セクシャルマイノリティー
昨今、「セクシャルマイノリティー」に対する認知が高まっている。「精神疾患」とみなされていた時代が終わり、一つの個性、多様性の一環として語られ、理解を示される風潮が少しずつ広がっている。
かくいう私も当事者(バイセクシャル)だ。同性愛を主題とした漫画や同性カップルの動画を見ることも好きだし、実体験したこともある。それらの経験を通して色々感じたことがあったので、一個人の目線を記させて頂く。
私は、同性愛者と異性愛者は「好きになる性別」が違うだけで、本質的な差異はないだろうと考えている。人それぞれ好みが違うというごく自然な話で、むやみやたらに特別視するものじゃない。
だが、この「好み」の違いで、日常生活を送るうえで何らかの支障が生じている。差別や偏見のまなざしを向けられ、制度の不備が存在する。これらの「権利」と「尊厳」の剥奪が残され続けている「状況」こそが、大きな課題なのではないか。
正直、私は、同性愛に対し忌避感や嫌悪感を感じること自体は決して「悪い」ことではないと考えている。この概念が世間的に認知され始めてからまだ日が浅いこと、当事者ではない方々からしたら、違和感を感じざるを得ない感覚であることを鑑みているからだ。私にも、「どうしても苦手で受け入れられないな……。」と感じる考え方や価値観がある。それと同じだ。
だが、自身の感覚がすべて正しいと思い込み、相手を同化させようと強要したり、差別するのは違う。主義や感受性を押し付け、人間性を否定する最低の行為だ。
趣味や娯楽、仕事、物の捉え方や価値観といった様々な事柄においても共通して言えることだろう。
また、同性愛を描いた作品内に、当事者に対し第三者が「気持ち悪い」と陰口をたたいたり、直接言い放つ場面が散見されることがある。
依然として差別が撤回されていない状況を伝える有効な表現方法ではあるのだが、セクシャルマイノリティーであることを自覚した人が、「世間」から「気持ちが悪い存在」だとみなされていると、自身を責める契機を作ってしまうケースがありそうだと、個人的には危惧している。登場人物が障壁を乗り越え結ばれても、違和感や虚脱感がざらざらと残り続けてしまいそうだ。
勿論、前述した意見はフィクションと現実を混同している側面があるし、性的マイノリティの人だけが同性愛を扱った作品を見る訳ではないという指摘もあるだろう。最もだ。
現在、セクシュアルマイノリティーに関する制度や教育方針は、慎重な議論が必要として、方向性が定まりきっていないのが実情なのだという。この状況を、どのように打開してゆくべきか。当事者として、何が出来るのか。
社会通念は従うものではない。変えるものだ。
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