4.夢の扉

 その日の夜。

 優利はベッドの上で何度も寝返りを打っていた。しっかりと閉じられた目の間にはしわが寄っていて、お世辞にも安眠とは言いにくい寝顔だ。


 優利は夢を見ていた。

 それも、とびきり悪い夢だった。


 夢の中、優利は学校のような、そうでないような場所にいた。外から見たときは確かに学校だったのに――いつの間にか入っていた校内は、通っている掘洲中学校のものとはまったく違っていた。教室のドアを開けるとそこには、たくさんの机が並んでいた。学校で使われている木と鉄パイプの机ではない。もっと大きな、大人が使うような事務机だ。驚いた優利は、無意識に踵を返して外に出ようとした。

 すると、真後ろに人影があった。

 人、とは言えなかった。人影――文字通り人の影が、地面からそのまま立ち上がったような、真っ黒い何かがそこにいた。優利はひゅっと息を飲んで後ろに下がろうとした。

「原稿は書けたんですか?」

「え……?」

 影に話しかけられ、優利は思わず足を止める。すると再び「原稿は書けたんですか?」と声がかかる。それは目の前の影から聞こえてきたものではなかった。背後からの声に優利が振り返ると、いつの間にか、そこにもう一人影が立っていた。

 いや、もう一人どころではなかった。

 優利の周りをぐるり、と人の影が取り囲んでいた。そしてそれぞれ、口々に言う。

「原稿書けましたか?」「進捗どうです?」「もう打ち切りますかねえ」「ああもう結構です」「やっぱ駄目「もう古い「終わって「つまらない」

 言葉の洪水のようだった。言葉同士が重なり合いながらなだれ込んでくる。優利はその場で身を縮こませることしかできなかった。喉の奥で、悲鳴がひきつって、か細い息になって吐き出される。恐怖に身動きが取れない。その恐ろしさは、得体の知れない何かに言葉を浴びせられている、というだけではなかった。自分がどんどん否定されて、体の外側から削り取られていくような、自分がこのまま消されてしまうような怖ろしさがあった。

「止めろ! やめてよ……!」

 優利は力を振り絞るように叫ぶと――といっても、その声は本当に小さな声だった――目に入った影を突き飛ばそうとした。が、見た目通り影には実体が無かった。優利は手を突き出した勢いで、影の体を突き抜けてしまった。ぞっとして体を硬直させたのは一瞬のことで、優利はすぐにその場から逃げだそうと駆け出した。入ってきたドアとは別の、もう一枚のドアを開いて廊下に出る。

 廊下は校舎と同じもののままだった。ただ一つ、さっきと違うのは、廊下を埋め尽くすように人の影があったことだった。教室の中にいた影よりも少し背が低い。優利の目にはそれが学校の生徒の影のように見えた。彼らは口々に何かを言っている。だが、その声は優利には届かない。視線を優利の方へとチラリと向け、影同士で何かを話している。それが何故か優利にはたまらなく不快で、人の影がいない方へ、いない方へと走り出す。

「はあっ、はあっ、はあっ……!」

 闇雲に走る内に息が上がる。知っているようで知らない校舎の中では、いま、自分がどこにいるのかも分からなくなる。ただ、ともかく影を避けながら優利は走り回っていた。


 そして――走り回る内に、優利は階段を上り、屋上へと続くドアの前まで来ていた。優利はようやく走る足を止めた。息は完全に切れていた。どんなに息を吸っても呼吸が楽にならない。くらくらする頭の中には、また走らなければ、という自分の声が響いている。走って逃げなければ、階段を降りなければ――どうしてそう思うのだろう? 決まっている、屋上に出るドアは開かないのだ。だから誰かが来る前に降りないと。

 頭の中でぐるぐると考えだけが浮かんで巡っている。けれど、走り出す元気は一向に戻らない。そうこうしているうちに、下の方から影が見えてきた。話しながら登ってくる影の姿に、優利はパニックになって、また息を乱した。ドアのノブを捻って押したが、開かないことは分かっている。それでも、もうどうすればいいのか分からなくなって、ドアを前後に揺さぶったり、あるいは、誰かに助けを求めるように拳でドアを叩く。その間にも影は迫ってきていた。初めのうち、一人二人ぐらいにしか見えていなかった影は、階段の踊り場を覆い尽くすほどの数になっていた。

「……姉ちゃん…………!」

 優利は震える声で、思わず姉を、こころを呼んだ。

 ――すると突然。

 ガチャッと音を立ててドアが開いた。ドアに寄りかかるように体重をかけていた優利は、つんのめるようにしてドアの向こうへと放り出された。転びそうになって床に手をつくと、思っていたのとは違う感覚が手から伝わる。そこにあったのは硬いコンクリートではなく、芝の様に短い草に覆われた土だった。

「……優利?」

 どうして屋上に土が、と不思議に思いながら起き上がろうとした優利の耳に声が届く。よく知った声に、優利は跳ねるように身を起こした。

「ね、姉ちゃん!? なんでここに――」

 言いかけて、そもそもここはどこなのだろうと優利は周囲に視線を向けた。

 すると、一面の緑が目に飛び込んできた。さんさんと降り注ぐ陽の光を浴びて青々と輝く草原に、優利とこころは立っていた。後ろを振り向けば、木造の小屋があり、開け放たれたドアからは中が見えていた。小屋の中には、小さなシューズボックスや木のテーブルがあった。テーブルの向こうには、キッチンもある。どう見ても学校ではなく、普通の家のようだ。

「あ、あれ……学校じゃなくなっている……」

「学校? 優利は学校にいたの?」

「うん……たぶん」

「私、気づいたらここにいたの。この家が見えたから近づいて……それで、優利の声が聞こえて、ドアを開けたら優利が出てきたの」

 こころは説明しながら、小屋へと近づいていく。優利もいっしょに小屋の中に入っていった。姉に頼りきりなのは恥ずかしかったが、いまは一人になりたくなかった。

「誰か住んでるのかな。……すみませーん! お邪魔します」

 こころが呼びかけるが、返事は無い。小屋の中はがらんとしている。けれど、確かにここで誰か暮らしているのだろう、という雰囲気だった。食器棚に置かれた食器や、壁にかけられたフライパン。テーブルの側には椅子が二つ。窓際には鉢植えがいくつもあって、色とりどりの花が咲いていた。

「……素敵なお家ね」

「ここ、出た方がいいんじゃないかな……ほんとに誰か住んでたら、不法侵入だよ」

「うん。でも、夢の中でも不法侵入で怒られたりするのかな」

 あ、と優利は声を上げた。夢の中。そのことを優利はすっかり忘れていた。しかし、そうだとしたら奇妙なことがある。こころの存在だ。夢の中だというのに、まるで本物のように優利には見えた。それとも、自分はいま、姉が出てくる夢を見ているのだろうか?

 混乱しながらも、優利はどうしていいのか分からないので、こころに着いていくことにした。こころは探しているものがあるのだと言う。

「夢の扉?」

「そう、夢の扉を開けば、妖精の国に行けるんだって。ミカさんが言ってたんだ」

 ミカの名前を聞いて、優利は眉をひそめた。もしこころがその話をミカから聞いていたのだとしても、それが本当のことかなんて分からない。いや、妖精の国なんてあるわけがないのだから、きっと姉は嘘を吹き込まれたのだ。きっとミカは、こころと話す話題のためにそんなことを言ったのだろう。優利はそう思うと、何だか腹立たしいような気分になった。姉を騙したミカも、それを信じきってしまっている姉にも、イライラしてしまう。

「姉ちゃん、止めよう。夢の扉なんて見つかりっこないよ」

「大丈夫。ここが夢の中だって分かってたら、どんなことだってできるんだから。ほら、見て!」

 こころが言って指を差す。指し示した先には、きらきらと光る湖があった。近づいてみると、湖の中に、小さな島が一つある。それを見て優利は言葉を失った。


 ――そこには建物も何も無いのに、扉だけがぽつん、と立っていた。

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