一八六七年(慶応三年)四月

新徴組の成立

 水野と熊谷が所属している新徴組は、一八六三年に設置された江戸幕府の警備組織である。


 町奉行や寺社奉行が起きた事件を捜査するのとは異なり、新徴組は可動式の大砲や西洋銃を装備し、現在進行形の暴動の鎮圧などの事態に対応していた。さらに装備された近代兵器だけでなく、各個人が剣術に優れていた。

 新徴組は数十人の規模の隊列を編成して江戸市中を巡回して歩き、武力と機動力を以って幕末の江戸の治安維持を担っていた。


 この組織を掌轄するのは徳川家直参の親藩、庄内藩酒井氏である。酒井氏は浪士や郷士を新徴組に登用する際、彼らに庄内藩士としての士分を与えたが、同時に藩の名の下にその行動を厳しく律していた。これには少々複雑な新徴組設立の経緯が関わっている。


 そもそも庄内藩は、山形の北、日本海に面して月山のふもとに広がる庄内平野を領地とし、会津藩や仙台藩と並ぶ東北の雄藩の一つである。この庄内の地を二百五十年にわたって支配した酒井氏は、大規模な飢饉や、悪化する藩財政に官民挙げて対応し、一八〇〇年代初期には庄内平野は日本有数の米の産地となっていた。


 幕末の混乱期にあって諸藩が領地の統治に苦労する中、庄内領民は酒井氏の政治を信頼し、領民一体となった盤石の地盤で幕府の政治中枢の一角である酒井氏を支え続けた。


 幕末期、日本は諸外国からの開国の強い要求を受けるようになっていた。

 一八五三年六月、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀に来航し、アメリカの捕鯨船基地としての各港の開港、並びに幕府開闢以来二百年保たれてきた管理貿易から商人が自由に物の売買ができる自由貿易への転換を要求した。

 前後して次々に来航したイギリス、フランス、ロシアの外交使節が求めたのは、日本の閉鎖的な市場経済制度の見直しだった。だがそれら諸外国の究極的な目的が、貿易を通じて日本の経済を支配し、植民地化することにあったことは否定できない。


 注意深く世界に目を向ければ、異国の圧力に対抗して開国を拒んだ亜細亜の小国は、産業革命を終えた欧米列強の圧倒的な武力の前に悉く植民地化されていた。眠れる獅子と言われた中国大陸は、イギリスが意図的に送り込んだ阿片の紫煙に燻られ、眠りから覚めることなくその身を腐らせていた。


 そのような世界情勢にあって、開国か否か、という極論ではなく、細かな条件の押し引きを駆使した緻密な外交交渉こそが、当時の日本を救う最も重要な手段であった。しかしこの機微を解する者が幕府の外にはもちろん、幕政の内部にさえ少なかったことが事態をより困難なものにしていた。これは鎖国を推し進め、外国へ向ける目を鈍らせた徳川幕府の自業自得の結果でもあった。


 一方、異国の見知らぬ者が自分たちの領土を支配しようとする気配に、本能的な拒絶感を覚えて排他意識を刺激された者たちがいた。その意識が高じて、この国に日本人以外が立ち入ることを拒絶しようとする強烈な外国人排斥思想、すなわち攘夷論が唱えられるようになった。


 攘夷論は、開国を前提として海外との交渉外交路線に踏み切ろうとしていた幕府の方針とは真逆の考え方であった。だが、将軍家を支えるはずの鼎の一つ、徳川御三家である水戸徳川家がこの攘夷論を強く提唱した。

 

 水戸徳川家は、幕末期、乱れがちな藩内の統制を図るために、それまで国史編纂が主眼であった藩独自の学問である水戸学を変容させた。後期水戸学と呼ばれるこの思想は、古事記や日本書紀の神話に日本の本流を見出して、天皇による純系日本の統治ならびに夷狄排斥、すなわち攘夷を強硬に主張していた。

 後に最後の将軍、徳川慶喜を輩出することになる水戸徳川家が、声高に主張する尊王攘夷論は幕府の中枢を分断させ、ただでさえ舵取りの難しい幕政を更なる混乱に陥れた。


 開国か攘夷か。


 幕府の中心を分断する意見の対立は、次第に海外との自由貿易の是非ではなく、開国を進める幕府に追従する佐幕派か、日本人の純系を意識させ天皇を主体とした新たな政権を求める尊王派か、といったように、いつしか論点が政体の在り方にまで及ぶようになっていった。

 この意見の対立は、長い幕府の治世下で固定化した身分を不満に思う下級武士や外様の地方大名が、自身の新たな待遇と階級を求めて反幕府に傾いたこと、また幕府から政権奪還を狙う朝廷が尊王攘夷派に同調したことから、混迷と激烈さを増していった。


 一八六三年(文久三年)、幕府と朝廷の軋轢を解消するために将軍家茂が京都へ上洛することになった。

 当時の京都はすでに幕府の政権を覆そうと企む尊王攘夷派の志士が跋扈しており、対立する派閥同士の小競り合いや、天誅という名目で佐幕の要人が暗殺されるなど、不穏を極めた状態だった。


 将軍の京都滞在が長期に及ぶ場合、その場しのぎの護衛では間に合わない。急遽、将軍の警護隊となるべき組織が必要になった。このとき声掛け役に選ばれたのが庄内藩の富裕な商家出身の郷士、清河八郎である。

 彼の掛け声により実に二百人を超える人材が江戸に集まった。予定の五倍を大幅に上回ったこれらの浪士の集まりは浪士組と名付けられ、結成の二日後には京都における将軍の護衛の任に当たるため上洛の途に就いた。


 将軍家茂の上洛に先立って京都に着いた浪士組だが、ここで清河の暴走が始まる。

 実のところ、狂信的なまでに攘夷の実行を望んでいた清河は、幕府に無断で朝廷から直接攘夷の勅意を得、さっそくそれを実行するために横浜外国人襲撃の腹案を携えて、江戸への帰還を独断で決めたのである。

 

 幕府は清河の行動を問題視し、清河が京都を出立する前に浪士組の江戸帰還を命じた。同時に酒井氏は、浪士隊の江戸帰還に先立って、少しでも浪士隊による狼藉が目に付けば直ちにその場で処刑して構わないとも江戸に在京する各大名に伝えていた。


 清河が浪士隊を連れて江戸に入った直後に、酒井氏は浪士組を捕縛、数日後に清河は浪士組の同士であった佐々木只三郎に暗殺された。


 清河暗殺後、捕縛されていた浪士組は直ちに解散させられ、その中から改めて人物の調査が行われて選別された者だけが新たな組織に登用された。組織の名は、新たに徴用された者の集まり、すなわち新徴組と名付けられた。


 一八六三年四月、幕府は庄内藩に江戸市中の警備を一任し、新徴組は江戸市内見廻り組の傘下、機動武力に特化した警備組織として置かれることになった。

 こうして雄藩庄内藩の規律と資金が隅々まで行き渡った江戸市中最強の機動部隊として新徴組が誕生したのである。


 なお酒井氏は新徴組を組織する際、組士の思想を調査して、尊王攘夷の思想を持つ者には再教育を施した。この時の教育に幕府が推奨する朱子学ではなく、朱子学への批判的な視点から発展した徂徠学を用いたのは、特筆すべき事実だといえる。

 

 主君への忠誠を絶対とする朱子学に対し、徂徠学は個人の人間的特性を重視した学問である。酒井氏の国許である庄内の藩校、致道館ではこの徂徠学が教授されていた。


 徳川家に仕える筆頭の大名である酒井氏が、朱子学を捨て徂徠学を選んだことは、間違いなくこの後の庄内藩の去来に大きく影響を与えたといえるだろう。


 水野が新徴組に入ったのは、ちょうど浪士組から新徴組への編成が行われた時だった。水野が入るとすぐに、岩見が頭で熊谷を同士とする三人組が組まされた。

 水野の出自は、正確に言えば庄内藩の出身ではない。祖先というほどには遡らないが、何代か前、地元の口減らしで江戸へ流れてきた農民が庄内藩の中屋敷に中間として召し抱えられ、それが江戸の水野家の始まりである。


 庄内藩邸での役目に代が重なって、子ども心にいずれ自分も父親の後を継ぐのだろうと水野は漠然と思っていた。町を一人歩きできるようになった十四、五歳の頃から父親の手伝いで庄内藩が江戸に抱えるいくつかの下屋敷をあちらこちらと走り回るようになり、その時間の合間、ある程度名の知れた剣道場に通っていたところ、剣術の腕がそこそこ上達した。適性があったのかもしれない。

 腕に見どころがあって庄内藩家中に縁がある、ということで、水野は十九歳の時に新徴組に登用され、同時に父親の代まで得られていなかった庄内藩士の身分を得た。


 人の指図に右往左往する下働きの仕事からは切り離され、大小の刀を差して浅葱の羽織を纏い町を廻る。乱暴狼藉ものを取り押さえて町人から掛けられる感謝の言葉や信頼の視線は、若い水野にとって単純に心地良いものだった。

 新徴組の江戸市中での評判は発足した時から上々で、水野のやりがいも日々増して感じられるようになった。だがそれは尊王攘夷を謳って町中で暴れる志士や浪士の数が増えて、新徴組の出動が激増しているという世情の不安定さを表してもいたのである。

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