風呂に居た蜘蛛

パソコンに向かい続けた疲れを癒し、明日に備えるために風呂場に入ると、手足が針金のように伸びた蜘蛛がいた。


どこかの部屋に潜伏していたのが紛れ込んでしまったのだろう。熱湯や洗剤に触れたら死んでしまうかもしれない……。シャワーを浴びるのが申し訳なくなったが、生憎早朝に用事が入ってしまっている。仕方ない、ごめんよと念じつつ、熱湯や洗剤がかからないよう配慮しながら入浴を開始する。


体を洗っている間も、蜘蛛は器用に壁を伝い悠々と歩き続けていた。だが、突然、比較的高い位置から滑り、すぐそばの壁沿いにまで落ちてきたのだ。再び天井付近へと進もうとするが、湿気が充満し壁に水滴がついていた影響で、何度もつるつると滑り、うまく登れていなかった。


私はなんだか寂しい気持ちになった。それまで何も支障なく生きていたのに、突然世界を侵食する何かが現れ、必死に抵抗している。


蜘蛛にとって、私は彼の安寧を脅かした侵略者以外の何物でもなかったのだろう。思えば、虫たちにとって、人間は憎悪をむき出しに襲い掛かってくる、狂気的な侵略者そのものだ。ゴキブリを例にすると、何気なく、ひょこっと姿を見せただけで一様に悲鳴を上げ、否応もなく毒ガスが散布される。更に、罠があちらこちらに散布され、絶命させようと目論んでいる。何気なく聞き流していることだが、改めて考えてみると凄惨で、生物の業を感じずにはいられない。


とはいえ……。シャンプーを洗い流しながら、私は思考を飛躍させる。


元来、生物は弱肉強食、適応者生存の理に基づき繫栄してきた。あらゆる亡骸の上に生命が成り立っている。恐ろしさを内包する進化を地球が選択したのが運の尽きなのか。矮小な我々に抗う術はない、何があるか分からない、理不尽さを孕んだ世界に生きている。あらゆる生命に残酷性が伴っているのが、「自然そのもの」なのではないか。


そんなの嫌じゃ。とんでもない考えに辟易としながら洗顔を終え、壁を見た。クモは壁についた水滴を飲んでいた。せめて壁に上り、熱湯が流れる危険地帯から逃げ出せるようにと、私はタオルで水滴をぬぐい、天井に戻れるよう活路を作った。


だが、クモが風呂から出ることを望んでいなかったのかも、水を沢山飲みたかったのかもしれないという考えが不意に浮かんできた。もしそうだとしたら、相当おせっかいなことをしてしまった。悪いことをした。


少し後悔しつつ、水を飲む。何が正解か不正解か分からない。だが、人間は考える葦だ、一歩ずつ答えを模索し続けるしかないのだろう。

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