陽春の冬青木坂☆

 岩見の死後、直属の上役を失った水野と熊谷は新徴組内の別の班に振り分けられ、改まって岩見のことを話す機会を得なかった。話そうと思えば話もできたのだが、二人が敢えて引き離された節もある。岩見のことは口にするな、という場の空気に逆らってまで密談じみたことをしようとも思わなかった。

 仕事の上で上役ではあっても、私的に親しいという程ではなかったし、何より内規を破る者には厳しい処分を辞さない新徴組の性質を二人は良く知っていた。


 なので岩見の死から三年が経ち、庄内藩から新たに上京して新徴組に加わる者がいるから、その者が江戸に慣れるまで水野と熊谷の二人は下につけ、というお達しがあって、水野は拝命のその場に同席した熊谷と久しぶりに顔を合わせた心持がした。

 

 庄内藩上屋敷から寄越された伝令が命令を伝えてさっさと帰っていったその後に、二人して新徴組詰所の座敷に残ったまま、どこか気構える気分があった水野に対し熊谷は以前と同じように淡々と話しかけてきた。

「今度、我らの上役になる庄内の坂元様のこと、水野は知っておるか」

 水野は返答に少し躊躇した。

「自分は存じ上げないのですが、父が中屋敷の中間仲間から聞いた話だと岩見様とお知り合いだったようです」

 二人がまた組んで動くということは、岩見の一件、ほとぼりが冷めたということだろうか。水野が下した判断と熊谷のそれは同調していたらしく、岩見の名を出しても熊谷は動じず、飄々と返事を返してきた。

「ああ、そういえば岩見様も庄内のご出身だったな」


 そう云う熊谷の元々は、武蔵の国の片隅から江戸に流れついた武州郷士である。熊谷は浪士組の時からいて、清河とともに京都にも行ったらしい。年は熊谷の方が水野より四つ上の二十六歳だが、家が代々庄内藩屋敷に仕えてきた水野に遠慮してか、口調は多少丁寧だ。

 若輩の水野を見下すことなく淡々と接してくる熊谷と馬が合う、というわけでもないのだが、水野が新徴組に入った当初から、ともに岩見の下に就いたこともあり、なんとなく一緒にいることが多かった。


「なぜ新徴組に残ったのですか」

 かつて水野は熊谷に聞いたことがある。物事に執着しない様子の熊谷なら、浪士組の解散とともに幕政上部の思惑蠢く界隈を辞して剣術の腕を磨くことにこそ己の道を見出しそうなものだが。熊谷は目を細めて虚空を見上げた。

「悪者を成敗すればよいのだろう。やることが分かりやすい」

 熊谷の答えは単純だった。水野にしたところで、何か志があって新徴組での役目を望んだわけではない。周りの意気軒昂な者達に比べて自分たちの心の有り様はさほど上等なものではないと、水野にも熊谷にもどこか引け目のようなものがあって、それが似たもの同士の気安さに繋がった感がある。

 しかし熊谷の剣術は水野を凌駕していて、自分より年も剣の腕も一段上の熊谷に同輩のように扱われて水野が時折感じる居心地の悪さは、熊谷の丁寧な口調の中に時折混じる雑な武州訛りに救われている。


 熊谷とこうして話すのも久しぶりなのに、一言二言交わしただけで以前の心安さが戻ってきた水野は、もう少し、心の内を熊谷に漏らした。

「岩見様のお知り合いというからには、先年の事件についてもご存じでしょう。なにか聞かれるかもしれませんね」

「そうだのう。もっとも我らとて岩見様のあの事件について知っていることなど微々たるもの、聞かれたところで充分応えられるか」

 熊谷のその淡々とした答えに、それは違う、と反応しかけた水野は、だがその言葉を飲み込んだ。今ここで、新徴組の詰所の内部で、口にすべき事ではないように思えたからだ。


 岩見が死んだ後、この三年間の間に世間は大きく変わった。

 今思えば、当時、いくら巷が治安の悪さを訴えていようと、現在のこの状況よりはだいぶましであったのではないだろうか。


 江戸藩邸に置かれていた多くの大名の妻子家族はほぼ皆、国元へと戻って行った。人口が減少し治安が悪化する江戸に住み続けるより、自国の領地にいる方が身の安全と財産が保障されるのは自明のことで、上屋敷にこそ最低限の事務処理や情報収集を行う家臣が残されたが、中屋敷、下屋敷のほとんどは、そこに住んでいた藩士たちの帰国に従い打ち捨てられた。

 屋敷に雇用されていたものは職を失って道にあぶれ、大名屋敷に住む武士を相手に商売をしていた者達も次々に店をたたみ始めた。江戸を見限り地方へ向かう人の流れは五街道何れの道にも絶え間なく、人気のなくなった屋敷跡の荒れ地を跋扈するのは、無頼の輩か薩摩の息がかかった浪士であった。


 彼らは毎晩の如く徒党をなして商家町家に押し入り、金銭を巻き上げて家屋を破壊するといった乱暴狼藉を働く。抜き身の刀をちらつかせればそれに逆らう力は町人にはなく、庄内藩邸のいずれかに命からがら呼びに来た知らせを聞いて、水野たちが駆け付ける。

 薩摩の増長に便乗して旗本や破落戸の乱暴も増えた。この間は捕まえた賊の一人の顔を見てみれば、先日、身持ちの悪さで新徴組から追放されたばかりの見知った同士で、水野は言葉を失ったが年配の新徴組士は顔色一つ変えずにその場でその者の首を刎ねた。

 気持ちの整理がつかぬまま、だがこのようなことはこれからも起こりえるのだろう。このところ水野は、口の中に入った砂を飲み込めず吐き出すこともできない、そんな片付かない気持ちを抱えることが多くなってきた。


 ただ、今の季節は春。

 ここ数日、柔らかな雨が何回か降る度に冬の土埃が落ちて空気は次第に澄んでいき、透くような日の光に薫風が色を持つようにも見える。木々の若葉を揺らす風には何かの花の香りさえ微かに混じっている。


 昨夜、国許から件の者が到着したから顔合わせに来いと、上屋敷から呼び出しがあった。夜が明けて、水野と熊谷は朝の気配漂う新徴組詰め所の門を出た。

 狭い道を左右から挟む屋敷と町屋の間から、束の間差し込む穏やかな日差しは、ひととき、水野に荒む日常を忘れさせた。左手の彼方には春霞に揺らめく筑波山の稜線が見える。町を見下ろす道を左に折れると冬青木坂で、急な坂道を下りながら何気なく水野は思った言葉をそのまま口に出していた。

「確かあの日もこのような日ではなかったでしょうか」

「あの日とは」

 抑揚なく、けれど律儀に熊谷が応える。

「秋生という、地方から出てきた若い武士と初めて会った日のことです」

「秋生」

 唐突に聞かされた人名を熊谷が反復する。水野は話の前後が曖昧なまま話を振ったことを少し後悔したが、言葉を続けた。

「この間ひさしぶりに岩見様の話が出て、あの頃の出来事を色々と思い出していたのです。あの日、我らが秋生に初めて会った日は、岩見様を含めた三人でこの坂を下っていました。……今日の様な心地よい風の吹く春の日だったと記憶しています」

 ああ、と熊谷が顎を上げる素振りをした。思い出したようだ。

「坂の下でいかにも上京したての田舎侍が道に迷って地図を広げていて、道を聞かれたな」

 そうです、と水野が相槌を打つと、より記憶が鮮明になったらしく、熊谷は自ら話しはじめた。

「二人連れの一人がえらいこと整った顔立ちの若者で、さて役者が崩れて芝の裏手で色を売るものかとも思ったが、名乗らせればれっきとした譜代藩の役付きで、確かそれが秋生という者だったか。連れの方は、さて何といったか、秋生の方の印象が強くてどうも憶えておらんが」

 水野は熊谷の答えを聞きながら視線を坂の下に向けた。

「今思えば岩見様はあの時を契機に、少しずつ、どこかが、何かが変わっていったように思うのです」

 気を付けた物言いになったが、熊谷にはまったくピンとこない内容だったらしい。

「さあ、それがしは気づかなかった。そういえば秋生はあの後何回か、新徴組屯所にも顔を出していなかったか」

「はい、剣の腕が良いのだと岩見様が屯所内で何人かと引き合わせ、時間がある時には剣の手合わせをしていたと憶えています。たまに詰所の方にも来ていたのではなかったでしょうか」

「では岩見様とは友人だったのだろうか」

「どれほど親しかったのかは分からないのです。ただ、よくよく思い返せば、我らが岩見様に従って行くその先々で秋生の姿をよく見たように思うのです。いや、それは偶然ではなく、岩見様は秋生の行動を見張っていたのではないかとこの数日思い至ったのですが」

 水野が反応を求めて横の熊谷を窺うと、熊谷は顔を空に向けて目を細め、しばらく記憶を手繰る様子だったが、やがて首を横に振った。


「秋生を見張れと言う指示は一度もなかった。見張っていたとすれば岩見様ご自身が何か思うところがあったのではないか」

「今となってはその意を探っても詮無い事、故人を偲ぶのは良き思い出話のみで良いとは思うのですが、何故かこのところ折に触れて気に掛かるのです」

 水野は頭の内を巡るだけ巡って出口のない思考に息詰まりを覚えて足を止め、道脇の冬青木の木立を見上げた。朝の陽を零しながら風に揺れる葉が軽やかに鳴る。この風に紛れる花の香りはいったいどこから来たものだろう。そんなことを思った。


 冬青木坂を下ると町人が商店を構える町が連なる。庄内藩上屋敷に向かう水野と熊谷の姿を見止めて顔見知りの町人が頻繁に挨拶の声を掛けてくるが、それには、何かあったら頼みます、という町人達の言外に切実な思いが込められている。


 今は私服の羽織、新徴組の制服である浅葱羽織を身に着けていなくても水野と熊谷は顔で新徴組だと知れている。以降は気楽な雑談も憚られて黙々と歩を進め、雉子橋御門から曲輪くるわ内に入ると、間近に迫る堅固な石垣と青々と水をたたえる江戸城の威風に水野の背は自然と伸びる。一ツ橋屋敷を過ぎた向こう、庄内藩上屋敷の正門が見えた。


 上屋敷門番に名を名乗って用向きを伝えた。入ることを許された屋敷の内、門の中には入れても水野の身分では御殿の中へは通されない。玄関前の白砂利の上、両膝を付き身を低くしてしばらく待っていると、表玄関から現れた人物が声を掛けてきた。

「その方らが新徴組の水野と熊谷か」

 名を呼ばれた順に頭をより深く下げたので額が地面の砂利についた。

「私は坂元久三郎である。新徴組でのそなた達との務めは明日からだが、今日の内に一度場所を見ておきたい。これから案内を頼む」

 駕籠を呼びますか、と水野は尋ねたが、坂元は歩くと言った。辺りの様子を見ていきたいという。

「先導を務めましょう」

 熊谷がそう断って前に立ち、坂元の後ろには中間二人が付いた。水野はしんがりを務め、坂元を新徴組詰め所に案内した。来た時より幾分か高くなった日は町に日陰を作らず、先程は下った冬青木坂を今度は登り終えると、背にうっすらと汗をかいた。


「そなた達も同席せよ」

 坂元にそう言われて、新徴組詰所の預かり役と坂元の面談に水野と熊谷は同席し、そこで二人は初めて、坂元は新徴組に入るというより、庄内藩からのお目付け役として務めることになるのだという話を聞かされた。昨今、新徴組士の中にも風紀を乱す者がいる、その状況を鑑みて新徴組内部の監査も厳しくするということだった。

 水野は、かつての同僚に首を刎ねられた元新徴組士の姿を軽く頭を振り消し去って、代わりに生まれた軽い疑念に内心、首を捻った。


 三年前に死んだ岩見に関わる三人がこの任につくのは、果たして偶然なのか。

 胸の内の疑念を口に出せず、水野はただ、前に座る坂元の背を見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る