第9話

その後、いつものように電車に乗って学校に向かい、平凡でつまらない授業を淡々とこなしていく。変わらぬ日常が当たり前のように過ぎていった。


昼休みを告げるチャイムが鳴った。


今日も売店で無造作にパンを選び、窮屈で息苦しい教室へと向かう。


だけど、教室に向かう階段に足を掛けた時だった。

僕は驚いて足を止めていた…

目の前に鞄を大事そうに抱え、階段の手すりに背をあずける彼女の姿があったからだ。


目が合うと彼女は嬉しそうに微笑み、胸元でやや小振りに手を振った。


See you later  とはこの事を指すのだろうか…

「どうしたの?」

思わずそう問うていた…


彼女は手すりから背を離し、僕と同じ段上に来る。


「一緒にお昼しよっか。もちろん別の場所で」

詰め寄るように言い放った彼女の口調はやや上気していた。

その言動は、まさに今日どうしてもお昼を一緒に過ごしたい、という意図が目まぐるしいほどに鎮座していた。


その時ふと頭に過った。

もしかしたら昨日言っていたサプライズと何か関係があるんじゃないか。

そうだ、だからそのサプライズを実行すべく、どうしても今日お昼時間を共有する必要があるんだ。


まるで、何かが符合したように思考がスルリと真実を捉えた気がした。

熟考の末、彼女の一計らしきものが僕の中で微かな形となった。

おおかた、キウイに関する何かを僕に食べさそうといったところだろう。

まあ、断る意味も理由もないので彼女の提案を受け入れていい、という直感的な決断から、

だったらその一計に乗ってあげよう。という極めて何気ない僕の心遣いが快諾を助長させた。


「いいよ。でも、どこで食べるの?」

彼女の表情がパッと明るく灯る。

「ありがとう。それね、私いい場所知ってるんだ。ついてきて」

尚も鞄を大事そうに抱える彼女はそう言って階段を昇り始めた。


2階を越え、3階を越え、彼女が足を止めた所は屋上に繋がる扉前の踊場だった。

学校では屋上禁止という規則によってこの扉は厳重に施錠されている。

なので普段は誰も寄り付かない場所だった。


そういう視点から考えると、確かにいい場所なのかもしれない。

とも思ったが、お世辞にもそれほど居心地がいいとも言えなかった。


「ここで食べようよ」

僕の賛否は問わずといったところで、彼女は扉前の段差に腰を下ろした。

顔の隅々から笑顔を撒き散らしている。

気分を良くしているようなので僕はそれを受け入れることにした。

それに嫌だと言ったところで他に思いつく場所なんてないし。


「うん」 と賛同の声を掛け、僕も彼女同様に腰を下ろした。

誰も寄り付かないわりには綺麗に掃除が行き届いていた。


「昨日言っていたことなんだけどね…」

突然、本題の前振りをすると彼女はゆっくりと鞄を開けてあさり始めた。き

いよいよサプライズが来たのか…

そう思うと、何だかテストの結果発表を待つようなドキドキ感が胸を走った。


「はい」

彼女は、鞄の中から少し大きめのランチボックスを取り出し僕に手渡してきた。

「っえ…?」

まさかのランチボックスに体が一瞬フリーズしたように硬直してしまった。

ポカンと口を開けて彼女を見つめる。


彼女は自分用のランチボックスを取り出すと、そんな僕の顔を覗き込むように言った。

「どうしたの? また照れてるの?」

ニコッと笑う。

「ち、違うよ… ちょっとびっくりしたんだ…」

「っお、てことはサプライズ成功だあ」

今度はキャキャキャと大袈裟に笑って喜んだ。

少々の温度差を感じたけど気に留めることもなく僕は彼女に問うた。


「わざわざ僕のために作ってくれたの?」

「そうだよ。でもこれぐらいたいしたことないよ。それよりさ、開けてみてよ」

鼻息をフンフンと鳴らしながら前のめりになって僕を見つめる彼女。

まるでそれは餌を待つ犬のようだった。

心の中でそんな彼女を笑いながら言われた通り膝の上でランチボックスを開けた。


その瞬間、心の中の笑みが一瞬にして霧散した。

なんと中には、色とりどりのフルーツサンドが並列していたからだ…

手が込んだであろうそれは、活き活きと光を放つようにそこに佇んでいた。

今の彼女と瓜二つだ。


僕は感激のあまりハッと息を飲んでそれを見つめた。

「これ… 君が作ったの…?」

「当たり前じゃん」

言って彼女は鼻の穴を膨らます。

「いや、凄いよ。もはや高校生が持ってくる弁当の域を越えてるよ」

「それは誉め言葉として受け止めていいのかな?」

目尻を垂らし、頬を持ち上げて言う彼女の問いに僕はコクリと頷く。

彼女は更に笑みを深めた。


確かに、前回初めて彼女の弁当を見た時、純粋に凄いと思えた。

でもそれを遥かに上回るクオリティの高いそれが、彼女の手によって生み出されたものだと思うと、意外さがややあって僕の心に驚愕を覚えさせた…

何より、それを平然と学校の昼食として持ってくる彼女のその神経にある種の感銘を受けた…  ほんと、意外な一面だった…


その後、更に気分を良くした彼女の 「食べよっか」 という言葉で僕たちの昼食タイムが始まった。僕は買ってきたパンに手を付けることなく 「いただきます」 と言葉を添えて、彼女が作ってきてくれたフルーツサンドをご相伴にあずかった。


一切れを手に取りのっそりと頬張る。

彼女はそんな僕を見つめたまま 「どうかな?」 と、その瞳を輝かせた。

「うん。美味しい」

口をモグモグさせながら素直に溢れ出た思いを彼女に告げた。

本当に美味しかった。

その言葉を聞いた彼女はまた眩しい笑みを顔一杯に広げ、 「やったー」 と

やや小声で歓喜の声音を奏でた。

そして自らもフルーツサンドを頬張り始めた。


僕はいつも思ってたんだ。 食べ物には味は違えど、美味しさに然したる違いなんてないって…  だからいつも何を食べても同じなんだって思っていた…

それがこだわらない僕の言動の由来だったように思う。


でも今感じている美味しさは、今までとは全く別のものでそれがさも特別な何かであるように、僕の味覚、いや、僕の感覚意識さえも刺激的にさせたのかもしれない。

ひいき目からなのか、お世辞からなのか、それともただ義務的にそう思ったのか、いや違う…  そのどれでもない… 単にそこには本当に美味しいと思える心があったんだ…


もちろん、そんなことはわざわざ彼女には言わないが…

ただ、美味しいと言うその一言で彼女がこれ程喜ぶのだからよほどそこに思いを込めていたんだろうと、勝手ながらもそう解釈した。


だけど、なんだかそう思えば思うほど、無性に照れ臭い思いが胸の奥からせり上がってきた。

恥ずかしさからフルーツサンドを口一杯にほおりこむ。

勢いに余り、口からはみ出したクリームが垂れ、それと同時に何かが膝の上のランチボックスの中に落下した。何だろう…? とその先に視線を滑らせると、なんとそれは キウイ だった… もちろんフルーツの… 側面からではわからなかったが紛れもなくそれはキウイだった…


先程まで様々な感情や思いの渦の中で泳いでいた僕の頭の中に、キウイというワードは完全に抜け落ちていた…

だけどこの時初めて、昨夜の彼女の質問の意図が明るみとなった。

なるほど、そういうことだったのか… しかし一方で、どうして質問をキウイに限定したんだろうという素朴な疑問が浮かんだ…

他にも、イチゴや、桃や、みかんも挟まれているというのに…


まあ、いたって些細なことなので僕は何も言わず付着したクリームを拭うと、また黙々とフルーツサンドを頬張り続けた。


そんなハッピーな彼女と、思いに耽けながらも美味しく頂く僕の今日の昼休みは、以前までとは全くその形を変えた。

だけど僕は僕なりにそれを堪能していたと思う。


そんな最中のことだった。

彼女は突然、またよくわからないことをポロっと口にしたのだ…


「ホントはね? 今日、中庭でお昼したかったんだ…」

「どうして?」

「ほら、前も言ったでしょ? ああいう所でお弁当食べるって何だかピクニックみたいだって。 だから今日はね、晴れること願ってさ、思い切ってこれ作ってきたんだ… ピクニック感増すでしょ? 」


彼女は目を細めて笑う。

ピクニックがどうあるべきで何が良くて何が悪いかなんて、正直僕にはよくわからない。

ただ、どうして彼女はそこまでピクニックにこだわるんだろう…

ふと疑問が過る。


前回も今回も、彼女はそれを本気で願っているように見受けられた。


「そうなんだね。 じゃあ今日はある意味特別だったわけだ…」

疑問を浅はかに問うことはしなかった…

「そうだよ。いつもは普通のお弁当だしね。 フルーツサンドなんて普段作らないから」

矢継ぎ早に彼女は言う。

「それにあれだよ。神木君がピクニックの誘いを無下に断ったから余計に今日張り切ったんだよ。だったら中庭でピクニック感味わおうって… なのに神様はこんな可愛くていい子の願いさえ叶えてくれないんだから…」


彼女は眉尻を下げ、下唇をむうっと突き出した。

いやいやいや… そんな当て付けでものを言われても…

それに、可愛くていい子だなんて自分で言ってるから願いも届かないんだよ。

と、真剣な面持ちで注釈を入れようかと思ったけど、恐らくまた彼女の戯れ言のような気もしたので口を結んだ。


その代わりではないが、僕は悠然とした態度でそれをスルーしてやった。

「でも、普段作らないわりにはとても上手に作れてたよね。君のフルーツサンド」

気にする素振りなく、僕はごく平坦な物言いで言った。


彼女は恥ずかしげに目を歪ませて笑った。

「って、おい、そっちなのか…  いや、まあ、嬉しいんだけどさ、その後の言葉無視しないでよー  わざとやってるでしょー」


嬉しそうな表情なのに、頬を膨らませてふてた仕草を演出する彼女。

何だかそれがものすごくおかしく思えて僕は思わずクスッと声を出して笑ってしまった。


彼女なりの冗談なんだと思う。少しずつ、彼女の冗談というものが分かり始めた。

ひいてはそれが、彼女という人間の色が僕の中で明確になりつつある。 ということを証明しているようだった。

それによくよく考えると彼女と出逢って、僕は一度だってあからさまに笑ったことはなかったように思う。少なくとも彼女の前では…


だから自然と笑ってしまった自分の姿にやや驚きを感じてしまった。

しかし、僕以上に驚いていたのは彼女の方だった。


一瞬、っえ…? と何が起きたか分からないといった表情で、ポカンとだらしなく口を開けていた彼女だが、ふっと事を見据えて 「っお、おお~」 とまあ何とも間抜けな声を放って僕を見つめた。

そして、ニタリと満面の笑みを浮かべた。

だけど、笑ってしまった僕に余計な言及はせず、ただごく自然を装って彼女は会話を続けた。


「まあ、神木君に褒めてもらえたからいっか。本心だよね?」

だから僕も自然に話す。

「本心だよ」

彼女は満足そうに頬を上げた。


そして、数瞬して突然彼女は自分の事をポロリと口にした。


「で、何でこんなのが作れるのかって言うとね? 実は私… パティシエになるのが夢だったんだ」


何の気兼ねもなくサラっと言ったその事実そのものに胸がワタワタと騒ぐ…

もちろん、彼女が初めて自分の事を話したこと自体にも驚きはあった…

でもそれ以上に、その事実やどうして過去形で言ったのか…

驚きと興味そのものが僕の胸を数十倍に膨れ上がらせた…


でも… その思いが言葉になることはなかった…


「そうだったんだ…」

付きまとうはずの疑問だったけど、それは彼女がすぐに解いてくれた。


「うん。でも、もう諦めたんだけどね…」

一つ大きな息を吸ってまた付け加える。

「それにね、高校に入ってからは作るのも辞めちゃったんだ… だから今日は久し振りなの」


うっすらと微笑む彼女の瞳に、初めて見る彼女の切なさがあった…

こういう時、何て言葉を掛ければいいんだろう…


食べる手を止めてソワソワする僕は、結局気の利いたこと一つ言えなかった…


「…」

それでも疑問だけが頭に残る…


彼女はどうしてそれを諦めたんだろう…

僕にしては珍しくその事実に興味があった。


以前彼女は僕に進路の事を語った。

それはまるで諭すかのように。


そんな彼女だからこそ、その夢を断念したことにもきっと、大きな理由があるんだろうと思った。 本当の事はわからない。

ただ… 僕は知りたくても彼女の心に踏み入る勇気も覚悟もなかった…

人を干渉するなんてあり得ない…

ぼくは、グッと思いを飲み込んだ…


だけど彼女は、まるで僕の心を見透かしたように言った。


「どうして? とか聞かないの…?」

ドキッとした… 

僕はやや俯きかげんで軽く息を吐き、そして控え目に答えた…


「人には訊かれたくなことだってあるしさ、僕にもそういうのあるからさ… 

何となく分かるような気もするんだ…」


まるで喉の奥に何かが詰まったように言葉はそこで止まった…

だけどそれが全てだと思う…  確かにその事に多少の興味はある。

それに彼女も僕にそうやって問うということは、多少なりともオープンな所があるのかもしれない。 訊けば答えてくれるだろう。


でも、人の心に踏み入るということは詰まるところ人の心を傷付け、それに伴って自分が傷付くことになるんだ…

そういった臆病な僕の主観がそれを拒んだ…


彼女は意味深に笑った。

その瞳にはもう切なさは潜んでいなかった…


「やっぱり神木君って優しいね。そういう気遣いは凄いと思うな。私なんてズカズカ聞いちゃうタイプだしさ」

「優しさとは違うよ。それなら君の方が優しいよ」

「そうかな?」

「そうだよ。こうやって僕の為に作ってきてくれるんだから君こそ優しい人なんだと思う」


彼女はニンマリ微笑んで、チラリと横目で僕を見た。


「ほんとにそう思ってる?」

「思ってるよ。だから今日は嬉しかったし」

ニタニタと照れるように彼女は笑った。


「なら良かった。でもね、半分は自分がピクニックしたかったからなんだけどね」

「なら僕だって同じようなもんさ」

「そうなの?」


僕は軽く頷いてどうして訊かなかったかを包み隠さずに語っていた。

どうして語ってしまったのかはわからないけど自然と言葉が溢れた…

そして言葉の最後にこう付け加えた…


「だからやっぱり自分を守るためでもあるんだ。そういう臆病さがあるからさ、僕は君に訪ねなかった。優しさとは違うよ…」


囁くように語ると彼女は目を伏せ、思いを忍ばせるような疑問の色を顔一杯に広げた…


「そんなこと思ってたんだ…」

「…」 黙って頷く。

「でもさ、考えたらそれも優しさだよね」

「優しさ…?  これが…?」


あまりにも理解不能な彼女の見解に思わず力なく言葉が漏れる…

一度だってそんなふうに捉えたことはなかった。

優しさだなんてあり得ない…  それは絶対ない…

ことそれに関してだけは自分自身が一番よく分かっているつもりだった。


彼女はのっそり頷くと、真剣な面持ちで僕を視界に入れゆっくりと口を開いた。


「自分が傷付きたくないから人の心に踏み入らない。その思いは確かに自分の為かもしれない。でも一方でさ、相手を傷付けたくないっていう思いもあるんでしょ?」


「うん」

「だったら少なくともその思いは相手の為じゃん」

「…」

やっぱり違うような気がする。

力説する彼女の言葉に僕は渋った表情で首を傾げた。

彼女は ふう と短く細い息を吐く。


「神木君は利己的な優しさ、利他的な優しさって言葉を知ってる?」

「知らないけど何となく意味は分かるよ。で? それがどうしたの?」

「うん。全てが利己的なものならそれは優しさって言えるかわからないけどさ、人ってさ、相手を思う気持ち、つまり利他的な優しさを持ってるわけじゃない? でもさ、逆にそれだけしかない気持ち、無条件の優しさ? みたいなものってほとんどの人は持ってないよね。家族同士ならわかるけど… だから思うんだ。その利他的な優しさの中にもさ、どんな形であっても少しは利己的な優しさあるんだって… それと同じよなことなんじゃないかな…?」


整然と持論を熱く語る彼女の顔が突然キリッと大人びた色を秘める。

ただ、放たれた一つ一つ言葉や、優しさ、という言葉の響きが無機質な色を放って僕の心をやや当惑ぎみにさせた…


沈黙が一拍過ぎる…

僕は深い息を吐いた…


「き、君は小難しい事を言う人なんだね。視点が深すぎるよ…」

彼女は苦笑いを浮かべる…


「でも、何となくでもわかってくれた?」

「ぼんやりとね。でも、あくまでそれは君の考えなんでしょ?」

「そうだよ。人は価値観も考え方も全く違うからね。だから私の考えで言えば神木君の考えは絶対優しさなの」

得意気な顔で彼女はそう言う。


でもそれは杓子定規な考えとまでは言わないにしても結局、彼女自身の物差しで僕を計っているに過ぎなかった。

つまり、 僕の考えを否定できる要素なんて何一つないということだ。

そう思うと自分の考えに更なる確信の念が深まっていくような感覚になる。


ただ、あまりに得意気になって言う彼女とこれ以上の討論を組み交わす必要性も気力も削がれ、僕はただ自然と流れゆく会話に身を委ねることにした。


「なるほどね。じゃあ、僕の為に作ってくれた君の思いと自分がピクニックしたかったからっていう思いも両方優しさの内に入るわけだ… 君の考えだと…」

「そうだね。自分で言うのも恥ずかしいけど…」


目尻に薄いシワを作りうっすらと笑う彼女。

しかし、何かに気が付いたのか不意に僕の顔を覗き込みこう言った。


「あっ、もしかしてそれって見返りみたいなもんじゃん、とか思った?」

「いや、そんなふうには思ってないけど…」


ほんとにそんなふうには思ってもいなかった…

なのに、なにかが彼女を触発させたのか、なにも言ってないのに彼女はまた突然と熱弁を繰り広げた。

ほんとにおかしな子だ…


「でもさ、よくよく考えたらそれも一理あるのかな? そんなの汚れてるって言う人もいるだろうけど、優しさって綺麗事だけでは語れなかったりするしさ。 ほら、自分の言動の意図なんて全部相手に言う人なんていないじゃん。だから思うんだ。 言葉や行動って言ったりやったりする側じゃなくて、受け取ったり感じ取ったりする側に意味の全てが委ねられるんだって。だから人の優しさってある意味複雑だよね。 思いが全て真実になるとは限らない。現実と真実は捉え方を変えればイコールだけど、本音と真実は別ものだから。」


彼女はニッコリ微笑んで僕を見据えた。

僕は彼女を見なかった。


「小さい頃さ、親に何かしてもらう為に機嫌取りみたいなことしたことない?」

「ああ… あるかもしれないけど…」

「私もあるよ。でもそれってある意味見返りでしょ?」

「まあ、確かにそうなのかな…」

「でもいちいち言わないでしょ? 見返りだなんて」

「うん」

「親はどう受け止めてるのかわからないけどさ、結局そういうのがたくさんあるんだと思うな。 見方、捉え方だよね。 まあ、これはちょっと極端だけどね」


何となく聞き流していたはずなのに、彼女が放つ熱い言葉の一つ一つが、いつしか僕の心の奥底にある何かを大きく揺らしていた。

悲痛の苦しみがジワジワと脳裏に蘇る。


その途端、僕は理性を飛ばしたように心の奥底から涌き溢れる思いを漏らしていた…


「人はどうして人に優しくするんだろう…」

口をついて出た言葉は、悠々と彼女の鼓膜を撫でた…


彼女は一瞬驚も、すぐに表情を変えうっすらと微笑んで口を開いた。


「どうして人は人に優しくするのか… 難しいね… その人によるでしょうし。 でも多分だけどその答えって本人の心にしかないんじゃないかな… さっきも言ったけどいろんな優しさがあるよね。それも心次第だよ。 ただ、本でこう書いてる人もいた」


そう前置きして彼女は言葉を継いだ。


「{一つ一つの優しさに意味や理由を見出すのは、さながら小さな星一つ一つに名前をつけるようなものだ}  ってね。 まあ、それもその人の考え方なんでしょうけど」


答えは漠然としていた…

どうしてそんな事を聞いてしまったのか… 

今更ながら後悔だ…


彼女は熱く語って喉が渇いたのか、鞄から水筒を取り出しお茶を口に含んだ。

そして言い足りなかったのかさらに付け加えた。


「これはあくまで私の考えなんだけどね。人は人の心を映す鏡だって言うじゃん? 

だから人に優しくできる人は人からも優しくされるし、逆に人の嫌がる事をする人は人からも嫌われて同じことが自分にも返ってくるんだと思うな。私はやっぱり前者でありたいの。人から思われて、大切にされて、笑いのある明るい環境であってほしいっていつも願ってるんだ。でも、待ってたってそれは叶わない。だから私は心を映す鏡って言葉を信じて人に優しく人を大切にするの。案外そういう人ってたくさんいるんじゃないかな。まあ、捉え方によってはそれも利他的な中の利己的な考えでしょ? でも大切なことだから」


情懐だったんだろうか。

彼女の気迫溢れる言葉の一つ一つにズッシリとした重みを感じた。

ただ、彼女は僕に何かを伝えようと熱意を持って語ってくれたんだろうけど、僕には彼女のような考え方は出来ない。

理解にも至らなかった。


やっぱり彼女とは人間としての濃度が違うんだ。根本的に何かが違う。

でも、彼女の考え方を否定するつもりはなかった。

彼女も言っていたけど人には人の考え方がある。

それに、人には何かしらの信念がある。と以前誰かが言っていた。

そういうものを確立させるのは決して容易ではない… とも。


だからこそその考えにもとずけば、堂々と自分の考えを語った彼女は僕と違って大人なのかもしれない… と思った。


普段バカなことを言っている無邪気で陽気な彼女とは、どこか相容れない姿にも見て取れた。それがもう一つの彼女なんだろう。


多角的に見れば見る程に、彼女という人間の色が幾重にも塗り重ねられていく。

同時にそれは彼女を知るということでもあり、彼女という人間がよくわからなくなる、ということでもあった…


僕は何も答えずただ思いを巡らせる…


そんな沈黙を破るように彼女は極めて何気なくそっと口を開いた。


「一つ訊いてもいいかな?」


その言葉は、ほんと何気ない一言だった…

なのに、思いに耽る僕の心を条件反射のようにたじろがせた…


「ど、どうしたの…?」

思いとは裏腹に心は構えていた…


「神木くんはどうして人の心に踏み入ることが人を傷付けることになる、って思うの?」

虚を突かれたのか、彼女の言葉は強い衝撃を伴って僕の胸を打った…

心がひるんでしまう…


「そ、それは…」

言葉を放った途端喉が裂けるように熱くなり、それ以上の言葉はおろか呼吸さえも喉が拒んだ…


「もしかして、それが一人でいることと何か関係があるの?」


表情が急変した僕の顔を覗き込み、彼女は心配そうに呟く…


僕は何も言えなかった…  むしろ…何も言いたくなかったのかもしれない…

今更ながらどうして僕は彼女にそのことを言ってしまったんだろう…

後悔の念が胸を取り巻いた…


とは言え、僕だけ質問して彼女の問いに答えないのはいささか後味が悪い…

僕は声を振り絞った…


「ご、ごめん…」


振り絞ったはずの声は、結局、そこで止まった…

精一杯だったのかもしれない…


「ううん… 私こそごめんね… 何か変なこと聞いちゃったね…」

彼女は僕の思いを汲み取ったかのようにそう小さく呟いた…


しょんぼりと俯く悪びれた様子の彼女に、なんだか完全に立つ瀬を失ってしまった…

そればかりでなく、臆した僕の心と気まずさが相成って、収束の図り方さえ見えなくなった…


しかし、そうこうしている内に昼休み終了を告げるチャイムが鳴り始めた。

ソワソワした心地悪い空気だっただけに、ほんとそれはタイムリーだったと言える。


僕たちは慌てて片付けをし、急いで階段を駆け下りた。


この数十分の間に僕たちは沢山の話をした。

あまりに話し込んでいたせいもあって、彼女共々全てのフルーツサンドを食べきることは

出来なかったけど、僕たちにとってはきっとそれだけの価値や重みがあったんだと思う。

心に映るのは激動の一時だったかもしれない… でもその中で間違いなく心を和ませてくれる穏やかで心地良い色の風が、僕たちを優しく包み込んでくれていた。


結局、僕は友達かどうかを問うことはできなかった… 

だけどその日の夜、彼女からの電話で僕は全身から勇気を掻き集めて

「僕たちは友達なの?」

と問うてみた。

彼女はケタケタと笑って  「変な質問」 と言って笑っていたけど、ちゃんと答えてくれた。


「私たちは友達だよ。 正真正銘の」


そう、ケロッと。


その言葉は、情熱的な色をまとって僕の心中を駆け回った…

一瞬、過去の悲痛が回顧してにわかに乱調する心の渦が対立したけど、その情熱的な色はそれ以上に心を温めた。


やっぱり訊いてよかったんだ。

そんな確信がこの僕の胸を明光に染めた。

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