疑念☆

 泣き暮れる岩見の母を、坂元の母は何度も訪れて慰めた。その言葉の端、岩見に庄内藩を裏切る行為があって、下手人の捜索も充分に行われないまま打ち切られたという話の続きに、もはや岩見は最初からいなかった者として扱われるらしいと坂元の母も目じりの涙を拭った。


 坂元はまた、自分の手の内から何かが取り上げられた深い喪失感を覚えた。祝言を上げた妻との間に子が生まれ、役目が順調に上がっても、その喪失感はいつも坂元に纏わりついた。


 一八六七年、坂元は再び江戸に赴任した。

 庄内藩が江戸で求められる任務は多岐にわたるため、国許と江戸との間は常に多くの藩士が往き来していた。坂元はその一人として上京を命じられたのだが、他の藩士が敬遠しがちだった新徴組の見張り役の任を自ら買って出たのは、勿論、岩見のことがあったからだ。


 藩の思惑と、坂元の目的は同調していた。

 同じころ、新徴組と似たような組織が京都にもあった。会津藩与りであった新選組というその組織は、藩の意向ではない独自の行動や行き過ぎた内部粛清が散見され始めていた。庄内藩は新選組の様子を注意深く観察し、新徴組においては自らの指揮権を確実なものにするために、直接庄内藩士を送りこんで内部の監視を行っていた。


 新徴組の監視役として赴任した坂元は、空いた時間に新徴組詰め所で岩見のことについて調べた。書庫の棚の奥、一度閉じられればほとんど誰も見ることのない記録が積まれた一画に、組士の出退が簡潔に記された帳面が積まれていた。

 三年前の日付を目安に探しあてた岩見の名の下には、一言、薩州内通疑い、と記されていた。

 その字を見た瞬間、坂元は頭から冷水をかけられたような衝撃に、思わず周囲の気配を窺った。当時、まだ薩摩藩は幕府に恭順していたはずだ。それでも反乱の兆候はあって、先手にその動きを封じようという思惑が酒井氏より新徴組に内密に下されていた。


 岩見には、その藩主酒井氏の意に背いて薩摩藩と内通した疑いがもたれていた。名と死亡した日付の下に書かれたその六文字が、無表情にその事実を語っていた。


 薄暗い書庫には坂元一人、誰の視線を気にする必要もなかったが、速やかに帳面を閉じて元に戻したその時に、棚の奥に引っ掛かりを感じ、改めると一通の書状があった。引き出して広げ、中身を確認すると、それは岩見の名で申請された秋生修之輔という名の者についての身上調査書だった。


 秋生が在籍していた羽代藩ではなく、わざわざ生国の黒河藩へ身元を諮問したその返書には、秋生修之輔は下級武士の出であるが剣術に優れ、黒河では得られなかった仕官の職を羽代で得られたので藩籍を離れて羽代へ移った、と簡単に書かれていた。

 武士であっても己の能力ひとつで世を渡り仕官先を見つけるこの時代にあって、珍しくもない経歴だった。

 最後の改めの署名が血縁の者ではなく、何故か佐宮司神社という神社の神官の署名なのが珍しいと言えば珍しいが、身寄りなく、仕官もしていない武士の身元を保証してくれる者がいるだけ有難いことだろう。


 この秋生という者について、岩見は何かを調べようとしていたのだろうか。記された日付から、岩見がこの書状を受け取ったのは十二社で殺された十日ほど前のことになる。何も関係がないとは思えなかった。


 麹町の料理屋。かつて岩見に連れられてきたこの店で、今、坂元目の前に座っているのは水野と熊谷である。この二人はどれだけ知っているのだろう。岩見の出自すら詮索しなかったのである。仕事がやりやすい上役とぐらいにしか思っていなかったのではないか。

 そう思ってさほど期待はしていなかったのだが、秋生という名を出すと、思いがけず水野と熊谷は知っている、と答えた。


 熊谷が淡々と口にした秋生についての幾つかの事柄のうち、凄まじいと表現された剣術の腕前より、物静かな様子、という言葉に、どこか過日の杉坂の姿が重なった。そして人目を惹く並外れた美貌。


 岩見の死について調べることは、自分の任務を越えた無駄な執着だということは自覚していた。だが。

 岩見の死の謎を解くことが、あの若かった日に否定された自分を肯定することになる、取り戻そうとして、だが岩見の死によって再びこの手から零れ落ちた何かを捕まえることができる、そう己の身の内から囁いて寄越す声に、坂元は耳をふさぐことができなかった。


 羽代の秋生という者と、岩見が実際に接触していたことは分かった。次に調べるべきことは、岩見が薩摩への内通を疑われたことと、秋生という者と接触したことには関係があるのか、ということだった。個人で生じる話ではない。もっと大きな存在があるはずだった。


 思考を巡らして無口になる坂元を前にして、水野は、岩見が何か目的を持って秋生について調べていたらしいと、さっき坂元から聞いたばかりの言葉を反芻していた。自分の考えが半ば肯定されたのである。軽く興奮を覚えていた。熊谷も視線を上に向けて、おそらくは当時のことを思い出そうとしている。

 やはり岩見の死は偶発的なものでなく、何かの企みがあったのではないだろうか。岩見に薩摩藩との内通の疑いが掛けられていたことは初耳だったが、だからこそ岩見の死は内々に済まされて、水野と熊谷はそれとなく引き離されたのか。もしかしたら気付かなかっただけで、当時の自分たちには内偵が付いていたのかも知れなかった。


 今夜はここまでにしようと坂元が切り上げて三人が料理屋の外に出ると、坂元の中間二人が提灯を掲げて待っていた。上屋敷の長屋に滞在している坂元を、水野は自分たちも送り届けようと中間たちに声を掛けて歩き始めたその矢先。


 目の前に風体の悪い破落戸四、五人がぶらりと立ち塞がった。


「おっとこれからお帰りですかい」

「ここをお通りになるには少々お足が必要でしてね、いくぶんかはお持ちでしょうねぇ」

 水野たちは誰も言葉を発さない。発さないまま、水野と熊谷は坂元の右側へ、中間二人は左側へ、各々が素早く散開した。坂元の中間はただの雇われ中間ではない。十分に仕込まれた動きだった。中間は二人ともいつの間にかその手の内に小太刀を握っていた。


「おうおう、なんだ野良犬のような真似をするじゃあねえか」

「剣呑剣呑、一人だけじゃあ刀もぬけねえ腰抜けの集まりか」


 既に、この状況を察知した時から水野は心も刀も坂元に預けている。煽りの言葉は自分には届かない。ただ神経を研ぎ澄まして坂元が出す指示を遂行する、その機会を待った。

 庄内藩が厳しく律する強固な上下関係は、突然の状況への迅速な対応を可能にする。

 坂元の手が微かに動いた。これは牽制。水野たちは一歩、歩を進めた。


 ざん。

 四人が土を蹴る足音が揃う。腰を低くして刀の柄に手を掛けたまま、次の指示を待つ。


 一糸乱れず煽りにも乗らない水野たちの隊列に、破落戸の眉が上がる。

「おう、なんだおめぇら、こちとら御家人様よ、だいぶ無礼を働くじゃあねぇか」

「それとも田舎の山出しか、江戸の町の決まりごとを知らんとみえる」

 教えてやるから金を寄越せと下卑た笑い声が聞こえる。


「私は庄内酒井家家中、坂元久三郎」

 坂元の名乗りに、目に見えて破落戸の動きが鈍った。

「庄内の酒井だと」

「こいつら、新徴組か」

 口ほどになく怯んで退いた破落戸の足を見て取り、水野たちは早足で数歩、前に進んだ。途端に破落戸は暗がりの路地に逃げ込んで、何か物に当たりながら走り去った。


 この頃は幕府直参の御家人であってもこの有様だ。破落戸に対面していた間、自分の刀の柄にも手を触れていなかった坂元は、思う。


 秋生は、羽代の者だった。羽代は所領こそ六万石の小藩ながら、統治する朝永氏は譜代大名で、幕府に歯向かう反逆者の薩摩者を取り締まる立場である。ただこのところ、朝永家内部で争いが続いて幕政の中心からは遠のいているようだった。家中の争いの中で、まだ年若いと聞く藩主に何か変節があったのか。

 次は羽代藩について調べなければならないだろう。坂元は口には出さず頭の中で確認した。


 破落戸の御家人どもが消えた東の夜空、下弦の月が闇に沈む江戸の町を見下ろしていた。

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