第28話 死中にて経験は言葉を発する

 田中鳥夫たなかとりのスピードを目で追うことは至難の業だ。例え人智を超えた存在であっても、彼の俊敏な動きを見切れる生物はこの世にはそういないだろう。


 だが、もし存在たとしたら?



 ――――鳥夫の脳内は混乱していた。余りにも一瞬の事で、現状に理解が追いつかない。


 鳥夫は最高出力、最高速度、共に最高のパフォーマンスで鳥喰聖愛とりぐいせいあに襲いかかったにも関わらず、何故か地に伏しているのは彼自身だったのだ。


「あっれー?おかしいねぇ鳥夫くぅん?ウチ、軽く小突いただけなんだけどなぁー?」


 今のが軽く小突いただけだと?

 歴然とする力の差に、鳥夫の頭は真っ白になるになった。思考より本能が働く。鳥夫はすぐさま上体を起こし聖愛との適切な距離を取った。


 彼は


「あっれー!鳥夫くん何で構えてるのぉ?さっきまで余裕綽々よゆうしゃくしゃくだったじゃーん。不思議だねぇ?奇怪おかしいねぇ?か弱い女の子に良いようにされるなんて自分でも驚いちゃうよねぇ?」


(か弱いって……聖愛ちゃんも冗談が上手いカパね)


(バッカお前!それを口に出したらタダじゃ済まないコン!主に俺が!)


「コクリータ!後でグーパン!!」


「やっぱりぃ!?でもありがとうございますっ!」


 眼前に意図も容易く人体を切り刻む上位存在ばけものが居るというのに、聖愛には緊張感が欠片も見受けられない。片手間どころか、意識すら向ける必要の無い無価値で無害な生物。鳥夫に対する聖愛の認識は“弱者”だった。


 ――――それが逆に鳥夫の心に火をつけた。

 明らかに大きな力の差がある相手に、決定的な有効打を与える方法。

 それは“心の隙を突く”こと。力を持てば誰にでも付き纏う“慢心”という心の隙。それが如何に危ういものかは、世に残る英雄譚が物語っている。何十と戦に勝とうが、何百と怪物をほふろうが、何千と死地を乗り越えようが慢心一つで命の灯火は燃え尽きてしまう。

 言わば英雄とは反面教師なのだ。強者としての地位に胡座あぐらをかく者には、悲惨な運命が待つと身をもって教えている。故に勝つために死力を尽くす弱者は、本来勝ち取れる筈のない強者の首を手にすることが許されているのだ。


 鳥夫は一心不乱に思考する。聖愛に一瞬の隙さえ作ることが出来れば、己の拳を叩き付けることができる。彼にはその為の力も速度も自信もある。だがその隙をどうやって作ればいいと言うのだ?


(本殿に隠れるか?いや既に間合いだ。辿り着く前にやられてしまう。ならば戦略的撤退か?否、一泡も吹かせずに逃げるなどプライドが許さない。これは自分が成長するための戦いなのだ。元より逃げ腰ではいられない!)


 知恵を絞り出す鳥夫の脳内は、一筋の活路を見出す。


 それは敗北の記憶。

 人である手振柘榴てふりざくろに翻弄されたあの苦々しい経験を、鳥夫は頭の中で何度も反芻する。


 柘榴の活路は知略。

 死角を突き、動揺を誘い、最後には必ず望んだ結果を得る。それは名誉ある勝利とは決して言えない。姑息、卑怯といくら罵ったところで、彼女は渇望する結果の為に最大限の行動を取る。だからこそ彼女は、あの戦いに初めから揺るぎない勝利を確信していたのだろう。事実鳥夫の記憶には“完全敗北”の烙印が押されている。


 鳥夫は再び思考する。あの時の柘榴の動きを思い出す為に。


(そうだ!プライドなどおごる為のものでしかない。強者にのみ許された特権……!今の僕はただの弱者……。だからこそ、どんな手を使ってでも、全身全霊で目の前の強者メスを潰す!!)


「慢心していたのは僕の方だったか……!」


 鳥夫が聖愛を前にして、初めて言葉を口にする。鳥夫の瞳には決意が宿っていた。


「おっ、やっと喋ったか。ウチの強さちゃーんと理解した?ほら来いよ。ウチが遊んでやる」


 聖愛は煽るように人差し指をクイクイと動かした。鳥夫は挑発に乗らず、動かない。緊張が二人の間に漂う。


「今だッ!!」


 鳥夫が大きく両翼を動かすと同時に、砂利が散弾の様に聖愛目掛けて飛び散った。小石が空中でぶつかり合い、激しい音を立てる。


「目潰しか!単純だけど悪い手じゃねぇ!!」


 聖愛に動揺は見られない。右腕を大きく薙ぎ払い、降り掛かる砂利を冷静に対処する。砂利の霧が晴れた先に鳥夫の姿は無い。

 直後背後の気配を感じ取る。聖愛は薙ぎ払いによる身体の捻りを活かし、左拳による裏拳を真後ろに叩き込んだ。


「気配が丸分かりなんだ……よ?」


 聖愛の拳は空を切っていた。彼女の真後ろには砂煙が立ち、確かに鳥夫の形跡は残す。

 予想が外れた聖愛の脳に0.2秒のフリーズが発生する。それは彼女が鳥夫と対峙して初めてのだった。


 ――その隙を見逃す程、鳥夫は弱者よわく無かった。


 今、田中鳥夫は鳥喰聖愛の真後ろに立っている。鳥夫の右脚は力強く大地を踏み込む。その力に基づき放たれた渾身のハイキックは、聖愛の後頭部に狙いを定めていた。


 聖愛は急所を守るため咄嗟に振り返る。彼女の両腕は、未だ宙で行き場を失っていた。


 バシィンッ!!


 振動が大気に伝わり、重い破裂音を響かせる。鳥夫の蹴りは見事聖愛の右顔面を捉え、彼女は大きく体制を崩した。


 

 聖愛は完全に倒れ込む直前に、右足を前に出して身体を地に根付かせたのだ。聖愛はその体制のまま硬直する。

 この一瞬の為に全集中力を使った鳥夫の呼吸は、自分でも気付かぬ間に荒く乱れている。極度の緊張を乗り越えた鳥夫の鼻先から、一筋の血液が流れた。

 未だ背を向けた聖愛の表情は鳥夫には伺うことが出来ない。焼き切れかけた鳥夫の脳は、息を整えることを最優先に指示し、聖愛への攻撃など考える余裕は無かった。


 数秒後、聖愛はゆらりと上体を起こし始める。彼女の瞳に映る感情は怒りか、はたまた哀れみか。鳥夫は両の目を見開き、瞬きひとつせず彼女の様子を伺う。腰から上半身。上半身から両肩。聖愛の単純な動作が、鳥夫に永遠の時間を感じさせる。そして彼女は首を動かし、鳥夫の方へ振り向いた。


「ウチのご尊顔を蹴り飛ばすなんて罰当たりじゃん」


 刹那、鳥夫の腹部に今まで感じたことの無い衝撃が走る。臓器に直接伝わる痛みは食道を駆け登り、口内をこじ開け、大量の血液を無理矢理吐き出させる。痛覚が脳内に全力で危険信号を送る。

 それを鳥夫が知覚した時、既に彼の身体は木々を薙ぎ倒しながら遥か後方へ吹っ飛んでいた。


 鳥夫は薄れる意識の中で、直前に目にした狂気を思い起こす。それはにこやかに笑いながら、拳を腹部に突き立てる聖愛の姿だった。


 *


「随分と遠くへ吹っ飛んでったねぇ。方角的に……向こうの山のトンネル付近まで行ったかぁ?その辺のガードレールにでも引っかかってる筈だから生きてはいるだろ。にしても軽すぎ!ビダハビットの血液が混じってるって言ったから期待したのに!!」


「所詮、鳥夫には過ぎた力ってことカパねぇ。それに、ビダハビットとやり合える聖愛ちゃんからしたら、相手にならないと思うカパ。まぁ、顔に蹴りを入れるたのは驚いたカパ」


「そこだけは褒めてやってもいいな!アイツ、ウチが反応すると読んで気配を残してた。やろうと思っても、咄嗟に出来ることじゃない。次に会った時、もし強くなってたらまた相手してやろうかねぇ」


「聖愛ちゃん!顔は大丈夫コン!?」


「大丈夫だよコクリータ。ありがとう。……ってそう言えばウチのグーパン、まだだったよなぁ?」


「へ?」


 身構える暇すら与えない無慈悲な聖愛の拳がコクリータの顔面を歪めた。


「感謝からの暴力!!ありがとうございます!!」


「……」


「ん?聖愛ちゃん如何なされたカパ?」


「ウチさ、普段コクリータを殴ってる力で鳥夫を殴ったのよ。鳥夫は吹っ飛んで、このバカ狐は喜んでる……。もしかしてコクリータって強い?」


「……愛ゆえじゃないカパ?」


 2人は吹っ飛んだコクリータの方を見る。視線に気付いたコクリータは満面の笑みでダブルピースを向けた。屈託の無い笑顔は愛くるしさを超えて、むしろ苛立すら感じさせる。聖愛の額に青筋が浮き出たことをカパルチーノは見逃さなかった。


 山に響き渡る狐の嬌声も、いつかは都市伝説になるかもしれない。そんなくだらないことを考えながら、カパルチーノは大きく溜息を吐いたのだった。

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