主観論

『自己肯定感』と検索すると、多種多様な記事が乱立する。

肯定感が高い人、低い人の特徴、自己肯定感が低いことで生じる弊害が紹介され、向上させるための方法論が提示されている。


自己肯定感が低いことで、優柔不断になり、他者に依存したり承認欲求が生じる。チャレンジをするにあたっても、いかんせん行動力を発揮することが出来ない。一方、自己肯定感が高い人は、他者のことを尊重できるし主体性が高くなる。自分や物事を肯定的に見ることが出来るらしい。


身も蓋もないこと言うと、私は『自己肯定感』という言葉が嫌いだ。

これまで生きてきた人生を踏みにじられ、「こっちの方が断然いいよ!元気になれるよ!自分らしく生きようよ!ね!」と押し付けられているように感じる。


勿論、自己肯定感を上げることで、心理的に荒波が立つことが少なくなるのは紛れもない事実だろう。確実に生きやすくなる。前述の文言が、自分のことを責め続けている人に対し、「思い詰めなくてもいいよ、辛いでしょ。」と諫めてくれる、優しさから放たれた言葉であることもよく解る。


それでも、私は漠然とした違和感を感じてしまう。


染みついた行動、思考パターンを変換することが、まるで出来ない自分を無条件で肯定することがどれだけ難しいか。他者よりも自分を優先する生き方が、そんなに良い生き方なのか。

当事者が生きてきた軌跡を見ず、自己肯定感が低いという事実だけに注視し、言葉をかけてくるような人には絶対に分からない。


少なくとも私は、自分を「否定する」ことが、状況を客観的に見直し、出来ない部分を補ってゆく貴重な機会だった。両親からの否定的な言葉を真理だと信じ、周囲との「違い」を捉え、足りない部分を補ってゆけるよう常に行動、言動を修正していた。

自己肯定感が低いからこそ、より善い人間になろうと動き出すことが出来たのだ。悪い影響も多大に存在しているが、一方で、「添慎」という人間を構築する上では無くてはならない要素だったとも思う。


他の人も同じだ! というつもりは毛頭ない。あくまで個人の見解だ。「自己肯定感」という感覚に共感し、少しでも自己肯定感を上げよう、辛い思いから抜け出そうと邁進し続けている方もいらっしゃるだろう。彼らを否定するつもりは全くない。


文章を記しているうちに、なぜこの言葉が嫌いなのか、何となく理由がつかめた。

確かに、自己肯定感が低いことは生きづらさに直結する。精神状態も安定しなくなるし、弊害も多い。だが、無理して修正することもまた、同質の辛さが生じうる。


一枚板では語れない感覚を考え続けることが、ひいては「自分のため」になるのではないか。私はそう思う。





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