第5話 平松文具店

 その日。どんよりと厚い雲に覆われた空は、徐々に暗さを増していく。夏の照りつけるような日差しは、雲の上で暫しの散歩を楽しんでいるだった。薄暗い森の中で、木々の間からは蝉の鳴く声が周囲を覆い、蒸せかえるような湿度が辺りに立ち込めている。


 細い山道を張り裂けそうなぐらい、けたたましいエンジン音を立てながら下る一台の黄色い自動車。社内の時計は、ちょうど十時のデジタル表示だった。エアコンの効きが悪いのか、両方の窓を全開にして、森の新鮮な空気を取り入れながら、滑走していく。貞平と宅間は黙ったまま、生温い風を受けて、目の前の風景が後ろへ流される様子を虚ろに眺めていた。


 ようやく、氷上山の入り口まで辿り着き、国道へと進路を取った。と、遺体発見現場から距離を置いた事で、何処か心持ち安堵したのだろう。宅間がゆっくりと口を開いた。


「それにしても・・。なんか嫌な雰囲気でしたね・・。ああ、いえ、中井さん達じゃなくって・・あの森の雰囲気と言うか・・。空が曇っていた所為もあると思うのですが、鬱蒼と茂った木々と落ち葉が散乱して、暗い感じでしたね。それに、まとわり付くような湿度もそうですし、なんかお地蔵さんとかもあって、異様な感じというか・・」


運転をしている貞平が眉を少し上に上げ、チラリと宅間を見て


「お前も感じたか?あの異様な感じ。俺が昔、住んで居た頃は広瀬神社で、お祭りとかあってな。夜でも、もう少し明るかったイメージだったんだが・・。まあ、一時期さ、一部の団体が林業自体を税金の無駄遣いとか、自然破壊の元凶だとか言うようなこともあって、止めた事もあったからな。実際には、多くなり過ぎた木を切ったり、枝を切り落として風通しをする剪定(せんてい)して、山や森を守るのが仕事なんだけど、何ともやり切れんな」


と、投げやり的に嘆きながら言った。


「なるほど、まあ、あの暗さからすると、理由として、それもあると思います。ただ、自分は、なんか、こう・・何とも言えない重圧感が襲ってくるといいますか・・。とにかく、両肩にのしかかってくるように重くなりましたよ」


「やっぱり、そうか・・。さっきから、おまえの両肩に、なんか乗っているぞ」


「えっ?!貞平さん、分かるんですか?」


「ああ、分かるよ。Tシャツとワイシャツが乗っているからな。今は、左の肩にシートベルトも乗っている。はははっ・・」


宅間が呆れた感じ口をへの字に曲げて


「それは、普通ですよ!そうじゃなくて、こう、肩を抑えつけられる感じですよ」


と両肩を抑えて、強い口調で言った。笑っていた貞平が、真顔に戻ると


「まあ、冗談だよ。確かに、森の暗さや湿度の高さだけでは、なかったな。何者かが、我々を見ているような気配というのか・・そういうのがあった」


何処か、思い当たる節があるのか、考えながら言った。宅間は大きく頷いている。


「やはり、あの森には何かが、あるんでしょうね・・。ところで、さっきの話なんですが、大きな蝙蝠の話が出たじゃないですか?なんで、途中で止めちゃったんです?目撃した時の状況等の詳細が聞けたとおもうのですが・・」


「ああ、それか・・。なあ、宅間は人間と同じ大きさの蝙蝠がいると思うか?」


「いえ・・少なくとも日本には生息していないと思いますが・・」


「そうだろう?と言うことは、何者かが演じたとするのが正しい。だが、わざわざ、そんな手間をかける意味は何かだ」


「えっ?意味ですか?」


「そう、意味があるから、そんなものを作り出して演じているわけだ」


「うーん・・」


宅間は難しい顔を浮かべ、腕組みをして考えている。貞平が眉一つ動かさず、冷静に言う。


「ここで重要なのは、その蝙蝠は人間である可能性は限りなく低いということだ」

「えっ?!じゃあ、誰なんです?おっとっ!」


車が信号で急停車したのだ。貞平は口元を緩めて、笑みを作る。


「悪い悪い・・。田舎道だからな。まあ、こういうこともあるさ。なあ、今朝のニュースで言っていただろう?鋭利な針金のようなもので首を絞められて、吊るされていたと」


「ええ、確かに・・。妙にまわりくどい言い方でしたね。でも、それは、つまり?」


「そう、鋭利な針金なんて言う方は普通はしない。と、すれば、警察としては、犯人しか知り得ない情報として、敢えてそんな風に発表したと思うぜ。まあ、名探偵の俺が思うに、おそらく有刺鉄線で首を絞められたんじゃないかとな」


「貞平さんは、探偵じゃなくて、刑事ですけどね」


「そこは食いつかなくていいんだよ!」


貞平が左肘で宅間の右腕を突く。


「いててっ・・。しかしですよ。そんなもので、わざわざ首を絞めて、吊るすなんて大掛かりな事をしたんでじょうか?しかも、首に巻き付いていたとすれば、遺体はかなり酷い事になっていたと思いますが・・」


と、ここまで話して、宅間は、その状況を想像したのか、思わず身震いした。貞平は信号が青に変わったことを確認し、左へとハンドルを切ると、平松文具店のある国道へと入っていった。


「うーん・・。そうした理由は、まだ分からん。おそらく、何かしらの意図はあるはずだが、単純な物取りや通り魔的な犯行とは違うだろうな」


宅間が大きく頷いている。貞平が続ける。


「それと吊るしている以上、締められる力の他に、体重も掛かって、かなり首に食い込んだと思うぞ。ただな、その有刺鉄線こそが、今回の謎を解く鍵になると俺は思っている」


「なるほど・・。それじゃ、大きな蝙蝠もそれが?」


「まあ、そいつは、俺らが、でしゃばる仕事じゃないさ。彼らの仕事だからな。おいっ。そろそろ平松文具店に着くぞ」


 貞平が前方を顎でしゃくった。やがて、昨日見た店の佇(たたず)まいが二人の目に飛び込んでくる。店は、平屋の木造建築をアルミサッシなどの間取りを改築した造りとなっている。


 ゆっくりと近づいた黄色い車が、国道に面した平松文具店の前に停車した。どんよりと曇った空は、より濃さを増して、湿度を上げていく。辺りには、田園が広がており、虫の鳴く声と稲と雑草の匂いが混ざりあって、周囲に立ち込めている。二人は車を降りると、思わず、店の前で眉をひそめた。


 そう、昨日、来た時と同じように、巻き取り式の日除けが店の前に突き出したままになっているのだが、入り口のアルミサッシの引き戸の扉とカーテンが閉まっていたからだ。二人は、外に置いてあるアイスクリームを入れる業務用の冷凍庫を確認すると、南京錠によって施錠されている。


「おかしいなぁ。まだ、寝ているのかなぁ?」


 貞平は首をかしげながら、腕時計を確認すると、時計の針は十時半を指している。思い切って、二人で表の引き戸を引いてみたが、建て付けの悪いサッシがガタガタと揺れるだけで、店の奥から人の気配は感じられなかった。しびれを切らした貞平が引き戸を叩きながら、叫んだ。


「おーいっ!平松のおばちゃん。生きているかぁ~?おーいっ!」


 貞平は冗談交じりに叫んでみたいたものの表情は必死で、何度も引き戸を叩いた。だが、中からの応答はない。そう、店全体からは、不気味な静けさが漂っているのだ。貞平は、何か嫌な感覚が背筋を通って、襲ってくるのを感じた。直感。今までに、犯罪事件に携わり、身に着けてきた勘が不気味な影を構築させるのだ。


「おいっ!宅間!裏へ回ろう」


「あっ!はいっ!」


 宅間もそれを感じ取り、慌てて裏口へと走った。長屋を改築して、住居と一対になっていた平松文具店は、貞平たちは、通り過ぎる際に間取りを確認したが、窓の数と広さから推測するに、店の奥には3部屋ある事が分かった。


 そして、店の裏には、広い田園が広がっており、おそらく店の土地と区分けするためなのだろう、店側の土地には背丈が180センチほどの造木が並んで立っており、後ろの田園は覆い隠されているのだ。


と、裏口に回った二人は、見た光景に我が目を疑った。裏口の銀色に光るアルミ仕様の扉が汚れていたのだ。二人は直感する。ただの汚れではない。そう、ドアノブから下の石畳に至るまで、どす黒く濁った大量の血液が付着しているではないか。


「おいっ!急げっ!」


「はいっ!」


 貞平はハンカチを取り出して、血液に触らないよう、慎重にドアノブに巻き付けて回してみた。だが、予想に反して、こちらもしっかりと施錠されているようだった。そんなことで、ガッカリしている余裕はなかった。


「よしっ!こうなれば、引っ張るぞっ!」


「ああっ!ちょっと・・待ってください!」


 宅間も自分のシャツを脱いで、そのハンカチに結び付ける。そして、二人の力でドアを引っ張ってみたが、頑丈なドアはガタガタと揺れるばかりだった。


「ぬぉぉっー!もう一回だっ!」


「はいっ!行きますよっー!せーのっ!」


二人が渾身の力を込めて、引っ張ろうとした、次の瞬間だった。


「ああ・・。た・・助けてぇぇ・・」


小さなつぶやくような、しわがれた声が聞こえたのだ。二人はギョッとして立ち止まった。


「はぁぁ・・。た・・助け・・てぇぇ・・」


「何処だっ!誰かいるのかっ!」


二人は耳を澄ますと、辺りを見渡して、その声の主を探した。


「はぁはぁ・・。こ・・こ・・」


 その声は、田園の方から聞こえたのではないか。二人は造木を避けて、その後ろにある田園へと回った。そして、そのあまりの惨状に言葉を失った。


 平松文具店と田園には五十センチぐらいの段差があるのだが、その田園側に平松のおばちゃんが横たわっていたのだ。だが、全身から、その細い身からは考えられないような大量の血を流して横たわるおばちゃんの無残な姿。それは、全身に巻き付けられた鋭い有刺鉄線が、おばちゃんの肉をえぐり、突き刺した結果だったのだ。


慌ててかけ寄る貞平と宅間。貞平が田園の水に浸かったおばちゃんの頭を少しだけ起こした。


「大丈夫か?おばちゃん・・」


「ああっ・・タ・・タカ坊かいっ?」


「ああ、そうだ。タカ坊だ。すぐ、病院に連れていくからな」


貞平が宅間に目配せするまでもなく、宅間は救急に電話を掛けていた。


「どうして、こんな事に・・。誰がやったんだ?」


「た・・タカ坊・・ゆ・・幽霊は・・本当に・・いるんだよ・・」


「分かった。もういい。とにかく、病院に行こう」


 ゆっくりと頷きながら、おばちゃんは静かに目を閉じた。


 ちょうど、その時、厚い雨雲からゆっくりと小さな雨が降ってきた。田園に波紋が広がる。蒸し暑い空気が冷たい雨に流されて、虫たちの音も止んだ。遠くの空では、雷鳴が轟き始めた。ゆっくりと救急車のサイレンが聞こえてくる。小粒の雨が大粒に変わる頃、涙に濡れた空は、もう一つの物語を紡ごうとしていた。

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