14.船出

 しばらく、三人は黙って空を見上げていた。ミカだけでなく、ラビーもいなくなってしまった。自分たちを助けてくれた妖精が、次々に消えていく。こころはどうしようもない悲しみに、優利は夢魔の主への怒りに、それぞれ口を閉ざしていた。

 そして、シェムは。

「……港まで、送るよ」

 二人の肩を叩いて、そう言った。二人はシェムを見上げると、ゆっくりと頷いた。前に進まなければならなかった。ミカの、ラビーの想いを無駄にはできないのだ。


 三人は、港へと向かった。道中、町はよりいっそう静かになっていた。いなくなった優利を探していたとき以上の、死んだような静けさだった。噂話を交わす、ささやき声すらも聞こえてこない。風もほとんど吹いていなくて、聞こえる音は、三人が土の道を踏みしめるわずかな足音だけだった。

 誰もいない町を抜け、谷の底、港で来ると、一人の妖精が待ち構えるように立っていた。舟守のミェルだ。ミェルは軽く手を振り、それから、振った手で船を指し示した。真っ白い帆を張った帆船は、流れの早い川の波に乗って上下に揺れていた。

「待ってたよ。船の準備はできてる」

「ミェル……すまん、ラビーが」

「言わなくてもいいよ。下から見えたんだ」

「ごめんなさい、私たち、何もできなかった……!」

 それまで堪えていた涙を流し、こころが言った。ミェルは「気にすんな」と言い、

「誰かのせいってわけじゃない。悪いのは夢魔の主さ」

 表情は変えなかったものの、ミェルは、吐き捨てるように言った。

「あいつは、俺たち風の妖精から言葉を奪ったんだ。これまでだって、勝手に地底にメッセージを送っちゃいけなかったけど、女王様の許可さえあればできたんだ。罰を覚悟で、こっそりやることだってできた。でも、夢魔の主に捕まることを恐れて、それすらもできなくなった。やろうとしたやつは、夢魔を送り込まれそうになって……それをみんな助けてたラビーさんは、いつか、自分が仕返しをされるって、分かってたんだ」

「あいつは、風の妖精みんなを守った」

 重い口調で、シェムは言った。それから、優利に向き直った。

「そして、君に力を託した。君たちが、人間の世界に帰ることがラビーの望みだ」

「……はい」

「絶対に……女王様のところに行きます」

「ああ。約束だ、ココロ、ユウリ。この町は、俺が何とかする。ラビーの代わりがどこまでできるか、分かんねーけれど。この先には、ミェルが連れて行ってくれる。ミェル……頼んだ」

 ミェルは船に飛び乗り、そして手を大きく振って、乗るように指示を出した。こころと優利は、シェムの目を見て、一度頷き、そして船に飛び移った。船は、あまり大きくなかったが、それでも二人が飛び乗っても、ほとんど揺れたりしなかった。

「船を出すよ。水の町まで、ひとっ飛びの勢いさ。涙も風が拭ってくれるよ」

 ミェルは、船を繋ぎ止めていたロープを解いた。そしてオールを川の中に差し込むと、船は岸を離れてするすると前進を始めた。

「また……また、いつか、風の町を案内して下さい!」

 こころが船の縁に立って、桟橋に立っていたシェムへ向けて叫んだ。

「ああ、またいつか!」

 シェムは大きく手を振り返す。その姿は、急速に遠ざかっていく。川の流れに乗った船はぐんぐん加速していき、あっという間に、風の町を離れていった。



 風の町を流れる川は、海に出るまで急流が続いていた。ざあざあ、ちゃぷちゃぷと水の音が絶え間なく聞こえてくる。こころも優利も、船に乗ったのは久しぶりのことだった。以前、旅行で、フェリーに乗ったことがあった。ただ、ミェルが操る船は、そんなものとは全く違っていた。身に受ける風は、すぐそこにある川の水がそのまま吹き付けているように冷たく、揺れも酷かった。こころは数分で立っていられなくなり、優利は、船酔いで倒れてしまった。

「あーあー、いまから海に出るってのに。そんなんで大丈夫かい」

「大丈夫……だと、思いたい……」

「優利、ちょっと横になった方がいいよ。ほら、コート貸してあげる」

 こころのコートを丸めて枕にすると、優利は横になった。目を閉じれば、疲労がずしりとのしかかる。そのうちに眠気が襲いかかってきた。

 いま、何時だろう。優利は重い目蓋を上げて空を見回した。

 太陽は、西の空に差しかかったところだった。人間の世界と同じように日が暮れるなら、いまは午後三時ごろだろうか。普段なら、学校にいる時間だ。寝る時間からはまだほど遠い。それでも、優利は眠気に抗えなかった。

「…………優利、寝ちゃったか」

 ぽつりと呟き、こころは水平線の向こうを見るとも無しに見た。まだ、島の形は全く見えてこない。

「けっこう、長い船旅になる。君も休んでな」

「はい……」

 こころはマストに背中を預け、体から力を抜いた。ただ、目を閉じたりはしなかった。ミカ、そしてラビーの最期の姿が、目に焼き付いていて、目蓋を閉じるだけで、その姿を思い描いてしまいそうだった。


 やがて船は河口へとたどり着き、海へと出た。打ち寄せる波は高く、白波が立っていたが、船は波に逆らって前へと進んでいく。船の白い帆が、風を受けてたっぷりとふくらんでいた。

「風の町には、いつも風が吹いてるんだ。山から下りていく風もあれば、海から町へ吹く風もある」

 その風が、船の道、航路になる。ミェルは最後まで言わなかったけれど、こころにはそれが分かった。そして、もしかしたら、かつては妖精たちも風に乗って海を渡っていたのかもしれない、と思った。

 こころは後ろを振り返りたくなった。風の町が、空を飛ぶ妖精が見られるかもしれないと思ったからだ。けれど、結局、ただ海が広がるばかりの前から目をそらさなかった。風の町を見たら、戻りたいと思ってしまいそうな気がしたのだ。

 揺れる船の上は、静寂に満ちていた。こころはずっと、波の音に耳を傾けていた。家族で行った海水浴場。そこで聞いたさざ波の音と、似ているようで違う音がした。

「波の音は、船の歌……」

「お、粋な表現だね」

 こころの呟きに、ミェルが返す。こころは少し笑って、ミェルに言った。

「私が大好きな、絵本の中に出てくる言葉なんです。人魚の船っていう本で……」

「人魚? 人魚が、船に乗るのかい」

「ううん。人魚が、島に流れ着いた人間の女の子のために、船を作ってあげるお話なんです。人魚の作る船はサンゴでできていて、波が打ち寄せると、とても綺麗な音がするんです」

 話すうちに、その光景が、眼前の海に浮かび上がるようだった。色とりどりのサンゴで作られた、美しい小舟に乗った少女と、船の側を泳ぐ人魚。絵本の挿絵として描かれたそのシーンは、いまでも鮮明に思い出せる。

「船に乗った女の子が言うんです。もう、人間の作った船なんて乗りたくない、人魚の船の方がずっと素敵だって。そうしたら人魚が、人間の作る木の船は、暖かい音がするんだって。水の中からずっと聞いていた、船に当たる波の音は、まるで歌のようだって」

「なるほどねえ。確かに、船によって波の音は違う気がするなぁ」

 いつか、人魚の船に乗ってみたい――こころは子供のころはずっとそう思っていた。いまも少しだけ、その気持ちは残っている。もし、本物の人魚を見ても、あの絵本はずっと記憶に残り続けるだろう。

(この世界のこと――妖精の国も、そうだといいな)

 そう思って、それから、こころは忘れたくないと思う以上に、消えてほしくないと思った。本棚にしまっていた絵本を出すように、人間の世界に帰ったあとも、またここに来たい。けれどそれは、できないことなのだ。それがこころには、辛かった。



 ――こころが物思いにふける中。優利はひとり、夢の中にいた。


 良い夢でも、悪い夢でもない。妖精も、出てこない。優利は、自分の家のリビングにひとりでいた。カーテンが開けられた窓から、夕日が差し込んでいる。夕方、学校から帰って、少しした時間だろうか。

 優利はリビングのソファに座って、ひとりでテレビを見ていた。テレビでは、アニメ映画をやっていた。四角い画面の中を見て、優利なんとなく、そのアニメに見覚えがあるような気がした。

(前に見たっけ……)

 見た気がする。けれど、アニメを見るもっと前から、その内容を知っているような。どこで見たのだろう――考えるうち、ふと優利は思い出した。

「そうだ……絵本、姉ちゃんが好きだった絵本だ……」

 名前は、確か――

「人魚の……船」

 優利が呟いたその時、テレビの画面がかちかちと点滅した。すると、やっていたアニメが消え、代わりに、誰かの顔が映った。金色の髪に、青い瞳。華やかな微笑みを浮かべる、女の人だ。さっきまで見ていた、人魚の船に出てくる女の子に似ている気がした。

「人魚の船、好き?」

 彼女はそんなことを聞いてきた。優利は、どうしてそんなことを聞くのだろう、と思いながら、答えていた。

「姉ちゃんが、好きだよ」

「そっか。私も好き」

「……お姉さん、誰?」

「私? 私はね――」

 彼女が名を告げる声が、一瞬で遠ざかる。意識が遠ざかり――かと思うと、優利はふと我に返った。


「ルーシィ……」


 思わず、夢の中で聞いた名前を口に出す。それから、優利は自分が、夢を見たことに気づいた。ゆっくりと起き上がってみると、目を丸くしたこころが、自分の方へと身を乗り出してくるのが見えた。

「ルーシィ、って……明星ルーシィ先生のこと?」

「あ、ああ……うん。夢の中に……出てきて」

 よくよく思い返すと、夢の中に出てきた女の人は、いつだったかテレビ番組に出ていた明星ルーシィ、本人だったように思える。海を見て、人魚の船を思い出して、そのまま芋づる式に記憶が掘り返された結果、あんな夢を見たのだろう。

「いいなあ、ルーシィさんに会えたんだ」

「会えたっていうか……」

 何とも言えない夢なので、優利は言葉を濁して話題を変えた。

「……船、どのぐらいまで来た?」

「ちょっと島が見えたぐらい。まだかかるって」

 こころの言うとおり、海の向こうにぽつんと島の影が見えていた。しかし、島の上には暗雲が立ちこめ、空気がかすんでいた。雨が降っているのだ。水の町は、いままで以上に厳しい道のりになるかもしれない。島影を見ながら、優利はそう思った。

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