外れものたち 3

 研鑽地区の奥まった建物の中央になみなみと塩水がたたえられた浴槽がある。その中に浸かったまま、ルサルカは聞こえてくる阿鼻叫喚に耳を傾けていた。


 大方、またあの下品な女が命をもてあそんだに違いない。あぁ反吐が出る。罪なき命をもてあそび、無残な姿へ帰ることの何が知識の研鑽なのか。


「ねぇ、あなたもそう思わない?」


「……なにが」


 部屋の隅、日もあたらない暗い場所に一人の少年が膝を抱えてうずくまっている。


 体のところどころにあるうろこがルサルカとおそろいな爬虫類の目を持つラックは、気だるげにしながらも何に同意を求めているのかを問う。

 浴槽のふちに腕を組みながらルサルカは陰鬱に笑った。


「あの下品なマッドは呪い殺されればいいなって話よ」


「……それは、喜ぶだけなんじゃないか」


 無気力そのものな声は心底どうでもよさげだったが、言っていること自体はおそらく間違いではない。

 確かにそうかもしれない、とルサルカもうなずく。呪い殺される程度ではあの変態が悔しがったり苦しんだりする姿は思い浮かばない。


「ナギが可哀想だわ。あんな変態で品性のかけらもない猪のお目付け役だなんて。本当に、可哀そう」


 足に絡まる水草のように絡みつくような声。ラックはそれを肯定も否定もせずに黙って聞いていた。


「ローボも可哀想。醜く生まれただけで親に捨てられて、学者たちに弄り回されて。今も好き勝手に働かされて。何より自分が可哀想だと気づいていないことが本当に可哀そう」


 それからも誰が可哀想、何が可哀想と続けられていく。

 憐れみのこもった言葉のはずなのに、そこに心底相手を案じるような気配はない。あるのは薄暗い水底に引き込むかのような絡みつく情念だけ。


 己自身にもその情念を絡みつかせながらひたすら相手を憐れむ姿にこそ、憐れみを覚えてラックは陰鬱な気分になった。

 どうでもいいと思いたいが、どうでもいいと思わせてくれない。心底面倒だ。


「あなたも可哀想ね、ラック。厄災ノ種ケヲ・メカだなんて呼ばれて、欲しくもない幸運に恵まれて。好きで生まれたわけじゃないのにね」


 水音が大きく跳ねて、濡れた肌の音が静寂を破る。


 体が徐々に魚へ変じていくという〈人魚症候群〉を患っている少女のむき出しの肢体は鱗に覆われ、皮膚はぬめっているように見える。

 特に進行がひどい足はかろうじてヒトの形を保っているものの、おそらく歩くたびに激痛が走っているはずだ。


 ルサルカが一糸まとわぬ裸体をてらいもなくさらけ出しているというのに、ラックは反応らしき反応もしない。

 近づいてくるなりかけの人魚をただぼんやりと見上げているだけ。


 長い髪が海藻のように肌にまとわりついてきわどいところを隠しているが、一歩踏み出すたびにきわどいところが見えそうになっている。

 健康的な男であればだれであれ少なからず興奮を覚えるだろう光景だ。


 実際、彼女はそうしてこの部屋に入ってくるものを誘惑する趣味があった。

 が、ラックには通じない。


 裸体だからどうした。自分だって服を脱げば裸になる。水浴びをしていたルサルカが裸なのは当然だし、それを見たところで特に何も言うこともなければすることもない。

 それが彼の考えであり、何より彼は女に誘われて快楽を味わうという幸せを受け入れたくはなかった。


「女が恥を忍んで誘惑してるのに、つれないんじゃない?」


 ラックの上に馬乗りになったルサルカが蠱惑的に笑う。重力に従って垂れ下がった髪が二人の顔を覆った。

 手を取って己の胸元に引き寄せる。まだうろこに覆われていない柔らかな肌の感触に、初めてラックの表情がはっきりとした嫌悪を示す。


「……襲ってほしいのか?」


「あら、可哀そうな子を慰めたいだけよ」


 冷たい凍った目が初めて自分の目を見たことに震えながらルサルカは甘い声を流し込む。


「何もかも忘れて、私という女におぼれればいい。幸運も、厄災ノ種ケヲ・メカも、男女の交わりには関係ないわ。大丈夫、私はあなたを愛してあげる」


「魚に欲情する趣味はない」


「まぁ、ひどい」


 するり、と身を引き離しながらルサルカは笑った。ラックはただ痴態をさらしている少女を見上げるだけだった。


 体についた塩水を洗い流し、衣服を身にまとったルサルカは椅子に腰かけて一息ついていた。

 この〈人魚症候群〉の厄介な点は、体が魚になることだけではなく塩水に一定時間浸かり続けなければならないことだ。


 これを怠ると全身が激痛にさいなまれることになり、乾燥した肌がひび割れて出血することもある。

 塩水では余計にひび割れが広がるのではないか、乾燥するのではないかということで真水に浸かっていた時期もあったのだが、塩水の方が効果があることが分かってからは常に塩水に浸かるようにしている。


 このことについて学者たちの意見はかなり分かれているらしく、真相の究明はまだまだ先になりそうだ。


 車輪のついた変わった椅子に腰かけながら浴槽の水が抜けていくのをぼんやりと見やる。


 魚になりかけの足では長距離を移動することもできない。せいぜいが浴槽からラックのいた場所、つまり部屋の端までの一直線の距離が限界だ。

 また、浴槽を掃除するだけの時間たっていることもできないため、使った浴槽の掃除は別の誰かにしてもらうのが常だった。

 

「ねぇ、ラック。私を部屋まで送って」


 車椅子の車輪を軽くつつきながらねだってみる。別に自分で車輪を回して移動することもできるのだが、つかれるのでやりたくない。


 浴槽の掃除をしていたラックは泡に塗れた手を掲げる。

 待て、ということなのか拒否するということなのかいまいち判断が付けられない返しだったが、ルサルカは上機嫌で待つことにしたようだった。


 掃除を終えたラックはにこにこと笑って自分を待っている少女にため息をついた。なぜこんなわけの分からない少女に気に入られてしまったのか。

 幸運によってもたらされたとは思えないからこそ付き合っているが、そうでなければわざわざ言うことを聞く義理もない。


「部屋まで送ってくださいな、トカゲ王子」


「……仰せのままに。魚姫」


 嬉しくもないだろう呼び名にくすくすと笑うルサルカ。

 やはり、どうしてもその心が理解しがたく深くため息をついた。自分が押すことを考慮されて嫌に頑丈につくられた取っ手を手に持ち、軽く押すと車輪が軽い音を立てて回りだす。


 小さな幸運を引き起こしながらラックは天文台の施設を通り過ぎていく。流れていく景色を見ながら、終始ルサルカは楽しげに笑っていた。






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