第32話 愛情表現
腕に細い指を這わせる。肉に浅く沈む指先の感覚は、確かに自分がこの世界に存在していることを確信させる。
皮膚に走る心地の良いむず痒さに、
対照的に
そんな鳥夫を気にすることなく、鳴子らしき存在は独り言の様に語り出す。
「不安材料は多いが、私の心臓は意味を成したようだ。肉体の主導権のみ得る予定だったが、少し試したくなってね。鳴子くんに辛い思いをさせたのは心苦しいが、こうして私の意思を呼び戻せた」
「君は……いや、貴方は誰だ……!?」
「おや、私の血液を保有しているなら分かるだろう?正真正銘の“ビダハビット”だよ。キミには迷惑をかけたね。実験に付き合ってくれて感謝するよ」
「実験……?」
「あぁ。私が命を賭けるべき存在が鳴子くんだ。私自身がこの手で彼女を護らなくてはいけない。そのための保険がこの心臓だ。鳴子くんに命の危機が訪れた時、私と存在が入れ替わる。臓器移植後の記憶転移って聞いたことあるかい?移植された臓器の所有者の人格や記憶が引き継がれるってヤツだ。部の悪い賭けではあったが、私はこうして鳴子くんの命に手をかけようとする君の前に立つことが出来た。実験は成功したということだ」
実際ドナーの記憶が転移する症例は、幾つか確認出来ている。ただ、症例はあれどオカルトじみていて医学的には認められていない。
通常は癖や好みなど、日常生活に支障をきたさない程度の変化が見られるが、鳴子には至っては口調や振る舞い、そして意識さえも変わっている。完全なる
「あはははは!僕でも分かるぞ!貴方はイカれている!痛めつけた上で護る?流石は最強の都市伝説、思考回路も最凶なんですねぇ!全く持って醜悪ですよ!」
「醜悪……いや、これは愛だよ」
「は?」
「動物は痛みを伴うことで始めて命の危機を自覚する。鳴子くんは死に追われていることが日常だったからね。言わば死に慣れてしまっていたのだ。その感覚を矯正し、死に恐怖を覚えてもらう。私なりの愛情だ。キミには悪印象だったかね?」
鳥夫はビダハビットの弁舌に乾いた拍手を送る。上位の存在が下位の存在に痛みを学ばせる。言い換えれば、“持つ者が持たざる者を支配する”。
鳥夫は“力による支配”という点でビダハビットにシンパシーを感じていた。
「いいや……むしろその逆。強大な力を使い、依代として下等な人間を支配する。僕と同じですねぇ。安心しましたよ。貴方は立派な都市伝説だ」
――刹那、鳥夫の首が胴体と切り離される。
思わず鳥夫は首元を抑える。首と胴は繋がっていた。明確な死のイメージを錯覚するほどの凶悪な殺意に、鳥夫は地面に座り込んでしまう。
「私が、人を、支配する?私はいつそんなことを言った?……言葉には気をつけた方が良い。私は人類の味方。更に限定的に言うなら怪崎鳴子くんの味方だ。私は彼女を護ると言っただろう。その為に必要なことをしたまでだ。キミが私の、人の、鳴子くんの価値観を決めつけないで貰おうか」
ビダハビットが先にも増して強烈な圧を放つ。周囲は鼓動の様に地鳴りする。鳥夫の体毛は逆立ち、身体中が震え上がる。今、彼の脳裏は理性と本能でせめぎ合っていた。
絶対的な強者に直面した時、生物の取る行動は二者択一だ。
1つは【理性を働かせ、脱兎の如くその場から逃げること】。一度理性に脳を傾けてしまえば、冷静に周囲を分析し“逃走”ひとつに集中すれば良い。
もう1つは【本能のままに戦うこと】。もちろん愚策だ。力の差が分かっていながら立ち向かうことは、勇気ではなく無謀だ。決して選ぶべきでは無い選択肢だ。しかし極限状態に置かれることでこの間違いを犯してしまう。多量のアドレナリンの分泌で騙された脳は、過度の興奮を引き起こすからだ。
故に鳥夫も立ち向かってしまう。凌駕した抑えきれない闘争本能に身を預け、勢いのまま地面を蹴り飛ばした。
4枚の翼を展開し超低空を滑空する。即座にトップスピードに到達した鳥夫は、まるで彗星の如く推進する。そして鋭い
――かの様に思えた。ビダハビットは鳥夫の全てを目で追っていた。懐に嘴が達する瞬間、両の手でそれを受け止める。掌が焼ききれることなど気にする様子もなく、勢いを止めるためビダハビットは両脚に力を入れた。
アスファルトは削れ、分散された力は空気を伝わりビダハビットの後方へ流れる。背にした石造りの壁が瞬く間に崩れ去るが、未だ鳥夫は止まらない。
「流石私の血液だ、凄まじいね」
自分ではなくビダハビットの血液で判断された事実に、鳥夫は更に頭に血が上る。力任せに地面をまた蹴り上げた鳥夫は、ビダハビットごと真上に飛翔した。支えが無くなったビダハビットは、為す術なく空へ持ち上げられた。強烈なGがかかる中、未だ嘴を掴む手は離れていなかった。2人はグングンと天高く舞い上がる。
イカロスが太陽を目指した様に、一直線に空へ羽ばたく鳥夫は、誰よりも自由だった。
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