出る笑い声に、鳴子はまたも脇腹を抑える。


『皆さんお久しぶりです。連絡が取れずごめんなさい!でもその前に一つだけ』


 笑みを浮かべながら鳴子はスマートフォン上のキーボードを叩く。


『生徒会長さんの顔とポーズがズルいです』



 ※



「俺だ。錆谷十語さびやとうご。貴様が言った通り怪崎鳴子には伝えなかったぞ。だが、本当に“ビダハビットがやって来る”とはな」


 鳴子の病室から少し離れた場所で優は十語に連絡を取っていた。


「まさか彼女に移植した心臓から舞い戻るとは……。つくづく我々と奴は切っても切れない関係らしい。……あぁ、分かってる。決断は彼女に任せる。俺たちは見送るだけだ。じゃあ、また後日。そうだ!借りた金は返せ。来週までに目処が立たなければ、貴様の臓器を二束三文でネットオークションに売りさばくぞ。元より煙草で毒された貴様の肺は二束三文にも満たないが」


 優は一方的に電話を切る。深呼吸をすると彼は鳴子の部屋を見つめた。自分が救った命に価値を見出すかの様に。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る