13.友のために
「私の友――エイザは、かつて夢魔の主から、地底の妖精たちを助けようと、一人で先に地底へと下りました」
語り始めたラビーの声は、冷たく、淡々としているように聞こえた。感情を殺したような声で語られたエイザの名に、優利は聞き覚えがあった。聞いたばかりの名前だった。シェムが言っていた、四人の近衛騎士の一人だ。
「しかし、そのことを夢魔の主に知られ、結果として地底は夢魔たちに侵略されてしまったのです。地底の妖精たちは、次々に捕らえられ、無理やりに、夢魔の主の手駒とさせられました。そのことに、エイザは責任を感じ……妖精の騎士たちが、地底から逃れる中、一人その場に残ったのです」
「じゃあ、エイザさんはいま、一人で地底に?」
ラビーは静かに首を振る。
「……生きているかどうか。地底は、地の妖精以外が生きるには、あまりに厳しい場所。清らかな風は届かず、光の温かさからも遠く、水は大地の中に隠れている……生きていたとしても、弱り切っているでしょう。だからこそ……助けてほしいとは、言えません。私はもう、希望を持っていない。そのはずなのに、エイザを思うと、せめて一目だけでも会いたいと、そう思ってしまうのです」
「エイザさんが、そんな目にあっていると分かっているからこそ……地底に妖精を送らないよう、あなたは監督者になった。メッセージを送ろうとする者を、牢獄送りにするためじゃなく、守るために……」
優利は愕然として、口を開けたまま、何度も息を吸っては吐くことを繰り返した。息苦しさは消えない。苦しいのは、胸の内だった。
ラビーは、友のエイザのような者を、もう出したくないのだと、そのために監督者になったのだと優利は思っていた。他の風の妖精から聞いた噂から考えられるのは、それだけだった。そして、それは事実だった。
その気持ちが、分からないわけではない。けれど――同じ立場で、自分は同じことをできただろうか? 自分なら、そこまで大切に思う人を、すぐにでも助け出そうとするかもしれない。いいや、それとも、遠くで友だちが弱って倒れてしまうことに耐えられず、現実から目を背けて、何もかもを忘れようとするかもしれない。
「本当ならば、私が自ら、地底へと向かいたい。エイザを救い出すことができれば、どんなにいいか。けれど、私にはもう、エイザを助ける力は、残っていません」
「ラビーさん……」
ここで、自分たちが助けると約束するのは簡単だ。優利自身、そう言いたくて仕方がなかった。けれど、たとえ自分に夢の力が秘められていたとしても、優利は自分に、誰かを助けることができるとは思えなかった。自分と――そして、姉のこころを守ろうとするのだけでも、難しいかもしれないのだ。
「地底にっ……もし、地底にたどり着けたら、エイザさんに伝えます! あなたがいまも、エイザさんのことを大事に思ってるって……」
それが優利に言える、精一杯の言葉だった。尻切れに消えていく言葉に、それでも、ラビーは頷き、微笑んでくれた。
「ありがとうございます。お話ししたら、少しだけ……気が、楽になりました」
優利はただ、首を横に振った。自分は何もしていない。何もできなかった。ただ、知りたいというだけで、ラビーの気持ちに踏み入ってしまったのだ。それが恥ずかしくて、情けなくて、悔しくて……気づけば優利は、唇を噛み締めて、涙を流していた。ラビーはベンチから立ち上がると、そんな優利の頬に服の袖を当てて、涙を拭った。
「泣かないでください……私の心は、救われたのですから。ようやく……自分の本当にしたいこと、そして、成すべきことに、向き合うときが来ました。あなたが来てくれなければ、知ってくれなければ、きっとそれは、できなかったことのです」
ラビーは、空を見た。天に広がる青空ではなく、水平線へと交わる空を。遠くに雨雲がかかり、暗く陰る空の彼方から、黒い影が飛んでくる。
「ユウリさん。いまなら、この世界に来てほしかったと、そう願った、ミカの気持ちが、よく分かります」
「……ラビーさん?」
「ミカも、きっと、口には出せない……希望を、求めていたのです。背負わせることに、なるかもしれないと、勝手な期待で、迷惑をかけるだろうと……分かっていながら、それでも……助けてほしいと、そう思ってしまった。だけど、本当は、それはあなたたち、人間の子供が、背負うべきでは無いものです」
そう言って、半歩、ラビーは退いた。優利はラビーの顔を見上げた。最初会ったときから感じていた、どこか硬いような印象は解れ、すっきりしたような顔をしてた。
「あなたはあなたのために生きて……妖精の国が、私たちが、どのような結末を迎えても。ただ、覚えていてくれるだけで……それだけでいいのです」
「何を……どういう意味ですか、それ……」
初めて見たはずのラビーの表情。けれど、その言葉は、どこかで聞いたことがあった。嫌な予感に駆られて、優利はラビーの服の袖を掴んだ。いまのラビーは、ミカが命をかけた黄金の炎を放つ、あの時の様子に似ている気がした。
「もし、自分のことを、無力だと思うなら……この力を、受け取って下さい」
ラビーは、袖を掴んでいた優利の手を取り、手の甲にそっと、自分の手を乗せた。その手がぼんやりと、ほの白い光に包まれる。いや、ほのかな光に包まれたのは、手だけでは無かった。ラビーの体全体が、内側から光を放つように、淡く輝いていた。
「……! ラビーさん、駄目だ……!」
優利は首を振り、そして空を見た。ようやく、夢魔が迫っていることに気づいた。空にはもう、十数という数の夢魔が現れていた。大きな凧のような姿で、夢魔たちは風の町めがけて――優利たちが立つ展望台へと向けて、滑空して来ていた。
そして、展望台へと来たのは、夢魔たちだけではなかった。
「――ラビー!」
「優利! ラビーさん!」
転がるような勢いで、こころとシェムが展望台へと駆け込んできた。
「姉ちゃん!」
「やっぱりここにいたんだ、優利。探したんだよ……」
「ご、ごめん……」
「話は後だ、逃げるぞ! ラビー、お前もだよ! 光ってる場合か!」
ラビーに駆け寄ったシェムがその腕を掴んだ。しかしラビーは、その場から動こうとしない。焦ったようにシェムが、そしてこころと優利が口々にラビーの名前を呼ぶ。
「何するつもりだよ、お前!」
「ラビーさん、止めて! 私たちといっしょに逃げて!」
「いいえ。私は、ここに、留まります。あの夢魔たちは……私を、狙っているはずです」
「ラビーさんを? どうして?」
「私がしてきたこと……妖精たちを逃がし、隠したことを、夢魔の主は、察知したのでしょう。今日、この日でなくとも、いずれは、こうなるさだめでした」
ラビーはそう言うと、シェムの手を掴んだ。
「シェム、いままでありがとうございました」
「何がありがとうだ、礼を言われることなんて俺は何もしてない……!」
「あなたは、私の友でいてくれた。それだけで、充分です。本当に、ありがとう。そして……さようなら」
ラビーの手から、光がシェムへと移っていく。そして光を受け渡すと、ラビーはシェムから手を離した。離れていく手にシェムが手を伸ばす。だが、触れることはできなかった。 びょう! と鋭い音を立てて、風が吹いた。突風にシェムは体をよろめかせ、こころと優利はぶつかるように手を取り合った。
「ラビーさん!」
優利が叫ぶ。その声をかき消さんばかりに、風は強く、激しく吹く。風は強くなりながら渦巻き、やがて、巨大な竜巻になった。土が巻き上がり、砂ぼこりが視界を灰色に濁らせる。ついには、地鳴りのような音を立てて、木が根元から抜けて空へと巻き上がってしまった。
不思議なことに、こころや優利、シェムの周りだけは風が吹いていない。ぽっかりと丸く開いた空を優利は見上げた。
「台風の目だ……」
「こんなとんでもない風を、ラビーが……」
「待って、ラビーさんは? ラビーさんはどこ?」
周囲を見回しても、ラビーの姿はどこにも無い。周りにあるのは、吹き荒れる風に巻かれた土や木々ばかりだ。夢魔の姿すらも見えなかった。
「ラビー! 返事をしろ、ラビーっ!」
シェムの叫び声だけが、風の唸りに消されることなく、何度も、何度も空へと放たれる。しかし、風が晴れ、再び青空が見えるようになっても、名前を呼ぶ声に、返事が返ることは無かった。
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