異常であって異常でない 1

 ウルは自分に与えられた部屋の中で呆然と立ち尽くしていた。


 自分の常識はことごとくローボに通じず、ルガ・エッカンという医術士でもある学者にあり得ないモノであると断言された。それが示す現実は重く押しつぶされるような錯覚を覚える。


 トワギワ、おそらく現代で言うヒト以外の文明を持つ種は存在せず、自分のような存在も否定されることは何となくわかった。


 山を支配し管理する山の王がいないならば、自在に浮き上がり飛ぶ空の人もおらず、美しく惑わす人魚たちの歌もないのだろう。


 そして、かつての知識や事象のほとんどが失われ忘れられているのだろう。


 泥沼の中に沈み込んでいくような心地がする。


 空の青さ。

 草花を揺らす風。

 流れる水の音。

 命の息吹。


 そのすべてがウルの知識や記憶と寸分変わらずにここにあるというのに、肝心の自分だけが世界に取り残されたような心細さ。


 透明な石に貫かれた己の手を見下ろす。確かにこの石は生えたのではなく埋め込まれたものだが、それが生命活動や運動能力に支障をきたすはずがないことを知っている。

 そして、ここの学者たちにも理解できるはずだ。なのに、ルガという学者はそれを否定した。


 そんなものは知らない。と

 

「……夢なら、いいのに」


 彼らが〈始まりの神殿〉と呼ぶあの場所から運び出され、目覚めたことや、遥かな時の果てに巡り合えた同胞のことは単純にうれしかった。

 これから先にもきっと更なる出会いがあるのだろう。そう思うと胸が躍る。胸を裂く痛みこそあれどそれを厭うことなどありえない。


 けれど、悪い夢だと思ってしまいたい。自分はまだあの場所で眠っていて、この身のうちにある混沌のかけらが見せる可能性の一つ、ありもしない悪夢なのだと思えたらどれだけいいだろうか。


 備え付けられたベッドに横たわりながら、こみあげあふれ出るものを抑え込むように枕に顔を押し付けた。窓の外で星が瞬き始めていた。



 霊峰アストラルの山頂近くにつくられた平地のへりに麗人が座っている。月が星の光を飲みこむ夜空を見上げながら、この学問都市アストラルを支配する使徒はうっそりと笑っていた。


「あぁ、間もなくだ。間もなく、私の願いは叶う」


 世界に改革を。

 愛し子らに祝福を。

 そして、その先に―――。

 届かぬ星に手を伸ばしながらくつりと笑った青い瞳に深い闇が踊っていた。

 




 外れものたちのための住居の一階部分、共有ロビーに置かれた布と綿に包まれた椅子に身を沈めてローボは天井を見上げていた。


「……泣いてたな」


 目を閉じれば、大きく揺れていた陰った赤い金の瞳が浮かんでくる。


 毛皮に覆われた自分の体。

 縦にのびた顔と頭の上についている毛におおわれた耳。

 腰のあたりから生えている尻尾。


 そのすべて、自分自身を否定されたあの瞬間。地面がなくなったような、土砂降りの雨の中に放り込まれたようなあの冷え冷えとした感覚はいつまでもぬぐい切れずにこびりついている。


 常識が通じない気味の悪さ、知らぬものを語られる怖さはまだしっかりと記憶に刻まれている。しかし、それを共感が上回っていた。

 

「ねぇねぇローボ君、どうしたの? 元気ないね。悩みがあるなら聞かせてよ! ノミがわいちゃった? 草を間違って食べちゃった? あ、それともとうとう獣の本能が目覚めて人を食べたくなったとか? だったらアタシを食べてもいいんだよ」


 ニコニコと失礼なことを言いまくるトゥーラを力なく睨みつける。そのそばに黒い角を持つ青年が見えないことに首を傾げた。


「……あんたが一人なのは珍しいな」

 

「んー? あぁ、ナギ君はお片付けに付き合わされてるんだよ。可哀そうにねぇ。……あ、今のルサルカ君っぽくなかった?」


「ぜんぜん。あんたは本気で思ってないだろ」


 目を見開いて硬直したトゥーラはゆっくりと穏やかに目を細めた。慈しみのこもった視線を受けてローボは目をそらす。


「それで、キミはなぜそんなに打ちひしがれているのかな?」


「別に。あんたには関係な……。なぁ、後片付けと始末書とお説教は今日で終わりか?」


「うん、そうだよ。お説教は一昨日に終わってるし、片付けと始末書とかいろいろな雑事は今日終わる予定」


「なら―――」


 何を思いついたのか、ローボは椅子に預けていた体を起こして真剣な目でトゥーラへ一つの頼みごとを口にした。





 研鑽地区の外れ、今は木っ端になった木材が寄せ集められているだけの〈トゥーラの研究所〉跡。そこでトゥーラとナギは、突然底なしの渓谷に叩き落とされたような気分を味わっていた。


 目の前にいるのはつい先日古代の遺跡から見つかった遺物と思われる謎の生物。見慣れぬものではあっても、決して針を飲み込んだような、足元が急になくなるような心地になるはずもない。


「う、く……ぁ」


「なに、これぇ。こんな……なんで、こんなに」


 だというのに、2人は突然訪れた衝撃に滅多打ちにされていた。


 頭と体の一部を貫く透明な石、肩口がガバリと空いた緩やかな服、球体と棒を組み合わせたような体。


 多くの矛盾と異質さをそなえたそれを見ているだけだというのに、どうしようもなく心が沸き立ち痛みをうったえる。


 透明な角をはやしたシカがゆっくりと二人に顔を近づけた。


「……初めまして。どうか、この出会いがよきものであることを共に祈ってください」


「ウル、それ以上近づかない方がいいぞ」


 さらに一歩近づこうとしたウルを制止して、ローボは顔から出るものすべてを垂れ流している変態学者を見やった。


 隣で顔を伏せ、身を震わせながらうめいているナギは困惑と混乱の中にいるようだが、この常識知らずは違う。

 最大限に見開いた目をらんらんと輝かせ、己を突如襲ったわけのわからぬ衝撃すら興味深そうに分析し始めている。


 正直、同じものを体験したローボとしては異常というか、信じられない気持ちでいっぱいだ。


 本能といっても過言ではない程の圧倒的で衝動的なあれにのまれるでもなく、混乱するでもなくただ己の在り方を貫くさまは見事だと言ってもいいだろう。

 それが常人であればの話だが。


 ウルがキョトンしているのを見て、とりあえず自分が今どういう状況にあるのかを分からせるためにトゥーラを指し示す。


「……うわぁ」


 思わず、といった様子で顔を歪ませる様子にローボはウルの感性がまともで良かったと心底思った。

 




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