第5話

「神木くーん」

一週間後、いつものように中庭にあるベンチでパンを食べていると、突然飾らない柔らかな彼女の声が響いた。驚き、思わずロケットのようにベンチから飛び上がってしまう…

ま、まさか本当にやってくるなんて…

彼女は渡り廊下を逸れ、僕が座るベンチに向かって歩いてきた。

眩しい笑顔だった。

初めて見る彼女の溌剌とした笑顔に、意志とは別のところで胸が独りでに弾んだ。


彼女を初めて見てから今日まで、彼女は一度もその姿を見せなかった。

と言っても取り立てて意識することはなく、そもそも、「また来るね」、と言った彼女の言葉自体を真に受けていたわけではなかった。

それにあの日が極めて異例なだけであり、彼女が姿を現さないことに然して意を留めることもない。

何も変わらない穏やかな日常が取り巻いている。

しかしだ、一方で再び姿を現さないことが彼女の図り事だとするなら、一体あの明言は何だったんだろう…

という疑問に直面していた。加えて、あの稀有な出来事は偶発的に起こった単なる彼女の気まぐれに過ぎなかったのか、はたまた当初懸念した通り僕に偏見を向ける人と結託しからかいに来ただけなのかもしれない…

日常が取り巻く僕の脳内の片隅で、そんな悶々とした懐疑的思考が浮遊霊のように漂っていた…

しかし、今日彼女が姿を見せたことによって少なからず偶発的に起こった単なる彼女の気まぐれではなかったことが証明された。


彼女はここに来ることがさも当然といった毅然さを身にまとい僕の前にやって来た。

学生鞄を肩に掛けている。


「良かったいてくれて。今日はね、一緒にお昼しようと思ってお弁当持ってきたの。いいよね?」

以前は感じなかったが屈託のない口調で言ったその声音は、何だかとても甘かった。

やっぱり彼女を前にすると感覚器官がくるってしまう…


「っあ、うん。別にいいけど友達とお昼してるんじゃなかったの?」

「そんなこと神木くんが気にしなくていいの」

微笑みながらそう言って僕の隣に腰を下ろした。

なんだよ…意味がわからない…


「ああ…そう…」

フフフ…

と意味深に彼女は笑い、鞄の中からピンク色の布に包んだ弁当箱と、水色の水筒を取り出した。


「太陽の下でお弁当食べるって何だかピクニックみたいだね。ワクワクするな〰️」

遠足に来た子供のようなことを言う。

その無邪気さはどこまでも底抜けなのか、いちいち胸が騒ぐ…

何だか抱いていた全ての疑念が一瞬にしてどこ吹く風となった。

目まぐるしい展開だ。

なのに僕は彼女に向き合っていた。


「ピクニック…?」

「そう。ピクニック。だってほらこういう中庭だと緑もあるし空もあるからある意味ピクニックじゃん。」

陽気に言って彼女はニンマリと微笑う。

「考えた事もないよ」

「ダメだよ考えなきゃ」

意味がわからない…

言葉を継ぐ彼女。


「だから思ったんだけどさ、ここって想像してた以上に良いところだよね」

は…?

瞬時に一つの疑問が湧いた。

眉をひそめ視線を彼女に向ける。


「ほんとにそう思ってる?」

「どうして疑うの?」

「だって君も分かってると思うけど、人の注目集めるでしょ…?。ここ…

君は嫌じゃないの…?」

やや控えめに言うも、思いのほか彼女はケロッとした表情だった。


「ああ、そういうことね。確かにそうだと思う。でもね、そんなのってどうでもいい。自分が良いって思ったらそれでいいし、人の視線なんて関係ない」

驚いた。まさにその言葉は僕の意表を突くものだった。

彼女にそんな意識があったなんて…

もしかしたら僕は根本的に彼女を見誤っていたということなのか…

「本気で言ってるの…?」

にわかに信じられなかった…

「本気だよ。嘘は言わない」

そう答えた彼女の目に不思議と嘘は見受けられなかった。

この場所の良さを感じるその観点は、当然僕とは異なる。

しかし、確実に僕と同様の概念を抱いて彼女はここにいる。

となれば、彼女が僕に偏見を向ける一人だなんてことは全くもって皆無である。

そう思うといくぶんの罪悪感が芽生えた…

一ミリでも疑った自分の邪推に対し心中で叱咤する。

そうなると彼女は僕が思っているよりもずっといい人なんじゃないか……そんな思いさえ心中に垣間見える…

「そうだね。つまらないこと訊いたね」

「ううん。それより神木くんも同じ考えなんでしょ?」

言って頬をピクピクさせている。

「もちろん。その点に関しては全て君と同じ考えだよ」

どうして頬をピクピクさせているのかは放置して、僕は力強く断言した。

彼女は目を耀かせた。


「いやー、まさか神木君がピクニックも同感してくれるなんてね。嬉しいなー。。じゃあさ、今度ほんとにピクニック行っちゃう?」

「そうじゃないよ!!..僕が同感してるのは人の視線なんて関係ないってことだよ。ピクニックについてはちょっと僕には理解出来ないし、もし行きたいんなら他の人を誘えば…?」

すげなげに答えると、彼女はふてたように唇を尖らせた。

「冷たーい....ほんと神木君冷たいよ....もっとさ、女の子のハート大切に扱ってよね。無下に扱うなんて酷いよ.....」

言って今度は手の甲を目に擦りつけ泣く仕草を始めた。

どうせまた図りごとだろうと思った。...無視しようかな…

そうも考えたが何となく触れておいた方が良さそうにも思えた。


「嘘泣きだよね…?」

「嘘泣きだよ」

仕草を止めてケロット言った。彼女のくるくる様変わりする表情や感情も、女の子のハートを大切に扱えと言う真意も、無粋な僕には正直わからない。


「まあ、いいや。とにかく他人の目に左右されて不本意に自分を曲げるのはよくないからね。そういう意味では神木君はすごいと思うな。」

あまり褒められた気がしない……。それは恐らく重要なことだからだろう…

だから僕は......「ありがとう」....とだけ彼女に告げた。

彼女は頬を緩めながらコックリ頷くと....「じゃあ食べよっか」....

そう言って弁当箱を開けた。...「いただきまーす」

礼儀正しく手を合わせてゆっくり食べ始めた。


「おいしーい」....と自己賞賛の声が聞こえる。

そんな彼女を横目で見ていた僕もならってパンを食べ始めた。

何となく気になってチラッと彼女の弁当箱に視線を落とす。

思わず目を見開いてしまった。

彼女の弁当は一介の女子高生が作ったとは思えない色鮮やかな物だった。

野菜中心で見るからにヘルシーだ。

思わず声が漏れる…


「君の弁当すごいね…」

「でしょ?」.....まんざらでもなさそうだ…

「毎朝早起きして作ってるんだ。気合い入れてね。」

「弁当作るのに気合いなんているの?」

「いるよー。当たり前じゃん」

誰にとっての当たり前なんだよ…

「他人と比べてどうこうじゃないんだよ。ただね、パッてお弁当開けた時に綺麗だったら嬉しいんだ。だから張り切っちゃうの。」

言って爛々とした瞳で自分の弁当を眺める彼女。


「そうなんだ。で、やっぱり健康のこと考えて作ってるの?」

「もちろん。それが一番だからさ。だから神木君もさ、いつか脱売店しないとね。」

「脱売店?.....売店で買うのを辞めるってこと…?」

「そうだよ。」

「自分で作れって言ってるの…?」

微笑む彼女。

「無理なんでしょ?」

「無理だね」

「じゃあせめてコンビニのサラダセットとかにしなよ。コンビニもクオリティ高いし意外と美味しいんだよ」

「サラダって僕はウサギなの?」

そう言うと彼女はハハハっと小さく笑った。。

「ウサギが食べるサラダよりかは新鮮だけどね。」

「なにそれ……」

また彼女は笑う。

「まあ、考えとくよ。」

おもしろおかしく彼女は言ってるんだろうけど、その言葉の根っこには僕を気に掛ける優しさの色があった。。。なので僕はそう答えた。

ただ、そうだからと言って僕が何かを変えることはないだろう。

そうとは知らず満足げに頷く彼女。

そしてすぐに弁当のおかずを頬張る。


「ところで今日は何を買ったの?」.....と彼女。

「今日?.....カレーパン一つと、クリームパン二つと、焼きそばパン一つだよ」

机の上に並べる感覚で答えていた。

すると、彼女が突然思案げに首を傾げた。

「あれ?....神木君にも好物があるの?」

「っえ?....どういうこと?」

「いや、だってほらクリームパンだけ二つも買ってあるじゃん」

「っあ、それね……意味はないんだ…」

「ん?…どゆこと…??意味ないの…?」

そう言って首を傾げながら苦笑している…

僕はそれを無視する。

「いつもね、無造作にパンを選ぶんだ」

「無造作…?」

「うん。だから選んだ理由なんてないよ」

極めて真面目に答えたつもりなのになぜか彼女はケタケタと笑い始めた。

「やっぱ無造作っておっかし。もしかして私を笑かそうとしてる?」

真面目に言ってるのに少しイラッとした。

「そんなわけないでしょ」

「違うんだ。本当に無造作なの?」

言って鼻の穴をヒクヒクさせる彼女。

「そうだよ。食べれたら何でもいいんだ。あれこれ選んだって意味ないし…」

「だからって無造作にパンを選ぶ人はいないよ。おもしろいね」

「おもしろくはないと思うけど…」

素っ気なく答える。

なのに彼女は何かを閃いたとばかりに明るい光を顔に灯した。

「っあ、でもよく考えてみるとそれって神経衰弱みたいだよね」

高らかに笑う彼女。

は…?…急になに…?意味がわからん…

「神経衰弱…?…トランプ…だよね…?」

「そう。無造作にパンを取ったら二枚のクリームパンを偶然にも引き当てたの」

貼りついた笑みはまるでダイアモンドだ…

なんてめでたいやつなんだ…

矛先のわからないねじ曲がって見える彼女の発想はどう考えたってめでたい…

ただ…ぶっ飛んで見える発想にもそこまで悠然と語られると愚直にも向き合ってしまう…

「てかさ、それを言うならポーカーの方が適した例えだよね?

まあ一枚少ないけど四枚のパンを引いたらクリームパンのワンペアができてた…的な…」

語尾に近付く程に彼女の目が鋭くなり、唇が尖っていった……

その恐ろしさに吸い込まれるようにしだいに僕の発言も掠れていった…

何気ないただの意見なのに…

だんだん自分の発言が愚かにさえ思えてきた……これはまさに洗脳というやつなのだ…

彼女は頬を膨らませてギロッとにらみつけてくる…

拗ねているのは一目瞭然だった…

「ご、ごめん…」

咄嗟に謝ると、一転して彼女はケタケタと笑い始めた…

自分でもおかしく思えたんだろうか…

ひとしきり笑って…「いいよ。気にしないで。意味の無いことを言っただけだから」

そう言った…

そして矢継ぎ早に、「じゃあこの豆腐ハンバーグあげるよ」

突然そんな理論不明なことを言いだし、自分の弁当箱にあるそれに箸を刺した。

おもむろに僕に差し出す。

整理のつけようがない彼女の不明瞭な言動に戸惑ってしまう…

何がじゃあなんだ…整然としない現状と予測の出来ない事態に頭が打ち砕かれそうだ…

とは言え、目の前の現実や彼女自身のその意思を無下にはできそうにもない…

ただ、そうは思えど彼女が口につけた箸を使うなんて億劫以外の何者でもない…

貰うべきなのか、断るべきなのか……その思いの狭間で心が揺れる…

考えの末、僕は掌を差し出しこの上に乗せてくれとばかりに彼女に視線を飛ばす。

すると彼女は、キョトンとした眼を僕の掌に落とし、クスッと笑ってから顔を覗き込んできた。

っえ、なに…?

あっけらかんとしていると彼女は露骨に言った。

「いやーほんと神木君おもしろいね。どうして手を出すの?…お箸で渡してるのに。手、汚れるよ?」

「そ、そう言われても、き、きみの箸を使うわけにはいかないし…」

たじたじと答えると、相反して彼女はくどく笑った。

思いきって僕は言った。

「どうして笑うの?」

「ごめんーん。神木君があまりに真剣に言うもんだからついつい笑っちゃった」

言ってちょこっと舌を出しお茶目に笑った。

僕の返答のどこに真剣に言うこと以外の必要性があったんだろう…

理解に悩む…

彼女はもう一度…「お箸使っていいから」

と言って件のそれを差し出してきた。

芳しくないようにも思う…

しかし僕は躊躇いながらもそれを受け取った。

すると彼女は突然またぶっ飛んだことをさらっと言いのけた…

「私ね、神木君となら間接キスしてもいいんだあ」

はあ……?…全身の血管が沸騰したかのように熱い何かが体中を駆け抜けていった。

「き、君はな、何を言ってるの…?」

理解が追いつかない…

どぎまぎとした感情に苛まれる…

彼女は唇をムッとさせた。

「もう!…いちいち聞き返さないでよ!!…冗談で言っただけなんだから!!」

勢いよくいい放った…

だけどすぐに表情をクルリと一転させ恥ずかしげに笑った。

彼女の言葉を反芻させていた…

冗談…?…そもそもどうしてあんな冗談を言ったんだ…

推考してみるもやはり無粋な僕にはわからない…

どれだけ咀嚼してみてもこの手に関してだけは究極の無知だった…

「とにかく食べて」

そう促されるままに僕は致し方なくそれを頬張った。

心音が激しく鳴った…

彼女は嬉しそうに…「おいしい?」…と問う…

僕は言った。「美味しいよ」…おどおどしながら…

だって、味を感じるどうこう以前に、胸の奥底から動揺の波が激しく打ち寄せていた…

味なんてわかるもんか……バカ正直にそんなことは言わないが…

彼女は…「よかった」…と、ホッとしたような柔らかな笑みを浮かべた。



その日、彼女と僕は連絡先を交換した。

彼女がそれを望んだ。

特に断る理由もなく、「いいけど」…と言ってみたものの、僕はスマホを学校に持って来ない主義だった。

なのでその旨を彼女につげると、「じゃあ明日からは持って来てね」

と言うに事欠いて命令してきた…

その意図するものは、学校でもメールとかしようよ。

という単なる彼女の所望に過ぎなかった。

対極する意思は無かった…

それに、僕がスマホを学校に持って来ないのは使う機会がない…

と言うただその一点の理由からだったのでそういうことならと躊躇なく承諾していた。

自分でもわからない不思議な感覚だった…

僕は教えられた連絡先をちゃんと登録しておこうと思った。

彼女がしつこくそう言うので…



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