第9話DEEP WATER ~解けぬ重石~ Part.5

 とても、月が綺麗だ。


 あてがわれたベッドで寝返りをうったメアは、窓から覗く輝かしい月明かりを眺めていた。いっそのこと、あの輝きに溶けてしまいたい、そんな想いさえ募らせるまばゆさに照らされながらも、だが彼女は自らにその資格がないであろうことを自覚して、月灯りを空色の瞼の向こうに隠した。


 楽園を夢に見るよりも、まず見るべきものがある。


 未来のために、過去を

 それは彼女にとっての罪でもあった


 だからこそ老人が用意してくれた夕餉の席に、メアはきちんと出席したのである。

 品数も味も、遠慮無く表現するなら彼女には不足であったはずだ。


 魔族とはいえ王の娘、となればその生活だって豪華なものであったから、人間の老人がこしらえた小さな村の家庭料理など、出されただけでも憤慨ものであって然るべき。

 ……で、あるはずだが、彼女は一つの不満も漏らさず、出された料理すべてを味わい尽くしたのである。そもそも味には文句の付けようがなく、メアは初めての味覚を楽しんでいた節さえあった。なにより、寝床と食事を与えられた恩を忘れ、この上不満を垂れるなど魔族の品格を下げるというもの、それこそ言語道断と信じる彼女は、魔族の威厳と品格を以てもてなしを受けたのである。


 その振る舞いは毅然としていたし、所作一つ一つには異常なまでの優雅さがあった。ただし、メアの服装や、グリムの粗雑な振る舞いとあまりにも不釣り合いだったため、興味を持ったじいさんが、食後の暇つぶしついでにいくつか話を振ってきた。


「メアさんは、もしかして貴族の生まれだったりするのかい?」

「む? 何故そう思うのじゃ、ご老人」

「そりゃあ仕草といい言葉遣いといい、わたしらよりも随分と上品だからね」

「やっぱり、おねえちゃんっておじょーさまなの⁈」


 運んできたリンゴ酒をテーブルに置くなり、ホリィが興奮気味に言った。少女からしてみれば、貴族のお嬢様は憧れの存在だし、そんな人物が目の前にいるとしたら瞳を輝かせるのも当然だ。例えその憧れがメアに重くのし掛かることになったとしても、少女の憧れに罪はない。


 そしてこれも当然ながら、魔王女だなどと口にできるはずもないので、メアの返事はじつに曖昧なものとなる。


「うむ……、そのなんというか、妾は、そうじゃな……」

「やっぱりおじょうさまなんだ! すごいすご~い!」


 子供がもつ純粋さは刃に似ている。しかも厄介なことに扱い方を知らないから、興味を惹かれるがままにその刃を振りまわすのだ。少女の綺麗な心根にメアの胸は引き裂かれそうだし、ついでに刃先はグリムにも向いた。


 メアと兄妹ってことになっているってことは、つまり――


「えっとぉ、グリムおにいちゃんも、……貴族さまなの?」

「なんで俺のときは疑問系なんだ」

「だっておにいちゃんって、あんまり貴族さまっぽくないんだもん」

「これホリィ、失礼なことを言うものじゃないよ」


 もしも本当に二人が貴族であれば、大変なことになりかねない。そう案じたじいさんは、すこしキツめにホリィを諭したが、グリムにしてみれば余計な心配である。


「いいよじいさん。実際おれは、貴族でもなんでもねえし」

「そう、なのですか? あぁ、ですがメア様とはご兄妹なのでは?」


 グリムには誠に不本意であるが、そういうことになってしまっている。なので彼は、これ以上踏み込まれないであろう嘘でもって、じいさんを欺くことにした。恩人を騙すってのも気が引けるところだが、事実を知られて問題になるよりは大分マシなのである。


「……俺とこいつメアは種違いの兄妹なんだ、どっちの親父もロクデナシでね。そういうワケだから色々事情もあるし、あんたが知らない方がいいこともある、話したくないこともな。だからこれ以上詮索しないでくれると助かる」

「どうやら、わたしが一番失礼なことを尋ねたようですね」


 いいや、じいさんに落ち度はなかった。だが混ぜ合わされた嘘を真実として捉えた場合はそうなってしまい、じいさんは丁寧に謝罪を口にする。


「グリム様、メア様、申し訳ありませんでした。どうか非礼をお許しくださいませ」

「謝罪は不要じゃよご老人、顔を上げてくれ」


 メアは威厳ある、しかし優しい声で言った。それはやはり由緒ある血筋を思わせる所作であり、彼女が王女であることを知らぬ者にさえ、なにかしらの想像をさせる振る舞いであった。


「お主には何一つ非など無い、我らは不快な思いなどしてはおらぬのじゃから、詫びる必要もないぞ。それに貴族とはいえ妾はこの国の者ではないのじゃから、堅苦しい敬称もまた不要じゃ。なによりお主には世話になっておる、気を張らずに振る舞ってくれた方が、妾としてもありがたい。どうか普通の旅人に接するように、妾とも接してはくれぬかのう」

「しかし、素性を知ってしまった以上、そういうわけにも……」

「はじめに偽ったのは我らじゃが、お主にはどうか、その偽りを真として扱ってもらいたい。我が儘であることは承知の上。妾の願い、聞き入れてはもらえぬじゃろうか?」


 さしものじいさんも、メアの申出にはまいったといった感じで答えあぐねていた。本人がそうしてくれと望んでいても、これまでの経験や、先の不安がすんなりと呑み込むことを拒むのだ。慎重さとは、長く生きた者だからこそ備える能力であり、その予感はむしろ持っていなければ危険を招くだろう。


 ただし、往々にして《過ぎる》というのは同時に喪失を招く可能性も孕んでいる。何が正解か見極めるというのは、どのような選択でも難しいものであるが、時には頭で考えるよりも、素直な心の声に耳を傾けることが肝要だ。


 そういう意味では、子供ほど度胸が据わった者はいないだろう。ホリィは小難しい話を遮るようにして、メアの腕にぎゅっと抱きついていた。真っ直ぐな子供は猪並みだから、じいさんに止められたって聞きやしない。


「こらホリィ――」

「い~や、はなさないもん! おじいちゃん、メアおねえちゃんがいいよって言うんだからいいんだよ。――ねぇねぇ、メアおねえちゃん?」

「なんじゃ?」

「わたしね、メアおねえちゃんとお友だちになりたいッ!」


 ホリィは、本当にまっすぐでいい娘だ。ニカッと歯を見せた元気印の笑顔は頼りないランプ灯りよりも、より鮮やかに室内を照らす。ただその眩しさは、メアにとっては初めての経験だったために、彼女は土から顔出したモグラが戸惑うように、しばし唖然とするばかりだった。


「どうしたの? メアおねえちゃん?」

「友、か……。妾とホリィが……」

「……もしかして、イヤ、だった?」


 ホリィはしょぼんと肩を落とす。

 心から友達になりたかったのだろう、それだけにとても残念そうだった。


「いや、すまぬ。不安にさせたようじゃな、ホリィ。そのようなことを言われたのは初めてで、なんと返せば良いのか分からなかっただけじゃ」

「おねえちゃん、お友だちいないの?」

「家臣や召使いはいたが、友と呼べる者は居なかった。妾の父は偉大な人物じゃが、同時に敵も多くてのう、友を作る機会も妾にはなかったのじゃ」

「……さみしくなかったの?」

「常に誰かが傍におったからのう、孤独を感じたことはあまりないな。しかしそれは、元より他者との繋がりが少なかったからかもしれぬ。彼等を友と呼べるかと問われれば、答えは否じゃ。彼等は皆、父上を恐れ、父上に屈して、父上に傅いたに過ぎぬ。じゃから――」


 メアは静かに目を細めて、ホリィの頭を撫でてやった。


「ホリィの申し出、妾はとても嬉しいぞ」

「わたしも!」

「フフフ。これこれ、ホリィ! ちと強く抱きしめすぎじゃ、苦しいぞ」


 そうやってメア達はしばらくの間ふざけあっていた。


 それは実に温かく、とても和やかな光景で、同じ空間にいるだけで心が安らいでいくような感覚を誰しもに与えている。軽い酒を煽り、他愛もない話で時折起きる笑い声。緩やかに過ぎていく時間は、嗚呼、素晴らしい物であるとメアも感じていた。


 彼女にとっては馴染み無く、むしろ初めてに近い感情であったが、彼女が確かに感じている不思議と胸の奥から温かくなる感覚は、だが彼女に懐かしさを思い出させていた。


 その居心地のよさは、この瞬間が永遠に続くことを望むほどだ。しかし、現実というのは非常に意地悪く出来ていて、幸福の裏側にとんでもない不幸が待ち構えてるなどザラなのである。十字路を曲がれば不幸が待っている場合、人は大抵の角のさきに何があるのか分かるのだ。そしてその予感を信じるのならば、決して横を見ることなく、幸せな今だけを見て、幸福のみを夢に見ながら直進するだろう。


 ただし、メアはそうはしなかった。


 きっと傷つける、そして傷つく予感がありながらも、彼女は自らその角を曲がる。そうしなければ、彼女の夢は叶わないのだ。ただただ進む甘い幻のさきに、理想がないことは彼女心が理解しているから――


 雑談を始めてから一時間ほど経った頃。睡魔に負けたホリィをベッドに寝かせたじいさんに、メアは意を決して尋ねた。


「つかぬことを訊くが、ホリィのご両親はどこに居るのじゃ」

「…………」


 その質問はいわば急所で、じいさんの表情が初めて曇った。しかし、いずれ訊かれると予想はしていたらしく、じいさんは動揺を抑えながら手元のリンゴ酒へと目を落とす。


「……もう、おりません。亡くなったのです、二人とも。魔物に村が襲われたとき、私や娘達を逃がそうとして殺されました。騎士団の方々が助けに来てくれましたが既に遅く、他にも大勢犠牲になりました。もう、五年も前のことです」

「待つのじゃご老人、娘達・・じゃと?」

「えぇ、ホリィには年の離れた姉が居りました」


 コップを握るじいさんの手が震えているのか、水面に波が立っている。そこにあるのが怒りか後悔かは定かではないが、並々ならぬ感情が湧いているのは明らかだ。


「姉はモリィという名で、ホリィとよく似た面倒見のいい優しい姉だったのですが、彼女も二年前にはぐれ魔物に襲われて……」

「……そう、じゃったのか」


 そこから先、どうなったかは敢えて訊くまでもない。じいさんの言葉は全てが過去形で、その語り口が姉の最後を教えてくれていた。だからだろうか、不意に水を向けられても、グリムは僅かも驚きはしなかった。不条理に家族を奪われた者が望むことは、そう多くはないからだ。


「グリムさん……。見も知らぬ貴方に、こんなことを頼むのは大変失礼だとは分かっております、ですが、年老いたこの身では魔族共に一矢報いることさえ叶わないのです。貴方はきっと、名のある剣士様なのでしょう? でしたらどうか、どうか……、かわいい孫娘から愛する家族を奪い去った魔族等めに報いを受けさせてやってはくれませんか……!」

「……恨みは深いのじゃな、ご老人」

「当然でしょう……! 魔族さえ現れなければ、私達は平和でいられた。私達から僅かばかりの幸せすら奪った魔族を許すことなど、どうして出来ますか? 叶うならば、自分の手で奴らを根絶やしにしてやりたいところなのです!」


 だがじいさんの願いは叶わない。


 年老いたその身ではろくに剣を振ることさえ叶わず、となれば魔族を討つなど夢のまた夢で、手の届くことのない幻と同じである。それが分かっているからこそ、自らの無力さが身に染みているからこそ、恥を忍んでグリムに頼んでいるのだ。


 仇討ちを諦めることに比べたら、恥を被るなど大した事ではない。

 涙ながらにそう語るじいさんに向けて、グリムは静かに頷くだけ。じいさんの無念は痛いくらいによくわかる、いや、この痛みが分からぬ人間などいやしないだろう。


 魔族であるメアだけが、やり場のない想いを詰まらせて口を噤み、そうして今、彼女はベッドで瞼を瞑っていた。

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