第31話 覚醒の鼓動
けれど鳴子は、この異様とも言える漆黒の世界に何処か安息感を覚えていた。懐かしさにも似た奇妙な居心地の良さに疑問を持つものの、彼女にはそれが何か分からなかった。ぼんやりと立ち尽くす鳴子の脳内に、突如声が反響する。
『ビダハ……ビット……』
何処か聞き覚えのある声がそう告げると同時に闇が晴れる。開けた視界の先には、壁画に描かれた神のような翼を持つ
(田中さん!?)
思わず声を荒げようとする。が、不思議なことに発声出来ない。それどころか口を動かすことが出来ない。
自分の身体の筈なのに、自由に扱えないこの感覚を鳴子は経験したことがある。
(これ、前に見た夢と一緒だ……。でも、なんで田中さんが……?)
鳴子の意思に関わらず、彼女の首が横を向く。鳴子は瞳に映る光景に思わずハッと息を飲む。
そこには2人の人間が横たわっていた。1人は女性。口元から大量の血液が零れ、見るからに弱っている。
そして、もう1人は友人である枝織響だった。彼もまた頭部から流血しており、青白い顔をして倒れ込んでいる。夢の光景である筈なのに、臓器を直接触られる様な不快感が鳴子を襲う。目を背けようとしても、瞼が閉じない。逃げたそうとしても身体が動かない。無理矢理見せつけられる地獄を、彼女の瞳は焼き付けていた。
「そうか!そうだったの怪崎鳴子ォ!君がビダハビットだったのか!!悪事を聞きつけやってくるとは良く言ったもんだなぁ!なぁ、答えてみろよ僕の行いは悪いのか!?力を持つことは悪なのか!?僕の正義に口を出すのか!?嘆かわしい!世も末だなァ!!」
(私がビダハビット……!?鳥夫さん、何言ってるんですか!!それより響さんが!!)
依然鳴子の叫びは音にならない。意味不明な鳥夫の言葉が、追い詰められた鳴子に更なる負荷をかける。脳の容量を逸脱した出来事に、思わず吐いてしまいそうになる。だが、それも吐き気だけだ。嘔吐の感覚だけが鳴子に伝わる。意識はあるのに行動に移せない。正しく悪夢だと鳴子は思った。
――突如鳴子の顔面に強烈な痛みが走る。景色がぐるりと90度変わる。痛みを訴える間もなく、腹部への衝撃が連続して訪れる。
骨が軋む。歪む。折れる。
味わったことの無い痛みに、鳴子は誰の耳にも届かない絶叫をする。悶絶する鳴子の気持ちなど差し置いて、彼女の肉体は立ち上がる。
「流石だ!素晴らしい!!僕に力を与えた存在が、この程度のことを耐えられなければどうすれば良いのかと思ったよっ!」
(た……田中、さん……!やめっ――)
鳴子の制止は意味を持たなかった。瞬く間に鳴子に鳥夫が近づくと、風切り音に混ざって肉の裂ける生々しい音が聞こえた。
一閃。鳥夫が凄まじいスピードで振り下ろした手刀が、鳴子の右腕を切り落とす。一拍置いて切断面から血液が勢いよく吹き出した。残された肘から上の部位は、内側からじわりじわりと痛みが広がり、激痛となって襲いかかる。もはや気絶した方が幾分もマシだろう。だが鳴子の肉体はそれを許さない。
痛む右腕を抑える権限さえ失った鳴子は、痛覚に流れ込む危険信号を素直に受け入れるしかなかった。
鳥夫の暴力は未だ留まる所を知らない。拳。手刀。蹴り。鳴子の身体はひしゃげ、皮膚は削がれ、もはや生きていることが不思議で仕方がない。身体中から飛び散る血液は彼女の衣服を汚し、全身を赤黒く染め上げる。
(夢だ。夢だ。夢だ。夢だ。これは夢だ。起きたら響さんも、あの女の人も無事だ。私の怪我も何もかも無くなる。大丈夫、田中さんだって元に戻ってる。夢だ、夢なんだ……)
鳴子は狂った様に“夢の中の出来事”と己に言い聞かせ続けた。
――――痛いけど夢の中だ、苦しいけど夢の中だ。
鳴子の叫喚は、自身の不幸を呪う言葉となる。
――――何故私が痛みを感じなければならないのか、何故私か苦しまねばならないのか。
鳴子の憤りは、憎悪へ変貌を遂げる。
その時、今まで願っても動かすことの出来なかった口元は己の意思に従い、ただ一言こう告げた。
「――――ぶっ殺してやる」
最期に明確な殺意を声にした鳴子は、意識を手放した。
*
鳥夫は涙が溢れる程の歓喜に満ちていた。最強の都市伝説を、意図も容易く屠ったのだから。
鳥夫は力という正義を証明した自分に深く酔いしれる。
「あっははははははっ!!何が最強だ!何が無敵だ!!僕の正義は証明させてもらったぞ!!やはり力だ!圧倒的な力だけが僕の心を満たしてくれるんだ……。次は
鳥夫の目的は
「……そうか分かったぞ!ビダハビットは天からの贈り物だったんだ!!君は僕のために殺されてくれたのか!ありがとう!血液は有効に使わせて貰うよ」
不安定な情緒に苛まれ、支離滅裂な事を口走っていることさえ彼は気づかない。更なる力のため、鳥夫はただ都合よく現実を解釈した。
鳴子の首筋に狙いをつけ、舌を這わせようとする。
――その刹那、鳥夫に悪寒が走った。
本能に従い即座に鳴子との距離を取る。
鳥夫は思った。あまりにも呆気ないと。
(自分が一方的に攻撃していた筈だ。だが、相手が1度でも何かをしかけて来たか?否、動くことさえ無かった。)
鳥夫は必死に悪寒の正体を探る。そして、目を背けたくなる可能性を思わず口に出してしまった。
「……まさか攻撃させられていた?」
その瞬間、ケタケタケタと鳥夫を嘲笑うかの様に、鳴子から飛び散った肉片が動き出す。それらは鳴子を中心にし、円を描く様にどんどん集まっている。血液と肉は赤黒い渦を作り、逆再生の様に鳴子の体を構成していく。切り落とされた右腕が繋がっていく光景は異質としか言えない。
全ての血肉が鳴子の元へ還った時、彼女の絹の様に白く美しい髪色だけが、光さえ飲み込む漆黒に染まっていた。
鳴子は目を開く。初めてこの場所を訪れた様に感じる眼球の動きは、先程までの鳴子らしく見えない。周囲を見渡した後、鳥夫の方に目線を向け、にこりと口角を上げた。
「どうやら手術は上手くいった様だね。キミが生きていることにホッとしたよ。……怪崎鳴子くん」
その声は鳴子の姿から発せられてるとは到底思えない、落ち着いた男性のものだった。
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