その十 書庫

 その日僕は、門の前まで送って帰るつもりだったけど「ちょっと、頼みたい事があるから上がって」と家の中まで案内された。彼女の部屋はどんなだろうと妄想が膨らむ。いやいや、どうしても見たいとかそんなことないから。 ……ちょっとあるかな。


「ただいまー」

「お邪魔しまーす」


 僕らの声が聞こえたのだろう、玄関の三和土たたきで靴を脱いでいると奥からエプロン姿の和服の女性が顔を見せた。僕の母親と同じぐらいだから四十歳前後だろうか。彼女のお母さんかなと思っていると。


「お帰りなさい。お嬢様。今日も遅かったですね。あら、お友達をお連れですか?」

「ああ、もうこんな時間。木曜日は千絋ちひろさん帰るの早いのに時間過ぎちゃってた。ごめんなさい。電話しておけば良かった。今度から気をつけます」

「いいえ、大丈夫ですよ。今後気に掛けていただけましたら助かります」


 廊下の奥からパタパタとスリッパの音がしてだれかが早足で歩いてくる音がする。顔を見せるや否や驚いた表情を浮かべた。


「あらー、聞きなれない若い男の子の声がしたと思ったら、捺稀ちゃんのお友達? 珍しいわね。男の子なんて連れてきたの初めてかしら。お母さん喜んじゃうわ」


 捺稀さんお母さんから『捺稀ちゃん』って呼ばれているんだ。友達みたい。仲良さそうだな。うん。男子を連れてきた事ないって。僕が始めてなんだ。何だか嬉しい。


「はいはい。この人は友達の東雲真仁くん、クラスメイトで親友になってもらった。あの博物館泥棒の件で一緒に冒険した子。

 真仁くん、わたしの母です」


 友達という言葉に胸がちくりとする。


「初めまして、東雲真仁です。なつ、楠本さんにはいろいろとお世話になってます」


 しっかり腰を折って挨拶した。初めて会ったお母さんに捺稀さんを下の名で呼ぶのは恥ずかしいくて、名字で呼んだけど、最近名前ばかりで呼んでたので、なんか変な感じ。


「丁寧な挨拶、痛み入ります。捺稀の母の茉利香まりかです」


 にこりと微笑み、軽く頭を下げる。親子だからよく似ている。大人の美人で胸も彼女より豊か。彼女ももう五年もすると、ああなるんだろうか。歳の頃は僕の母親と同じくらいのはずだけど、比べるとずっと若く見えスタイルも良い。きらりと光る眼鏡から理知的な雰囲気が漂ってくる。


「あーあ。あの時の子ね。もしかして、捺稀ちゃんが迷惑をかけているでしょ。適当に断っていいわよ、ほっとくと自分の好き勝手するから」


 痛み入る? どういう意味だろう。初めて聞いた。雰囲気から悪い意味じゃなさそう。


「いいえ、いろんな面白い事教えてもらって、毎日が楽しいです」

「そうなの!? それはよかった。まだ、迷惑かけてはいないのね。中学の頃は……」

「お母さん、いいから。真仁くん、こっち」


 捺稀さんは僕の手を引いて右側の廊下の奥へ連れて行こうとする。途中で振り返る。


「お祖父じいちゃん、書斎にいる?」

「さっき食事を済まして、引っ込んだからきっといるわ」

「わかった」


 捺稀さん怒ったような顔をしている。でも、耳が赤いから恥ずかしいのかな。

 ずんずんと渡り廊下を更に奥に歩いていって、あるドアの前で止まった。


「待ってて」


 そう言って中に入っていく。ドア越しに声が聞こえてくる。内容は判らないけど、お祖父じいさんと話をしているようだ。


「……ありがとう、じゃあ借りるね」


 ドアを閉めて僕の方を振り向くとにこりと笑う。うん、可愛い。自宅にいるからかリラックスしているんだろう、もう表情も普通に戻り、いや、いつもより柔らかい気がする。


「真仁くんに家まで来たもらったのはね…… 入って」


 突き当たりのドアを開けて中に案内される。捺稀さんの私室…… じゃないよね。

 あかりが点いて部屋の中が見えるようになって驚いた。そこは書庫だった。一般家庭にあるとは思えないような。少なくとも今まで見た事なかった。学校の図書室よりも高い天井に上の方ははしごを使わないと手が届かないくらい背の高い本棚が人ひとり通れるぐらいの隙間で並ぶ、そこにびっしりと本が詰まっている。


 あかりが少ないので薄暗く不気味な雰囲気を醸していた。印刷物特有のインクの匂いが鼻を突く。まずい、お腹痛くなりそう。


「すごいね。こんな本棚、それに本の数、図書館以外では見た事ない」


 薄暗い部屋にふたりきり、でもこの部屋では妄想も起きようがなかった。

 捺稀さんがごそごそと本を探し、三冊ほど持ってきて僕に手渡した。


「すごいでしょ。ここの本は全部、お祖父じいちゃんの蔵書なの。あと、お母さんの著書がすこしかな。学校の図書室よりずっと豊富よ。わたしもいずれ本を書いてここに入れてもらうの」

「著書って捺稀さんのお母さんは作家なの?」

「ちがうわ、近代・現代の地政学研究レポートや地政的経済圏の発展とか。お母さんは政府系のシンクタンクに勤めていて、国際情勢とか色々研究しているみたい」

「すごいのは判るけど、単語とか全然判らない」

「普通使わないものね。まあ、わたし達には直接関係ないことよ。

 それより。はい、これ。地学準備室の品物を仕分けするのに読んでおくとはかどると思う。もう後、三日しかないから、これ土曜までに目を通しておいてね」


 そう言うと、先に立って玄関まで先導する。僕は大人しく本を抱え後を付いて行くしかなかった。彼女らしいといえばらしいけど、落胆の気持ちが湧き上がるのはなぜだ。


 これは、そうか、彼女の私室に案内される事を無意識の内に期待していたんだな。僕はまだまだ、彼女の私室に入れてもらえるほど親しくなってはいないのか。

 でも、まあ、家族には紹介されたし、ゆっくりと距離を詰めていけばいいんだよね、と心の中の自分に語りかけた。


 彼女のお母さんに夕食に誘われたけど、母さんが準備している筈なので断ってまっすぐ帰った。捺稀さんと食卓を囲めるのは魅力だったけど、タイミングが悪い。捺稀さんと友達でいる事でこれ以上母さんの印象を悪くしたくなかった。


 渡された本は三冊、結構重くて肩が痛くなった。

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