第10話DEEP WATER ~解けぬ重石~ Part.6
月明かりが透ける瞼の裏に浮かぶのは、老人のやりきれない表情
隙間風が抜ける耳に響くのは、老人の震える声
本心を聞いたのは僅かに数時間前、だからこそ情景の全ては鮮明に残っていて、想いを馳せずとも、老人の姿が浮かんできていた。そこにあった哀しみや後悔、憎しみや怒りは疑いようもない本物であり、同時にそれらが、人間が魔族へと抱いている感情の本質であるとメアは理解していた。
誰だって憎かろう、大切な者を奪われれば
誰だって怒ろう、積み上げた幸せを踏みにじられれば
全ての人間がそうではないことを願ってはいるが、彼女は同時に、すべての人間に恨まれていても仕方の無い道理はすでにあると悟っていた。なにせ百と数十年、一つの戦争としては長すぎる時間を争い続けているのだから、両種の間に積もった怨嗟はきっと雲さえ越えている。
退き時を逸した賭け師達は、全てを巻き込み行くところまで逝くだろう。限界を超えてなおチップを積み続ければ、破滅が待つと知りながらも……。
愚かだと、メアは思う。
破滅が待つ断崖へとひたすらに走り続けるとの同義なのだから、そう思うのも無理はない。単純な話、足を止めさえすれば助かるのだから、立ち止まってしまえばいい。これまでに失った者は戻らないが、それでも道は続く。未来へと託すことはできるのだ。ならば後者を選ぶのに、なんの苦悩が必要だろうかと、そう思わずにはいられない。
しかしそれは、あくまでも傍観者としての発想だ。
頂に腰を下ろして、下界を見下ろす者の発想、大局を臨む上方からの視線にすぎない。遠くから眺めるばかりだった平原が、実は死体で埋め尽くされていたなんて、降りてみなければ分からないのだ。
ある意味、メアは初めて人間と魔族の関係性を知ったのである。
あの優しく枯れた老人にさえ、怨嗟の焔を抱かせるほどの軋轢。両種の溝は彼女が考えていたよりも遙かに深く、そして大きな物であるのだと。
だから、かもしれない。窓の方を向いたまま瞼を閉じているメアは、どこか哀しげに、だが安堵しながら口を開いた。
「……一太刀で斬ってくれるかのう? 痛いのはイヤなのじゃ」
寝首に刃の冷たさを感じても、メアは別段驚きはしなかった。
平和に暮らしていた老人でさえあれほど憎むのだから、戦に身を置いていた剣士がどれ程の怒りを抱いているかは想像に難くない。立場が違えば、自分もきっと同じ感情に駆られていただろう。そんな想いが芽生えたためか、彼女の表情はむしろ穏やかなままであった。
死への恐怖も
裏切りへの怒りもない
ただ少しだけ残念だった
メアは全てを受け入れ、瞼を閉じたまま囁く。
「いくら待とうが妾は泣きもせぬし、
正当性を疑うまでもなく、彼にはそうするだけの理由と権利がある。だからメアは、このまま首を落とされるとしても、一切の抵抗をしまいと自らに誓った。いつからから描いていた壮大な夢、だがその絵図を完成させるにはあまりにも障害が多すぎるのだと、遅まきながらに知ったのだ。そう、独りで描ききるには、この世界というキャンパスは大きすぎて手に余る。
まず成すべきは……もう、手遅れかも知れないが同じ夢を見てくれる同志を探すことだった。
準備を怠った彼女が起こした行動は、言うなれば下書きも下調べもなしに、見たこともない風景画を描こうするような無謀、駒の動かし方さえ知らずにチェスを指そうとするような短慮でしかなかったのだ。
であれば当然、風景は崩れ王は詰む。
彼女の首に刃が向けられているのは、当然の帰結であった。抱いていた夢も、果たすべき使命もここで潰える。そう彼女は覚悟したからこそ、その先の言葉は大局を臨む王女として発した物であった。
「妾の首に懸けて誓ってくれぬか。この世界を守るために託された使命を果たすと。そしてどうか、憎しみを以て魔族を斬るのは妾で最後にすると誓ってくれ」
「………………」
返答はない。
しかし彼女は続けた。
「言葉にする必要も、首肯する必要も無い。ただ主がそうと誓ってくれさえすればよい、落とした妾の首に誓い、使命を果たしてくれればよいのじゃ」
魔王城で起きたこと、そして雲の向こうよりやってきた来訪者。きっとこの星に生きる全ての脅威となりえる【奴ら】の存在を知らしめるのが、逃がされた二人にとっての使命である。
極論を言ってしまえば、なにより大事なのはこの一点。
つまりもう一方の願い……メアが個人的に抱いている理想は優先順位で劣っている。とどのつまり、後者の願いを押し通すことは我が儘に過ぎないと、メアは哀しくも自覚していた。
そう、いま重要視されるべきは、この星に生きる者達全体であり個ではない。だからこそ彼女は、魔族の王女という立場であるにもかかわらず、自身を全体のうちの一つとして扱ったのである。
王とは民を統べ、導く者
求めるのは民の幸福と繁栄
であれば、玉座にあるべきは《王》という存在のみであり、個としての意思は抑えて然るべきである。いつの頃からかそう考えるようになっていたメアだからこそ、断頭の際にあって尚、自らを捨てて刃が振り下ろされるのを待てていた。
束ねた髪を退かして、いっそ狙いが付けやすいようにしてやる
浮き上がる、メアの蒼い首筋が月明かりに晒される
……だが、待てど暮らせどその瞬間は訪れなかった。
暫く経った後、ようやく彼女が聞いたのは、しかし予想だにしない音。それは刃の風切り音でも、剣士の咆哮でもなく、ただ静かに遠ざかっていく足音だった。
静かに、だが気配は殺さずに立ち去ることを示しているその足音は、やがて扉の開閉音に紛れて、家の外へと消えていく。
…………
……………………
室内にはやり場を失った覚悟と気味の悪い静寂だけが残り、メアはゆっくりと瞼を開ける。
――もうきっと、彼は戻らないだろう。
人間と魔族はやはり別たれたままか。煌々と輝く月を見上げるメアはそう思い、そして、何故だか手が震えている事に気がついた。
抑えようにも止められない。
今更になって吹き出してきた死への恐怖は、覚悟を決めていたが故に、助かってしまったという現実が彼女に死を認識させていた。彼女が向けられていた殺意は、これまでの人生の中で最も強烈な部類に含まれていて、それこそ思い出すだけで涙を浮かべてしまう程である。
ただ同時に、新たな感情がメアの中には浮かんできていた。
一つは安堵
――単純に、まだ生きているという喜び
一つは憤り
――永らえたことを喜んだ、自分に対する憤慨だ
世界のために命を捧ぐと決めた直後にこの有様、それは滅私などは程遠く、あまりにも容易く揺れた甘ったれの精神が許せず、彼女は枕に顔を埋めていた。
きっと、このように悔やめるのは彼女の中に魔王としての理想像があるからだろう。凡人は得てして自らに甘く、後悔はしても省みはしない。命が助かったことを喜びはしても、そうそうその結果を恥じたりはしない。
普通は物事の良い側面だけを捉えて満足するだろう。そうした方が幸せだし、なにも好きこのんで辛い思いをする必要は無い。終わりよければ全てよし、気楽に生きるにはこれこそ最適な考え方だが、そう単純に生きられない者も存在する。
メアは幼くも魔王女だった。
魔族であるが王女だった。
その小さな胸に宿る精神は、荒削りながらも力強い輝きを秘めていて、その荒々しさ故に彼女自身が振り回されている。王女としてはまだまだ原石、より光り輝くのはまだ先の話だろう。
あらゆる経験は人を成長させてくれる。
出会い
別れ
愛憎
祝福
流す涙の一粒にだって意味はある。
その一滴に意味を見いだせれば、きっと前へと進めるはずなのだ。
そうして、悔しさに枕を濡らしたメアが眠りに落ちたのは、空が白み始めた頃であった。
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