一八六七年(慶応三年)十二月
西南の夢
季節は冬。先の十月末に徳川慶喜が朝廷において大政奉還を行ってから、まだふた月も経っていない。
反幕派の思惑を躱して徳川慶喜が実行した大政奉還の実質は、徳川家が武家を統治する権限を朝廷に移管しただけに過ぎなかった。統治の権限を朝廷に委譲したところで徳川家は全国の主要な領地を直轄地として所有していたし、各地の大名による領地の統治にも影響はほとんど生じていなかった。
だが江戸では、大政奉還のあった十月以降、薩摩長州の藩士が多く流入して、これまでよりもいっそう傍若無人に振舞うようになっていた。
これは幕府軍との武力衝突を起こしたい薩摩藩の西郷隆盛が指揮する計略で、江戸だけでなく関東近郊の各地で薩摩浪士は奇襲や攪乱戦を起こしていた。
そもそも薩摩藩は、徳川幕府から見れば関ヶ原以降に恭順した外様大名である。幕府における外様大名の地位は、譜代大名に比べて格段に低かった。
鎌倉時代から薩摩の地の領主であった由緒深い島津氏だが、徳川幕政への参加は認められず、常に中央に服従するだけであった。
しかし外国船が頻繁に日本近海に出没するようになると、薩摩藩は幕府の目が行き届かない地の利を利用して海外との積極的な接触を行うようになった。鹿児島の地には物資や知識が集積され、結果として薩摩藩は各地のどの藩よりも、どころか幕府にも先駆けて、近代的な軍備や技術の獲得に成功した。
一八五四年に老中に就任した阿部正弘は、固定化した幕政を改革するために安政の改革を行って、身分の上下に関わらない人材登用を行った。これまで譜代大名のみが参画していた幕政に、この時初めて薩摩藩島津氏を含む外様大名が加わった。
諸外国との交渉の経験を買われて登用された島津氏は、幕政での権力を得て、開国を目指す幕府との協調路線を選択した。また将軍家に養女である篤姫を嫁がせるなど、権力を急速に拡大した。
だが、これまで権力を独占してきた譜代大名との軋轢は当然のように厳しく、特に尊王攘夷を唱えて自身への政権の移譲を画策していた水戸徳川氏とは、激しく対立した。
この対立を懐柔するために、薩摩藩は佐幕一辺倒ではなく、朝廷と幕府が協力して政治を行う公武合体を提議した。これは朝廷を重んじる水戸藩の尊王思想を取り入れた折衷案ともいうべきものだったが、対立は解消されることなく、安政の改革を行った阿部正弘自身が責任を取って辞任する事態となった。
開国に前向きな当時の幕府に協力的であった薩摩藩島津氏と、最後の将軍となった徳川慶喜を筆頭とする水戸派の軋轢は、既にこの時点で明確になりつつあった。
阿部正弘の後、その任に就いた老中は、分裂する幕政の意見を取りまとめることに奔走した。だが井伊直弼が大老に就任すると、水戸藩の徳川斉昭や開国に反対する攘夷一派は処罰され、幕政から遠ざけられた。
安政の大獄と呼ばれるこの処罰に不満を抱いた水戸藩浪士らによって、井伊直弼が暗殺されたのが一八六〇年の桜田門外の変である。自由貿易の是非から政体の在り方へと変遷してきた意見の対立は、この時点から手段を選ばない権力闘争へと不可逆的に変容していった。
一八六二年、薩摩藩に重大な事態が生じた。江戸から薩摩に戻る藩主島津久光の大名行列の前をイギリス人が横切り、その場で薩摩藩士によって殺害されたのである。生麦事件と呼ばれるこの出来事は、日英開戦を予感させるのに十分な危機をはらんでいた。幕府はイギリスが要求した莫大な賠償要求に応じたが、薩摩藩は犯人の引き渡しにも賠償要求にも応じなかった。
一八六三年七月、前年の生麦事件を巡って薩英戦争が勃発した。当初イギリス側はまったくの圧勝でこの戦争を終えることを信じて疑わなかった。しかし始まってみれば、確かに薩摩の地は実に四百発に及んだイギリス艦隊からのアームストロング砲撃により甚大な被害を受けたが、イギリスも自艦一隻が航行不能となり、かつ艦長と副艦長一名ずつが戦死し、他にも死傷者六十数名を出す惨事になった。
この報告を受けたイギリス本国の議会では、やらなくて良かった戦闘であるとの非難が大勢を占め、イギリス艦隊を率いていた代理公使ニールは自国での立場を危うくした。
このような背景から、薩英両者から事態の早期解決の希望が出され、それを幕府が仲介する形で薩摩藩とイギリスの間で講和が結ばれた。
この時点で薩摩藩は、武力による攘夷思想が非現実的であることを骨身に染みて実感していたが、公武合体の思想自体は捨てていなかった。そして、より新たな技術と兵器を求めて、講和を結んだばかりのイギリスと急接近した。これ以降、薩摩藩の軍艦、汽船、大砲や最新式の洋銃の輸入や、金銀、綿や茶といった藩の特産品の輸出は、イギリスの武器商人グラバーを主な仲介人として行われるようになった。
一八六四年八月、薩英戦争の余韻が退かぬままの翌月に、薩摩藩は公武合体で意見が一致していた会津藩とともに、尊王攘夷派の長州藩を武力で京都から一掃した。
蛤御門の変と呼ばれるこの事件で、薩摩と長州の間には深い軋轢が生じたが、同時に薩摩藩の一部は長州藩との友好関係の構築を模索し始めていた。
攘夷の肯否という点で譲れるところはなかったが、幕政には再び水戸派が返り咲いていた。硬直化する幕府中枢から権力を奪取するには、朝廷の賛同が大きな意味を持つ。徳川氏の権力を制限する尊王の考え方は、外様藩である薩摩が権力を取り戻すためには充分有用で、今後を慎重に見据えた一手であった。
一八六四年八月、薩摩藩は幕府の命を受けて長州征伐を行った。幕府側の追討軍総督参謀となった西郷隆盛は、敗軍となった長州藩との交渉の場においても、長州の懐柔を試みた形跡がある。
薩摩藩は次第に、徳川幕府に変わる統治形態について、各藩の代表者が会議を開催し合議の下に政治を行うことの可否等を含めて検討し始めた。これは西洋の議会政治形態に影響を受けた考え方であると言える。
一八六六年一月、攘夷論が未だ根強い幕政中枢に見切りをつけた薩摩藩は、表向き敵対関係にあった長州藩と同盟を結んだ。この仲立ちとなったのが土佐藩士の坂本竜馬だった。この同盟を結ぶにあたって、薩摩藩は幕府と朝廷が対等の立場で政治を行う公武合体の意思を捨て、一気に討幕へと傾いていくことになる。
一方で徳川慶喜は、制御しきれなくなってきた諸藩の序列均衡を新たな体制で仕切り直し、再び徳川氏が諸藩を統治する土台を得ることに活路を見出していた。
一八六七年十月、徳川慶喜が行った大政奉還は、武家の統治権を天皇に返上するのは単なる名目で、朝廷の名のもとに諸藩の序列が一様に平均化されたところに徳川慶喜が目指した本来の意義がある。
統治権の移譲だけならば徳川氏の領地は変わらない。どころか、諸藩を統治する実務的な能力は朝廷にはなく、遅かれ早かれ朝廷は再び徳川氏に諸藩の統治権を移譲せざるを得ないという目論見が幕府側にはあった。
現に江戸を始めとする主要な都市や貿易港は、徳川御三家や庄内藩酒井氏を始めとする譜代の幕臣が堅守していた。
徳川氏の権力を奪い、新たな勢力として薩摩藩が台頭するためには、徹底的に旧幕府勢力の力を削ぐ必要があった。すなわち互いの総力を掛けた武力衝突が必須であると、薩摩藩の軍師、西郷隆盛は考えていた。
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