第8話 銀行
叡山は小さく頷き、皆に聞こえるような大きな溜息を洩らした。とぼとぼと歩き、元の位置に戻ると、片膝を立てて座った。
これ以上の説得は意味がない。だが意味の無いことを正義の皮をかぶった汚い大人たちは再開させる。
叡山は腕時計を眺め、頭を掻いた。
結局この後に新たルールが追加されたことは言うまでもない。叡山がやらなくても誰かがやった。排便と排尿という生理現象は止めることはできない。それを踏まえた上で犯人は高らかに宣言するのだ。
「いまからトイレに行くやつは俺が殺す。死にたくないならその場でやれ」
これが社会的に生きている人類にとってどれ程の苦痛であろうか。改めて鳴った地獄への鐘に人質たちは絶望するほかなかった。
それからかなりの時間が経った。明り取りの小窓から見える空は既に暗くなっていた。拘束されて六時間以上が経過している。受付の上にある掛け時計は七時を回っていた。
これだけの時間、監禁されているのだ。その上でトイレ休憩たるものは一切ない。緊張や恐怖で耐えられなくなり、尿を漏らす者が出てきた。それを皮切りに脱糞する者も現れる。フロアには汚物の匂いが充満し始め、文字通りの地獄と化した。
もちろん、最初にトイレ休憩を要求した叡山は漏らしてなどいない。なぜならあれはただ逃げるための口実。実をいうと今日は朝から何も食べていない。むしろ空腹で腹の虫が鳴きそうだった。
最初のうちは威勢が良かった男も黙りこくり、泣き叫んでいた女性職員たちはしくしくと静かに泣き始める。人質たちは憔悴しきっていた。
首の骨が折れた人形のように誰もが俯く。
叡山はそのさなか、睡魔に襲われていた。もうすでにこの犯人に殺意が無いことは分かっている。気は緩んでいるからこそ張ることが出来る。
叡山はそのまま腕を組み、寝てしまった。
そこからさらに数時間が経過した。時刻は十時を回っている。先ほどに比べて外はかなり騒がしい。
恐らく機動隊が包囲しているのだろう。叡山は拡声器から聞こえた刑事の声で目を覚ました。
フロアは代り映えのない光景が広がっている。犯人は依然として行動を起こす気もなく、監視を続けていた。
ふと組んでいた腕を下ろし、ポケット辺りに指が触れた時、中のスマホが震えた。バイブが床に響き、視線が一挙に集まる。
「すまない電話だ。出ていいか」
「ダメだ」
「ダメって――出ないと鳴りやまないぞ」
叡山はそう言って、スマホを取り出す拍子に、ちらりと掛かってきた電話番号を確認する。するとそこには依頼先の番号が表示されていた。
城場善一郎の殺しを依頼した山代組の組長から直々の電話だ。何が緊急の依頼が入ったのかもしれない。この機を逃したらもう仕事が貰えなくなるのでは、という焦りが叡山の全身を駆け巡った。
「頼む、緊急だ。こればかりは譲れない」
「俺の言ったことを守れ、誰も入れるなと言うとの外部からの通信も含まれる」
二人は睨み合い、静止した空間にバイブ音だけが響く。
「悪いな。俺も外道の部類だ」
叡山は笑った。スマホの通話ボタンを押そうとする。
「やめろ!」
犯人は怒鳴り付けながら、猟銃を構えた。フロアに張りつめた緊張が走ったその時だった。
明り取りの小窓が割れた。
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