第29話 色眼鏡越しの世界も悪くない

 放課後に委員会の仕事があった枝織響えだおりきょうは、珍しく一人で下校の支度をしていた。怪崎鳴子かいざきめいこ錆谷詩音さびやしおんが居ない放課後は、いつもより薄暮の物悲しさを増長させる。

 柄にもなく黄昏ている響に、敷島亜姫しきしまあきからメッセージが届いたのはその時だった。


『校門前で待ってる』


 意中の人からの連絡に、内心小躍りしながら響は教室の窓から校門を見る。そこには黄色の軽自動車が停まっていた。


「あれ亜姫さんの車だよな……って、まじで来てんじゃん!!」


 響は机の中に押し込んであったプリント数枚を、鞄の中に乱雑に詰め込む。その勢いのまま廊下に飛び出し、彼は3段飛ばしで階段を駆け下りた。すれ違った教師が何か文句を言った気がするが、耳に止める必要も無い。その程度で愛しいあの娘の元へと一心不乱に向かうこの脚を止める訳にはいかない。

 わずか20秒。響は2階にある教室から、下駄箱までの道のりで新記録を叩き出す。勿論競う相手などいない。強いて言うなら、高鳴る自分の鼓動くらいだ。

 響は手を使わずに履きなれたスニーカーに足を通し、転がるように目と鼻の先にある校門を目指す。雑に結ばれた靴紐は左右非対称の輪を作り、歩みを進める度に揺れるそれは、彼の浮き足立つ心そのものだった。


 車内の亜姫は何処か上の空でスマートフォンを弄っていた。手持ち無沙汰故に、ポケットサイズの叡智の結晶に触れてしまう彼女は、現代いまを生きる若者を体現している様だ。

 画面を見ることさえ億劫になってきた亜姫が視線を外に移すと、見知った顔が慌てて駆け寄ってくる。彼女はその姿を視認して、宙に浮いた心がようやく自分の元に戻った気がした。

 フッと軽く口元を緩ませ、亜姫は車のドアを開ける。


「やっと来たな枝織」


「亜姫さん、どーも。てか、メッセージからそんなに経ってないでしょ」


「それでも意中の女は待たせるもんじゃないだろ?」


「……ウス」


 亜姫の少し理不尽な追求も、響は素直に受け止める。万物万象は移ろい変わりゆくのが世の常だが、“惚れた弱み”というのは今も昔も変わらない。


「ぷっ……あははは!そんな真に受けんなよ!ほら、車乗りな」


「もぉー!……分かりましたよ。安全運転でよろしくお願いします!」


 夕日に照らされた亜姫の髪は、美しく赤みがかり艶やかに輝いていた。大人びた雰囲気を纏う彼女の子供らしい笑顔が、響の瞳に焼き付いく。大好きなこの笑顔を見る度に胸の奥が苦しくなる。響は亜姫の存在に心底溺れていることを再確認し、自嘲気味に笑った。


 響が助手席に乗り込むと、亜姫はシフトレバーに手をかけた。彼女はギアひとつひとつの感触を味わいながらレバーを下ろす。D《ドライブ》のマークがメーターに表示されたことを確認すると、亜姫はサイドブレーキを解除しアクセルペダルをゆっくりと踏み込んだ。車の加速に伴って速度計スピードメーターの針が徐々に上がっていく。


「亜姫さん、オートマなんですね」


「ん?あぁ、マニュアル免許なんだけどな。親から譲り受けたからオートマ乗ってるだけ。あたし、多分今マニュアル乗ったら絶対エンストさせる自信あるわー。いくら免許持ってても、オートマに乗り慣れるとなぁ」


「そういうのって感覚取り戻すまで大変そうですよねー。俺免許すら取れないかも」


「私でも取れるんだから、大丈夫だっての」


「確かに。亜姫さんの運転荒いですもんね!」


「前言撤回。枝織は免許一生取れない。今、試験で毎回1点足らずに落ちる呪いを掛けた」


「ひっど!?地味だけど嫌過ぎる!!亜姫さん露骨過ぎ!」


「あっははは!私のドラテクに文句言った罰だよ」


 車内は2人の他愛の無い会話が続く。友達以上もうすぐ恋人。そんな関係を見透かしてか、カーオーディオから流れるラジオは、在り来りな恋愛ソングを流し始める。捻りのない恋模様を描いた歌詞は、普段の彼らには耳障りなだけだろう。しかし恋とはくも恐ろしい。そのノイズでさえ、相手の魅力を引き出す要素のひとつになるのだから。


「まさか亜姫さんからデートに誘ってもらえるとは……」


「デートォ?2人で車に乗ってるだけなのに?」


「好きな人と2人きりだったらそりゃもうデートなんですよ!」


「枝織……お前、案外積極的なのな」


「“成人したら”って約束しましたから」


「普通酔っ払いの戯言真に受けるか!?」


「酔ってても言質は言質でぇっす!!あ、もしかして亜姫さん照れてるんですかー?」


「うっさい!事故るぞ!!」


「ちょっ!マジで危ないですって!!」


 強引なハンドル捌きに体制を崩しながらも、響は亜姫の耳が赤く染まっていることを見逃さなかった。憎まれ口を叩く亜姫もどうやら満更では無いようだ。自分の気持ちが伝わっている手応えに、響は思わずガッツポーズをする。亜姫はそんな彼を見てムッと睨むが、響の目には愛おしく映っていた。


 たったひとつの感情が世界を極彩色に塗り替える。人生が豊かになるなら、好きな人くらい色眼鏡越しに見てもバチは当たらない筈は当たらない筈だ。もしそれで天罰など降り掛かろうものなら、神様に中指を突き立ててやる。響はそう心の中で自分勝手な誓いを立てたのだった。

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