第3話 悪魔の惨劇

 暗黒の闇。月も星の光も無い鬱蒼した森の中。遠くに聞こえる川のせせらぎと時折、木々の間を吹き抜ける風が葉を揺らして、無防備な人間の恐怖心を煽りたてる。


 ただ、唯一、夏の夜を彩るのは、涼しげな虫の鳴き声だけが生き物の存在感を示している。今や、ミックのライトと三台の自転車のライトの光だけが少年たちにとって、唯一、心の拠り所であった。


 三人の少年は、へたるように膝をついて、その場で放心状態になっていた。額には大量の脂汗が滲み、小刻みに肩が震えている。心臓の音が、森に木霊するのではないかと言うぐらいの大きな音に聞こえていた。


 暫くの間、お互いに目も合わさず、口もきけなかった。やっと心臓の音が落ち着いてきたのか、最初にミックが震える手で、携帯電話を取り出すと、絞り出すような声で両親へと連絡をとった。春ちゃんもカン坊もそれに倣(なら)って、それぞれの親に連絡した。


 三人の少年が見つけた物。それは、高さ十メートルはあるであろう杉の木の七分目ほどに位置していた。丁度、大きな木と木の中間にぶら下がっており、両手首、そして、首に食い込むように有刺鉄線が巻きつけられていた。


 遠くから見たら、まるで処刑されたキリストのように、両腕をそれぞれの木に引っ張り上げられているかのように見えただろう。そして、おそらく、首を吊らされた時にかなり力強く、締め付けられたのか、顔色はどす黒く濁り、褐色を失っていた。頬はこけ、目の玉は飛び出しそうになっている。


 スズランの刺繍をあしらった白いブラウスには、おびただしい量の血痕が付着し、濃いブラウンのパンツは体液で汚れていた。それを時折、夏の暑い風が悪戯をするかのように、前後に揺らしているのだから、性質(たち)が悪い。


 少年たちは、もう、その物体に目を向ける気力はなかった。逃げるに、逃げれない激しい恐怖が、三人の体の自由を奪い、その場に張り付けにしていた。ただの好奇心から氷上山に登って来たものの見てはいけないものを見てしまった恐怖と後悔の念が心の中を巡り続けていく。腰を抜かすという現象を初めて体験した三人にとって、一刻も早く安堵できる人間に会いたいとそう願うばかりしかなかった。


 と、その時だった。警察車両のサイレンが、何台分か、揃って徐々に近づいてくる。絶望的な脱力感に打ちひしがれていた少年たちの目にも希望の光が射していくようだ。


 やがて、サイレンが止むと、明るい光と回転する赤い光が接近してくるのが見える。三台のパトカーが少年たちの前で止まった時、心配そうな親たちが慌てて下りてくると、少年たちに駆け寄った。絶望の淵から助け出されたように、無邪気に泣きながら、親たちにすがる少年たち。その間、パトカー達は一旦、広瀬神社の駐車場でUターンしてから戻ってきた。


 パトカーから制服の警官が二人と半そでのYシャツとスラックスを履いた刑事らしき人間が二人下りてきた。四人の警察官は、それぞれの懐中電灯に灯を点すと、森の中へと光を移動させていく。


 やがて、あの忌まわしき遺体に焦点を定めると四つの光が、その輪郭をはっきりと浮かび上がらせた。だが、そのあまりの惨状を見た刹那、四人の警察官の顔が一瞬にして顔面蒼白になり、渋面となった。親たちも思わず遺体に視線を合わせたが、その酷さに、即座に目を背けるしかなかった。


 暫く警察官が遺体を見上げていたが、不意に白いYシャツと紺色のズボンを履いた背の高い一人の刑事が、やさしい眼差しをして、少年たちに向き直って話かけた。


「君たち。今日は、相当怖い目にあったな。俺たちが、来たからもう大丈夫だ。さあ、今日は早く帰って休んだ方がいいな。さっき、お母さんたちには訊いたんだけど・・。また、明日、詳しく話を聞かせてもらえるかな?」


 諭すように言われた少年たちは、唇を震わせながら、涙を溜めた目で刑事を見上げた。既に、話す気力を失い、ただゆっくりと頷く三人。それを悟った刑事は、二人の警察官を呼んだ。


「ちょっと、君たち。悪いんだが、彼らを家まで、送ってやってくれないか?」


「あっ、はい、分かりました。それじゃ、行きましょうか」


 二人の警察官が少年たちと親御さんをパトカーに先導していく。それを横目で追いながら、若い刑事が背の高い刑事に話かけた。


「と言うことは、我々は、ここでお留守番と言うことですね。中井さん」


「そりゃ、そうだろう。俺たちの仕事は、この仏さんを無事に成仏させる事だ。他の犠牲者を出さずに、こんな惨いことをした犯人を逮捕する。それが仕事だぞ。高松。とにかく、鑑識来るまで遺体周辺を調べてみよう」


「そうですね。ただ、森の静けさが余計に不気味さを醸し出してますけど、仕方ないですよね」


「まあ、そう言うな。仏さんも、こんな寂しいところで、吊るされたままでは、成仏できんだろうよ」


 三人の少年とそれぞれの家族を二台のパトカーに乗せると、ゆっくりと発進させた。静かに坂道を下っていくパトカーだったが、当然と言うべきなのか、誰ひとりとして、後を振り返ろうとしなかった。背筋を凍らす程のおぞましい恐怖と言う現実がそこにあったからだ。


 残されたのは、中井刑事と若い高松刑事。空を覆った雲が月や星の光を遮り、甲高い虫の音の合唱と遠くの川のせせらぎが、辺りを寂しげに漂っている。二人は、懐中電灯を灯すと、再び木の上を見上げた。そのおぞましい遺体の主は、推定六十歳以上の婦人のように、二人の目には映った。


「うーむっ・・。着衣から推測するに、年配の女性のようだな。それにしても酷いな」


「ええ、なんでここまでする必要があったんでしょうか?僕が広瀬町に生まれて、二十七年になりますが、こんな事件聞いた事も、見た事もないですよ」


「確かに、そうだよなぁ。俺も、刑事になって二十年になるが、こんなのは初めてだよ。しかも、有刺鉄線を使って、被害者の首をここまでキツく締め上げるなんて聞いたことがない」


 中井刑事が自分の喉ぼとけを手の側面で軽く叩く仕草をする。


「確かに、相当な力で締め付けてますね。顏全体がどす黒く充血して、全体的に膨張して、目玉が飛び出しそうになってますよ。これじゃあ、直ぐに誰だか特定できないんじゃないですかね?」


「うーむ・・。確かに、これだけ顔が膨張していると判別不能かもな。しかし、首を吊るだけなら、ともかく、遺体を木と木の間に、わざわざ吊るすなんて手間のかかることをしたのか・・。全く分からんな」


 中井刑事が口元に手を当てて、考え込んでいる。高松刑事が遺体を見上げながら

「犯人が何かのメッセージを伝えるためなのか。もしくは、何かの寓話や民族神話になぞられて行ったなどが考えられますが・・。どうなんでしょうね」


と、思いついたままを言った。中井刑事も考えながら、思い当たるままに言う。


「あるいは、犯罪美学に乗っ取ったような芸術肌の仕業なのか。愉快犯なのか?」


「それも有り得ますね」


と、高松刑事が頷いたところで、懐中電灯の光を揺らしながら、遺体を調べていた中井刑事が妙なものを発見する。


「うーん・・んっ?なんだ?あれっ?」


「えっ?!なんですか?」


「ほら、あれだよ。右の手に、何か握っているように見えないか?」


 中井刑事が懐中電灯の光で遺体の右手を指した。


「ああ、確かに何か握ってますね。何か、こう白い・・そう、封筒みたいな感じですね。握り潰しているので、はっきりと断定できませんが・・」


「そう言えば、封筒や便せんのような紙類に見えるな。まあ、あとで救急と鑑識が来て遺体を下ろしてからだな、調べるのは・・」


高松刑事もしきりに遺体を懐中電灯で照らしながら、調べている。


「ええ、そうですね。えーっと・・他には・・ああ、左手の中指に指輪をはめてますね。仏さんは、結婚していなかったんでしょうか?」


「どうだろな。指輪なんて、その場、状況に応じて付け替えれるんだから、それだけでは、はっきりと断定できんだろうな。ほら、良くあるだろう。不倫する時だけ独身になるって」


「ああ、なるほど、結婚指輪を外すことも、おしゃれ用の指輪もありますね。いやはや・・。それと、あとは・・足元は靴下だけですね。靴は何処へ行ったんでしょうか?」


 二人は懐中電灯で遺体の下を撫でまわすように照らしてみる。だが、特に変わったものは見つからないようだった。だが、その時、二人が遺体の下まで駈け寄っていたら、事件は簡単に終末を迎えていたかもしれない。


「何も無いな。何処か、別の場所で殺害されて、吊るされた可能性もあるな」

「そうですね・・。それとも自殺してから、あの状態にされた可能性もありますが・・」


「まあ、今のところ何の確証も得れないんだがな・・。んっ?!なんだっ!あれはっ!」


 突然、中井刑事が叫んだ。高松刑事が必死で中井刑事の視線の先を追う。


「えっ!ど、どれですか?」


「ほら、遺体の右手首に巻き付いた有刺鉄線が伸びて、あの木に巻き付けてあるだろう。丁度、引っ張られた右腕の肘辺りだよ。なんか薄暗い黄色い物が二つ見えないか?」


「ああっ、確かに、薄い黄色いものが見えますね・・。でも、何ですかねぇ。あの後ろ・・。なんか、変ですね。そう言えば、後ろの木が全然、見えない気がするんですけど・・」


 二人の刑事は、懐中電灯をその黄色い物体に焦点を合わせると、目をよく凝らした。


 すると、突然、バサバサっと言う大きな音を立てて、その物体が動いたのだ。それは、全身真っ黒で薄い黄色い目が光る巨大な蝙蝠のような姿をしていた。そして、大きく羽根を広げて羽ばたくようにし、宙を舞ったかと思うと、次々に木と木の間を優雅に飛び移っていくのだ。その身のこなしは、まるでサーカスのブランコ曲芸を見ているかのようだった。


「なっ・・・!」


「うぉっ・・!」


 二人は、反射的に二、三歩後ろに飛び退くと、それを避けるように体を反らした。その黒い影は、次々に木と木の間を忍者の如く、飛びながら、二人の目の前から遠くへと去っていった。中井刑事と高松刑事が呆気にとられていた、その時間はおおよそ十秒だっただろうか。


「おいっ・・なんだ、あれっ?!」


「わ、分かりません。は、初めて見ましたよ・・あんな素早いもの」


 二人は生唾を一息に飲み込むと、その黒い影が消えた場所を凝視していた。思わす背筋に悪寒が走り、全身が武者震いに震えている。それは、まさに悪魔との遭遇だったのだ。あの四十五年前の忌まわしき記憶の延長上に、その悪魔が存在することなど、中井刑事と高松刑事には、思いもよらなかったのである。

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