第5話


 潮風の匂い。

 時化の去った海。

 荒れ狂っていた波は一転して、何事もなかったかのように穏やかなものへ変わっていた。

 

 冬ということもあってか、朝から冷たい空気を纏う大海。

 ゆりかごを思わせる、ゆったりとした波の揺れに合わせ、船体も揺れを繰り返す。

 規模は小さいとはいえ、それなりの乗客を乗せた一隻の客船は、穏やかな海の流れに乗り、目的地へと向かっていた……。

 

 ガタンッ、と何かが落ちる音。

 その音が耳に直撃したユージンは、ハッと目を覚ました。

 ……と同時に、また瞳を瞑って眠りに入ろうとし…眠れずに目を瞬かせる。

 

 ぼんやりと滲む視界に映る、殺風景な灰色の部屋。

 

 それに気付くと、自室とはまるで違う部屋模様に困惑するーーと同時に、

 徐々に浮かび上がるそれまでの記憶から、

 ユージは自身の状況を思い出した。

  

 ここは母国ですら無いーー遥か遠い海の上だということ。

 母国を離れて遠い異郷から、帰りの客船に乗り、大海を渡っている途中だということを。

 そしてこの見覚えのない部屋は、乗客に割り当てられた、仮の自室だと。

 そう理解した途端、去った筈の眠気に誘われる。

 冷たい空気から逃げるようにーー簡易ベッド下に落ちていた毛布を掴み取り、蓑虫のようにくるりと纏った。

  

 …目を覚まそうと動けないのは、身体を覆い被さるように掛けられている布団の所為だ。

 ユージンが纏う寝具ーー持ち込んできた簡易布団は、海を渡る客船でも効果を発揮していた。

 暖かい毛布に身を包ませていると、ぬくぬくとその暖かさを実感する。

 

 もう少し寝ていたいーー不明瞭な思考、夢心地の精神を引きずりながら、双眸を瞬かせた。  

 

 ……不意に、ユージンの目を覚まさせた物はなんだったのかと視線を下に向けると、同じく自国から持ち込んできた時計だった。

 開けられた窓から、

 流れる空気に混じった、潮風の匂いが鼻をくすぐった。

 扉は閉め切っているが、大型の暖房装置など無いこの船では、窓を開けて寝るなど自殺行為に等しいがーーそれも、この布団のお陰で、死なずに済んでいる。

 布団の有り難みを噛み締める。残っていた筈の眠気は既に消え去り、鮮明な思考が回り始める。

 ユージンが乗るこの客船は、観光とはまた違った目的の人間が多く、部屋の多くが相部屋だ。

 それを運良く、ユージンの部屋は奥部屋だった為、多少高さは低いが、広さはじゅうぶんにある。

 この客船の旅も、ーーもうすぐ終わりを迎える。

 その時が来れば、この灰色部屋ともお別れだ。

 

 不意にベッドから這い出て立ち上がり、ふらりとイスに腰掛けると、机の上に広げられていた新聞記事。

 "終戦からーー年、世界に刻まれた深い爪痕"

 と言う見出しが大きく張り出されたそれは、

 

 世界の一時の"平和"が続いていることを意味していた。

 

   ◇ ◇ ◇ 

   

 ーー聖歴1930年代。

 かの世界大戦が終戦を迎え、数年が経った。

 大規模な殺戮兵器の数々、捨て駒として送られた市民の数は計り知れず。

 世界中で多くの死傷者を出した世界戦争は、疲労と資源の限界を迎えたことにより、和睦。

 

 世界大戦の影響により、迷信めいた魔術が渦巻くが存在する世界は終わりを迎え、

 ーー平等を謳う世界へと変わり、人々は平等を歌う新時代の期待を胸に秘め、復興を始めていた。

 とは言っても、戦争で被害を受けた人間は星の数ほど存在し、中には故郷を失い、国の基盤すらも失ってしまった人々もいた。

 そういった国の人間ーー荒れた国から脱する人々、移民たちは、新たな住処を求めた。

 荒廃した各国からの移民。

 そんな新時代へと希望を抱いた人々が向かったのは。

 唯一戦争で発展し、大国となった国ーーエルサス集国。

 各国から流れ着く移民の影響を受け、今や多民族国家として存在しているエルサス集国。

 

 一世紀ほど前から科学を基として発展してきたエルサス集国は、今では文化の流行の発信地として知られ、主流となっている機械の殆どがエルサス集国産として製造されている。

 

 かつて大陸に渦巻いていた呪術や魔術といったモノは、今では中世の、旧い時代の迷信ごとだとされている。もっとも、古い時代を生きた世代にとっては、正史の一部分として認識されている。

 

 皮肉にも大戦をきっかけとして、科学的、物理的根拠を元に大量の兵器が作られ、技術は進歩した。

 

 そんなエルサス国は、他国とは比べ物にならないほど発展した大国ーー"偉大なる合衆国"と呼ばれる黄金時代に入っていた。

 

 積極的な受け入れを表明しているエルサス集国行きの移民船には、今日も多くの人々を乗せ、希望の国ーーエルサス集国へ向かっている。

 

 …軽い支度を終え、不意に窓に目を向けると、既に大勢の人だかりーー心待ちにする人々の姿が僅かに見える。

 

 希望を抱いて渡る者、彷徨い流れ着いた者、様々な目的を持って人々は渡る。

 

 そうして渡る内の一人でもあるユージン自身は。

 

 机上に広げられていた新聞ーーのある頁にひっそりと挟み込まれていたとある紙の存在を思い出し、その込められた意味にーー意味思わずため息を吐く。

  

 なぜ今渡ることになったのか。

 きっかけーーそれは彼が所属する組織の上司ーーのさらに上、上層部による勅令によるものだ。

   

 脳内を占めるのは、今回の仕事のことだ。

 仕事柄、語学に不自由はないよう訓練を受ける上、知識もどの分野にも話を合わせれるよう教育を受けた。

 

 問題はーー。

 

 脳裏に上司との会話の記憶が蘇る。

 

 

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