第9話 旅へ

 セカティアは旅の日記をつけていました。その理由はわたしにあります。彼女に孤独だと思われたことを覚えているでしょうか。そこからの派生の話です。彼女はいつか自分は忘れられると思ったらしいのです。忘れるつもりなどないというのに。それでわたしがいつでも思い出せるように日々を書き残してくれたのです。

 ただ彼女は、教育を受けられる立場ではありませんでした。なので、文字を読めません。ましてや書くことなどできるはずもありません。なので、文字のひとつひとつを丁寧に教え、単語の綴りを覚えてもらうのには難儀しました。

 それに文字を書けるようになっても、紙はとても高価です。書くための本を買うのにとても苦労しました。秘境のお宝をそれこそ字の通り身を削りながら集めた記憶があります。


 苦労しましたが、彼女の優しい気遣いに感謝と温かな気持ちでいっぱいです。千年も経た今でさえ彼女との思い出は色褪せません。あの日記がなくとも永遠に彼女の存在を忘れないと、錯覚してしまいそうです。

 ですが、わたしと不死を与えた神以外に永遠など存在しません。セカティアも、不死とされるヘカティアさんも、カルアさんも、いつかその痕跡の全てが消え去ります。


 早々にカルアさんに返事を伝えなければいけません。しかし、動けないまま三日も経っています。嘘偽りなく言います。足がいまだに重たいです。むしろそれが全身に伝わり悪化しています。体を覆うように拘束具をつけられました。四肢や頭に鉛玉を垂らされています。

 墓標を杖代わりにして起き上がることはできます。しかし、杖を無くしたら自立して立てなくなってしまいます。へたり込んでしまい、気がついたら墓標にもたれかかっていました。

 あまりにも平生から外れた自身の状態に、ほんの一瞬だけ希望が見えました。しかし、これも結局は時間と共に消えてしまう症状です。


 この症状の原因はなんとなく掴めています。しかし、原因を排除しようとこの輪郭のない不安に形を与えたら、ここを離れられなくなるでしょう。これは不死の力だけでは消せないものです。時間の力を必要とします。

 不死の力はわたしの精神をかつての形から歪めています。それは確実です。しかし、どれだけ形が歪もうと、軸となる部分は歪みません。

 例えば、料理で肉にどれだけ味付けをしようとも、衣をつけたり、形を変えようとも、肉であることに変わりはないのと同じです。この例えはうまくありませんね。

 ともあれ、かつてよりここも歪めばどれほど救われることかと思っていました。本当に今更ながらセカティアの大きさを思い知りました。


「セカティア。やはりわたしは女々しいようです。はてしないほどの年月を生きてきたというのに、全くもって心は幼い少女のままです。流石にそれは言い過ぎかもしれません。ですが、やはりあなたが恋しい限りです。別にあなたことが好きというわけではありませんよ。友人として恋しいのです。ただそれだけです」


「そういえば、そろそろあなたの好きなリコが実る季節です。ほら、今そこにも。ちょうどあなたの墓標の近くにあるということは、あなたの家族が遠い昔に植えてくれたものでしょう。まだ少し青いですが、じきにオレンジ色ぽくなり、シャリシャリとした食感とみずみずしく甘い味わいを楽しめるようになりますよ。あなたは少し酸っぱさを感じる方が好きと言っていましたね。わたしは甘さだけの方が好きですよ。ただ今は少し酸っぱい方が好きかもしれません」


「日記をどこに隠していたのですか? あなたが息を引き取ってから家中を探し回りました。屋根裏から床下まで、しかし見つかりませんでしたよ。あなたが残してくれた思い出を置いていくことになったときは、少々気持ちが落ち込んだものです」


 眠るセカティアから返事が来るとは期待していません。わたしの言葉は年寄りの独り言のようなものです。特に深い意味を持ちません。

 ですが、言葉はスラスラと次々に出ていきます。口達者な詩人にでもなったような気分です。せっかくです。詩人でも目指してみましょうか。


「空を彩る数多の星々よりも美しい君よ。川を渡り、華やかなる天の神の国に誘われし君よ。わたしはいつ川に辿り着けるのか、神に尋ねておくれ。そしてそこへ行けるのか、神に尋ねておくれ。そして願わくはわたしたちに刹那の安らぎを」


 ……詩人は向いていません。どこからともなく無性に湧いてくる気恥ずかしさを隠せずにはいられません。誰かに聞かれていたら、それこそ身悶えずにはいられないでしょう。


 いい加減、会いに行きましょう。もしかしたら、わたしの助けなしに旅に出てしまうかもしれません。日記による助言があっても彼女の旅はそう長くは持たないでしょう。

 経験のない知識だけで世界は渡れないのです。知識があればないものよりも賢く動けるかもしれません。ですが、経験がなくては想定外の事態に対処できません。なので多少なりそれぞれの地理に慣れるまでガイドを必要とします。

 得た経験を人は共有し、お互いに学び合います。それこそ生物として人が獲得した武器とも言えるでしょう。ですので、避けてばかりはいられません。


 しかし、墓標はとても強い引力を持っています。この地表にいるすべてのものが、地面に貼り付けられているように、わたしも墓標に貼り付けにされています。

 人や生物はこの力に抗い、己の力で立ち上がり自身の望む場所に行けるのだと、わたしは知っています。過去、多くの偉人とされる人物は進んでいました。彼らを見習って歩かねばなりません。


 それでも離れられません。本当にわかっています。脳はここから立ち去りたいと叫んでいます。

 足は進むことを拒絶します。本当に離れたくないのです。もういっそのこと、ここで密やかに過ごしてしまいましょう。ここの居心地も案外悪くありません。優しい木々が気遣って、雨風や日の光から守ってくれます。動物たちも悪さをしません。多少虫たちが体を上るなどの悪戯をしてきますが、皆いい子です。さぁ静かに目を閉じましょう。


 木々たちは雨風を凌いでくれます。しかし、荒波を立てんとするとても大きな嵐は彼らの力を持ってしても凌げず、わたしの場所まで通してしまいます。決してその根で大地を抱くものたちに妨げられても挫けることを知らない嵐。


「なかなか返事を持ってこないから、衛兵に捕まったんじゃないかって心配してたのに、こんなところで何してるの!」


 大きなリュックを背負って、カンカンと怒りを露わにしています。その姿、どうしてもセカティアの被ってしまいます。かつての彼女も、わたしが約束を破ったり、自分の身を傷つけたり、本当に些細な出来事でカンカンと怒りを露わにしたものです。


「こんなところというものではありませんよ。ここはかつての墓場で、あなたの目の前にご先祖様がいるんですよ。しかも日記を書いた人物が」


「知ってるわよ! そんなのは。日記に古い墓場のことについて書いてあったから気になって調べたのよ。ねぇだからこそあなたはここで何をしているの? ご先祖さまの墓の前で一体何をしようというの?」


 彼女の瞳は堅牢な芯があるようで、とてもまっすぐです。弟の死から立ち直ったセカティアも同様の瞳をしていました。やはりどうしても彼女をセカティアと重ねてしまいます。


「何もしようとしていません。言ってしまえばただ無気力なのです。足は鉛がついたように重く、心は我々が地面に縛り付けられているように彼女の墓標に貼り付けられ、唯一自由である理性は既に説得を諦めています。答えを返さずに、惰性に身を委ねるわたしに失望しましたか?」


 間違いなく失望するでしょう。好奇心のままに進む彼女は、惰性で歩みを止めるわたしを対等と扱うわけがありません。ましてや尊敬することなどありはしないでしょう。ことあるごとに止まるわたしを尊敬すると言ってくれたのはセカティアだけです。


「失望するも何も、私はあなたを全くもって知らない。ただご先祖さまの日記にある姿のあなたしか知らない。でもわかったこともあるの。あなたは不死だけど紛れもなく人で、私たちと同じ」


「その理由は、人を愛し、また悲しむことができるからですか?」


 セカティアからも似たようなことを言われました。わたしは誰よりも人らしい人であると。不死の怪物ではないと。化け物、化け物と罵られることが多く、またそれに慣れてしまっていました。なのでそう言われたときと、なかなか混乱したものです。

 彼女の考えはわたしの混乱をひどく深めるばかりでした。しかし、今では案外的を射ていると思っています。ですからわたしは自分の大切な部分を守るために、この墓標にいたのです。


「あなたは本当にセカティアのようですね。初めて会ったときの耳たぶを触る仕草から、その奔放さに、考え方まで。あなたを見ているとわたしの大事な部分が侵食されそうです」


「そんなに似てるんだ。私とご先祖さまは。あなたの記憶を蝕むほどに。だから私が夢を語ったときに、あなたは怖じけたように後退りしていたのね。自分の中のご先祖さまの夢が私の夢とすり替わる予感がして」


 彼女がセカティアと似ていなければ、このような状態に陥ることはありませんでした。それこそ今頃はふたりで野生動物を狩り、食べていたでしょう。

 しかし、彼女はあまりにも似ているのです。思い出の中の存在がセカティアなのか、カルアさんなのか、分からなくなってしまうほどに。


 わけがわからないと思われるかもしれません。ですがじきにわからなくなるのです。今はもちろん大丈夫です。将来、その保証はあるのでしょうか。

 例えば、幼い頃の知り合いに双子がいるとします。そして兄と弟は基本的に同じ行動を好むものとします。二十歳ぐらいになって、この二人を思い出したとき、はたして区別はつきますか。全くもって差別点の少ない人間の区別はつくのでしょうか。

 時代で判断するにも、数千年などやがてくる数万年のまえには多少の誤差、チリのようなものです。

 カルアさんの影響で、セカティアを失うことを恐れています。この感覚は若さとともに無くしたと思っていました。


「なら、あなたのために日記を残してあげる。白紙の本を買って、ご先祖さまがしたみたいにあなたのための本を作ってあげる。それにご先祖さまの日記も複製してあげる。そうすれば混ざらないでしょ」


「ですが、その本もいつかは朽ちます。混ざってしまいます。わたしが生きる永久の時の前では、どのようなものも朽ちてしまいます。そしてあなた方との記憶も朽ちるのです」


「なら、私の子供が日記をまた複製する。そしてその子供が、またその子供が。わたしたち一族は日記を使ってあなたの記憶を繋げてあげる。ほら見て、千年近くもたったのに私は朽ちずにあなたの前にいる。だから繋いでいけば朽ちない」


「ですが、紙などをずっと得られる保証はありません。それに子孫にそのような枷をつけるのは気が引けます」


「紙を得られないのなら作ればいい。インクも作ればいい。これから旅に出るのだからそこで学べばいいの。それに子供達は日記を枷とは思わない。だって楽しい世界の旅を読みながら、少しずつ書いていくだけじゃない。私からしたら苦痛でもなんでもない。それにご先祖さまもそういうのが好きだったんじゃない? きっと一族特有のものよ。もう、まどろっこしいのは嫌い! ほら行く」


 セカティアのときも無理やり引っ張り出されました。親御さんが心配すると、諦めるように説得しました。結局は今のように強引に引きずられて旅に出たのです。

 正直、抵抗せずに引きずられていますが、日記の件などについて納得していません。


「離してください。わたしはどこにも行きたくないのです。泣きますよ」


「私には案内人がいるの。可能な限り協力してあげるから諦めて。それじゃあまずは海に行くわよ。昔商人が見せてくれた珊瑚なんていう石を見に行くわよ」


「あれでも彼らは生き物ですよ。あと海は南の方角です。我々の進んでいる方角とは反対にあります」


「やっぱりあなたが必要ね。なにごとも先人の知恵があれば怖くないわ!」


 先ほどの件を納得していません。ですが、セカティアと同じ彼女に何かを言っても意味はないでしょう。時代の流れに身を任せるように流されましょう。それに、彼女のことが心配で仕方ありません。

 セカティア、今回の旅はとても波乱に満ちていそうです。わたしも日記をつけるとしましょう。そう今日は記念すべき旅の出発日であること。彼女が太陽に向かって一直線に進み、ずっと引きずられたことをひとまず大地に刻んでおきましょう。

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