5.妖精の国
その扉は、つる草の文様が描かれた金色の縁で囲われた、木目の美しい、両開きのものだった。そして、遠くから見てもそれが分かるほどに、大きかった。その巨大さに圧倒されていた優利は、しかし、自分の横を通って扉へと向かおうとする姉の姿を見て我に返った。
「姉ちゃん……? 姉ちゃん、待って!」
こころは優利が止めるのも聞かずに、湖へと踏み出していく。どのぐらいの深さがあるのか知らないが、このまま行けば溺れてしまうかもしれない。優利はこころを止めようとその手を掴もうとしたが、こころが湖に踏み入れる方が早かった。
こころの足が水面に触れる――すると、その足は水に沈むことなく、まるで地面に立つように水面を踏んだ。驚きに固まる優利をよそに、こころはどんどん扉の方へと向かっていく。
「ね、姉ちゃん……!」
「……優利? どうしたの、優利もおいで」
「無理だよ、水が……」
「大丈夫だよ。妖精の夢の中では、願うとおりに動けるんだよ」
こころは水の上に立ったまま待っている。無理だと優利は思った。こころは本気で妖精の夢のことを信じているから平気なのだろう。自分にはできるとは、とてもじゃないが思えない。優利は湖の縁で立ち止まり、うつむいて言った。
「姉ちゃんだけ先に行っててよ。オレはここで待ってるから」
すると、こころは何も言わず、踵を返して戻ってきた。そしてうつむいたままの優利の手を取った。
「私、優利の分も願うよ」
「え……」
「優利は湖を渡れる。絶対に沈まない……ね?」
こころがそっと手を引く。強い力では無かったが、そのままこころが踏み出せば、優利の足は自然と前へ出た。水面に足が触れる――優利はとっさに目を閉じた。けれど、足が濡れた感覚はやってこない。こつん、と硬い地面を踏んだような感触があった。目を瞑ったまま、二歩、三歩と歩んでいく。こつ、こつ、と足の下で硬い音がした。
優利は恐る恐る目を開けた。
「ほら、大丈夫」
こころが言う。優利は顔を上げた。さらさらと揺れる、長い黒髪が見えた。こころは扉の方をずっと見ている。でも、こちらを見ていないわけでもない。優利はそのことに、どうしてか安心して、肩から力を抜いた。
そこでようやく、優利は姉の手を強く握り締めていたことに気づいた。また姉に頼ってしまった――やっぱり恥ずかしくて、でも、手を離すのは怖かったので、結局渡りきるまで、優利はこころの手をずっと繋いでいたのだった。
湖を手を繋いで横切り、ついに二人は、門がある島までたどり着いた。
目前まで来ると、門の大きさは、遠目で見ていた以上に感じられた。まるで巨大な壁のようで、それを引っ張ったり、あるいは押して開けられるとは、優利にはとても思えなかった。
けれど、こころは違った。
こころの視線はドアノブに注がれていた。ドアノブは、よくある丸形のものではなく、縦に長い長方形をしている。こころは、迷うことなくドアノブに手を引っかけた。ぐ、と体を預けるように思い切り押す。
すると、まるで家のドアを開くように、巨大な扉はいとも簡単に開いていった。
「開いた……」
呆然と優利は呟く。こんなにも大きな扉を、こころは一人で、片手で開けてしまった。これが、妖精の夢を信じる力なのだろうか? だとすると、ここにいる姉はやっぱり、自分が見ている夢の産物などではなく、本当にここにいるのではないか?
優利が抱いた疑問の答えは、ほどなくして出た。
扉を開け、そのまま扉の向こうへと向かうこころについて行く優利は、その向こうで驚くべきものを見た。
まず、扉を開けた途端、視界いっぱいに光が広がった。眩い光に二人が目を閉じると、背後で扉の閉まる重い音がした。ゆっくりと目を開ける。下に顔を向けていた優利は、まず、見たこともない小さな、薄青の花を見た。足の踏み場もないほどに咲き乱れる花が、爽やかな香りを放っている。そして、眩しさにくらんだ目が慣れるのに従って、顔を上げた。
するとそこに、誰かが立っていた。
一瞬、優利はそれが誰だか分からなかった。顔も名前も分かっていたけれど、それでも、まさかここに、彼が妖精の夢の中に出てくると思っていなかったからだ。
「……ミカさん?」
言葉を失った優利の代わりに、こころが言った。そう、そこに立っていたのは、二人の一年先輩の男子生徒――吉備ミカだった。
「どうして……」
ようやくそれだけを言った優利は、はっとして握っていたこころの手を離した。中学生にもなって、姉と手を繋いでいるなんて恥ずかしい。一人顔から火が出るような思いでまたうつむいた優利だったが、こころも、そしてミカも、そんなことは全く気にしていなかった。
「こころちゃん、それに優利くんまで。よく来てくれたね。ようこそ、ここが妖精の国さ。といっても、まだここは玄関口みたいなもんだけど」
「ミカさんも、来てたんですね」
「まあね。けど、こんなに早く来てくれるなんて思ってなかったぞ。こころちゃんはやっぱり、普通の人よりいっとう、こっちの世界を想ってくれてるんだ。嬉しいよ、こっちでも会えるなんて」
「私もです。夢の扉のこと、教えてくれて……ここに来られたのは、ミカさんのおかげです」
「……あ、あの」
二人だけで会話をして盛り上がっているこころとミカの間に、優利は思わず割って入っていた。別に話したことは無かった。ただ、無性にもやもやした気分になっていた。
「その……ここって……本当に妖精の国、なんですか?」
何も言うことが無くて、仕方なく、優利はそんなことをミカに尋ねた。ただ、その質問はミカが待っていた質問のようだった。ミカは満面の笑みを優利に向けて頷き、
「信じられないかもしれないけど……いや、信じてたからここにいるのかな? ともかく、ここは妖精の国さ。回りを見てごらん」
優利と、そしてこころは言われるままに辺りを見回した。すると、ミカに目を奪われていて、見えていなかった景色が目に映った。
まず見えたのは、青い花畑。まるで絨毯のように広がる小さな花の群れの向こうには青空が見える。花畑と青空は、まるでひと続きになっているように、境目があいまいだった。ただ、花畑は遠い地平線の向こうにまで続いているようには見えない。途中で崖になっているみたいに、空が近く見える。しかも、不思議なことに、空は昼間の青空なのに、満天の星空が浮かぶように小さな光が
そして、そんな空のあちこちに、ぽつぽつと浮かぶものがある。一見すると雲のように見えたが、雲の上には、草木や花、あるいは泉があった。優利は自分の足元へと目を落とした。雲の上には大地があり――自分たちがいま立つ場所も、きっと雲の上にあるのだ。
「とても……素敵なところだね」
こころに言われ、優利はぎこちなく頷いた。確かにこの世のものとは思えない光景だが、優利は、素敵だと思うよりも先に、恐ろしさをこの世界から感じていた。もし本当にこの島が雲で出きているのだとしたら、風に流されたり、消えてしまったりしてしまうかもしれない。落ちたらどうしよう、夢の中でも死んでしまうのだろうか、と不吉なことばかりが頭の中に思い浮かぶのだ。
「気に入ってくれたみたいだな。本当なら、もっと凄いものを見せてあげられるんだけど……」
「もっと凄いもの?」
「ああ。ほら、あそこに霞んで見えているだろう?」
ミカが指差す先へと、二人は目をこらした。それは、縦に長い棒のようなものだった。とても遠くにあるのだろう、姿ははっきりとは見えないが、先の方がいくつも枝分かれしたその形は、大きな木のように見えた。
「あれは、女王のリンゴの木だ」
「女王のリンゴ……?」
「そう。俺たち妖精の女王様の、分身みたいなものなんだ」
ミカの言葉に、優利はえっと声を上げた。
「俺たち妖精? じゃあ、ミカさんは……」
こころの言葉に、ミカは振り返って頷いた。
「この姿じゃ信じられないだろうから、本当の姿を見せてあげよう」
そう言うと、ミカは手の平を上にして右手を胸の辺りに掲げた。すると、手の平の上に輝く赤い炎が灯った。そして次の瞬間、炎はばっと広がり、ミカの全身を包み込んでしまった。驚く二人の前で、炎は黄金の火の粉を飛ばしながらすぐに消えていく。
――そして、炎が消えると、ミカがいた場所には、ミカによく似た、しかし全くの別人が立っていた。
「……この姿が、本当の俺の姿なんだ」
そこにいたのは、中学二年生の吉備ミカではなかった。すらりと伸びた背に、風になびくたてがみのような黄金の髪。顔つきには子供っぽさが欠片も残っていない。まるで大人の男に見えたが、その背中には、透き通った金色の、鷹のような翼があった。
「よ、妖精……? 本当に、妖精なんだ……!?」
「じゃあ、夢の扉を開けたことがあるって言ってたのは……夢の国に行ったんじゃなくて、夢の国から来たってことだったんですね!」
「ああ。俺はこの世界の妖精さ。本当なら、夢の扉の外に世界に出ることなんてしないんだけど。ただ……最期に一度だけでいいから、この妖精の国を、扉向こうの世界の人に見て、覚えていてもらいたかったんだ」
「最期に、一度だけ? それってどういう……」
不思議そうにするこころに、ミカは背を向けて、女王のリンゴの木を見た。こころと優利も同じ方を向く。
「ずっと前は、こんなに遠くからでも女王様の木の、青々と茂る木の葉が見えていたんだ。風に揺れる度にきらめく緑を君たちにも見てほしかった。
けれど、あの木に葉が茂り、黄金のリンゴの実が輝くことは、もう二度とないだろう。女王のリンゴが無くなれば、俺たち妖精は夢を見ることもなくなる。そして……子供たちが妖精の夢を見ることもね」
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