シータ・カイリを探せ 2

 研鑽地区の中央にある研究棟の一室、広い浴槽がぽつりと置かれただけのそこでルサルカはいつもの水浴びをしていた。

 塩水よりも臭いのきつい海水がはなつ潮の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、ひと時の懐古に浸っていると、ふいににゅっとオオカミの顔が壁から生えてきた。


 きょろきょろと室内を見回してうなだれると、すぐに引っ込もうとする。


「オオカミの見た目をしていても一人の男だと思っていたのだけど、実は頭の中身まで獣なのかしら」


 くすくすと笑いながら水をかきまぜて遊んでいる半人魚の言葉にローボは耳を伏せた。苦い顔をした頭の続きが壁の中から音もなく出てきて、しまいにはばつが悪そうにそっぽを向いている獣人がそこに立っていた。


 不思議なことに、ローボの背後には通ってきたはずの入り口もなければ穴もない。一部だけ抜きぬけになっていて、壁と同じ模様の布がかけられているということもなかった。


 一体どうやって入り口のない壁から部屋に入ってきたのか。ルサルカは不思議そうにしてはいるものの、特に問いただす様子もなくただ変わらない笑みを浮かべていた。


「……その、ごめんなさい」


 耳も尻尾もシュンとうなだれさせて子どものようになったローボに笑みを深くしながら、ルサルカは浴槽のふちにかけた腕にあごをのせた。

 よくよく見てみれば、腕にところどころ生えていたうろこの数が減っているような気がしなくもない。


「いいわよ、今日は気分がすっごくいいから。無断で部屋に入ったあげく何も言わず出ていこうとしたことも、許可なく私の水浴びを見たことも許してあげるわ」


 本当に機嫌がいいのだろう。声が明らかに弾んでいる。

 

「それで、一体何をしていたのかしら? 珍しくその力を使ってまで」


「あー、その、ちょっとシータ先生を探しててな」


「シータ? ……あぁ、あの学者ね」


 物憂げ、というよりは何かを気にしているかのようなルサルカの様子に首をかしげる。


 古代遺跡関連の研究をしているシータと〈人魚症候群〉を患っているルサルカは基本的に接点がないはずだ。なのになぜ医学などの研究をしている学者のことを話す時と同じように暗い顔になるのだろうか。


「あの学者を探してどうするつもり?」


「そりゃあウルに会わせてやるんだよ。あの学者先生ならあいつの話を聞いてやれるかもしれないし、知ってることもあるかもしれないしさ。そしたらあいつも少しは」


「……ローボ、あなたって本当に可哀想な子ね」


 心底憐れむような目を向けられて面食らう。なぜそんな風に見られなければならないのか本気で理解できず、ローボは軽くうなり声をあげた。


「俺は、可哀想なんかじゃない」


「いいえ、ラックもナギも、あの新入りの子も可哀想だけど、あなたが一番可哀想な子。これは私からの忠告。あの学者にあの子を合わせるのはやめなさい。傷つくのはあなただけじゃないのよ」


 海色の瞳に水底の陰りがさす。どこまでも果てがない海の底に引きずり込むような声がローボの耳にまとわりついた。


「あんたが学者先生たちのこと好きじゃないのは知ってるけどさ、あんまそういうのはよくないと思うぜ」


 顔をしかめ、牙をむきながらかみつくように吐き捨てたローボはそのまま部屋を出ていった。


 残されたルサルカは浴槽の中に身を沈める。

 きっと、彼は知らないのだ。あの学者と呼ばれる別の何かが自分たちをどう見ているのかなど。

 

「あぁ、哀れだわ」


 ローボも、それに巻き込まれるあの子も。

 水の中でこぼれた言葉は水泡と共に水面に浮かんで消えた。


 ルサルカに捕まったせいで無為な時間を過ごしてしまったローボは少なからず焦っていた。足取りは荒々しく、周囲を見回す目に宿る光は鋭い。珍しく威圧感満載な様子に道行く学者たちも珍しそうな顔をしながら通り過ぎていく。


 もともと野獣の顔をしているのだ。普段は温和というか子犬のような空気を醸し出しているおかげか遠巻きにされることはなかったが、荒々しい気をまとった獣に誰が好意的に声をかけるというのだろうか。


 言葉もなく奇異の視線だけをよこして通り過ぎていく学者たちに言葉にできない寒い何かを感じながら、ローボは次のあてがどこかにないかと探していた。

 その胸中は小さな竜巻にかき回されていた。


「……哀れみなんか、いらないんだよ」


 ざらついた言葉を吐き出して空を睨みつける。フッと息を吐いて肩の力を無理やりにでも抜くと、尻尾を軽く打ち払った。


 早くシータを見つけ出してウルと会う時間を作ってもらわなければ。

 未だ強い風が吹き抜ける心を抱えながらローボは駆け出した。





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