6. 骨、マリーシア、不老不死

「この葬式は坊主、お前のために開かれてるんだ」


 突然、横に立っている男性が口を開いた。

 係員の呼びかけで施設の中にいた人たちが集まって来たところだった。

 集まった人たちの年齢は老年の人から、僕と同じぐらいの人まで様々だったが、全員が男であることと、赤いネクタイの男性と同じような、殺伐とした冷たい雰囲気を漂わせていることは共通していた。


「どういうことですか?」


 僕の質問に男性は答えない。じっと、目の前の扉を睨みつけたまま動かない。今の言葉はただの僕の幻聴だったのではないか、と疑いそうになるほど、何事もなかったかのように立っている。


 僕がもう一度質問を重ねようと、口を開いたところで目の前の扉が開いた。

 係員に中へ入るよう促される。

 促されるまま部屋に入ると、白い壁に囲まれたその部屋の雰囲気に飲まれそうになった。白い間接照明が部屋全体を柔らかく照らしているが、逆にそれが厳かなこの部屋の空気を、より強調しているように思えた。


 部屋の中央には人が一人横たわれるほどの台車が置かれている。実際に数十分ほど前までは人が横たわっていたのだろうが、今は見る影もない。ただ白く小さな物が散らばっているだけだ。


 係員に特殊な箸を渡され、台車の前に立っても、まだどこか夢を見ているような気がした。目の前の小さな白い塊が、あのお婆ちゃんの、人間の、最後の姿なんて何か趣味の悪い冗談を聞かされている気分だった。


 係員の説明もろくに入ってこないまま、収骨は始まった。

 大抵は二人一組になって骨を箸で運ぶらしい。この場に知り合いもいない僕のペアは、赤いネクタイの男性になった。周りの人達もただ黙々と作業をこなすかのように機械的に収骨は進んでいく。涙を流す人も、嗚咽を漏らす人も、僕を含めて誰もいない。みんな、無表情だ。


 台車の上にあるのが、残り一つになると、皆手を止め、喪主である赤いネクタイの男性を見つめる。


 ここは喉仏で、最後に故人と最も深い関係にあった人が拾うのだという。

 僕も一歩その場から下がって、その男性を見ていた。


 しかし、男性は少し間を置き、こちらに目を向けながら「おい」と声を上げた。


「お前が拾え」

「え?」


 思わず、呆けたような声が口を衝いた。男の視線はまっすぐ僕を射抜いている。何故、僕がここで選抜されるのか、一切の理由はわからない。


「いいから、拾え」


 有無を言わさぬ男性の態度に、僕は訳もわからぬまま前へ一歩踏み出し、震える箸でその喉仏を挟む。


 僕の緊張はこれまでの人生で、最も高まっていた。

 見知らぬ人たちに囲まれ、初めての葬式に参列している。朝からずっと移動してきた疲労感もあったのかもしれない。


 きっと、いろいろなことが重なったのだろう。


 僕の箸が台車の上を抜け、壺の上へ重なろうとした時、手元が滑った。

 箸で挟んでいたはずの喉仏は、そのまま重力の影響を一身に受け、落下していく。


「あ」思わず声が出た。


 人生において、後にも先にもこの時以上に、時を止めたいと思ったことはない。

 しかし、喉仏はそのまま床に落ち、空虚な音を立てた。


 一瞬の沈黙の間、僕の頭の中は真っ白になっていた。大切な場面での失敗はこれまで何度も経験してきたが、今回ばかりは取り返しがつかない。全身から冷たい汗が噴き出す。


 しかし、そんな沈黙を破ったのはあの男性だった。


 男性はこの光景を見て、小さく笑ったのだ。

 鈴虫の鳴き声にもかき消されそうな小さな笑い声だったが、この部屋の中ではよく響いた。今回はきっと幻聴などではない、そしてその後に起こったこともきっと、幻覚ではない。


 その男性は床に転がった喉仏を素手で無造作に拾い上げると、その喉仏を壺へ向かって、まるでボールを扱うかのように放り投げた。

 その放物線が僕の目には、やけにゆっくりと映った。

 喉仏は、そのまま吸い込まれるように壺の中へ入ると、再び軽い音が部屋の中に響く。


「これで終わりだ」


 男性がそう言うと、誰も何も言うことなく、ただ黙って、部屋から出ていく。

 僕は呆然とその場に立ち尽くしていた。







「どういうことですか、それ」


 困惑した顔で僕の話を聞いていた賀川青年もさすがにといった様子で口を挟む。


「これが僕の、骨に関する思い出です」

 嘘は言っていない。

 これが、僕の小さい頃に起きた、骨に関する思い出の全貌だ。


「真相も何も、わからないままじゃないですか」


 賀川青年は泣きそうな顔でそう言う。当然だ。これだけ長い話を真剣に聞いて、結局オチも何もなく終わったとなれば、記者の立場からすれば泣きたくもなるだろう。


「きっと、現実はそんなものですよ」


 なぜ、あれだけボロボロになったお婆ちゃんが生きていたのか、

 あの男性は何者だったのか、

 男性の言葉の真意はなんだったのか。

 真相は僕にもわからない。


「ただ」僕は続ける。

「ただ、あの骨は偽物だったんじゃないかって、僕は思うんです」


 先日、母親が亡くなり、今度は僕が喪主として葬儀を執り行った。

 当然、その時も収骨を行ったのだが、あのお婆ちゃんの時とは、箸から伝わってくる感触や重さ、脆さが違っていた。あのお婆ちゃんの骨は、もっとしっかりとした質量と密度があった。


「賀川館長から聞いた話ですけど、骨のレプリカって、結構簡単に作れるらしいですね」


 あの男性もレプリカだと知っていたから、放り投げるような真似をしたのではないか。


「じゃあ、お婆ちゃんは亡くなってなかったってことですか?」

 訝しむような賀川青年の視線を、僕は笑顔で受け止めるしかない。


「まあ、そうですね。もちろん、僕の妄想でしかないですけど」


 僕はしっかりと、賀川青年の目を見る。


「あのお婆ちゃんは不老不死だったんじゃないかなって」


「不老不死?」

 賀川青年の目は、さらに冷え込んでいく。


「ほら、『不老不死の人間が生物学上の確率では5人いる』って」

 電車内で見た文章は、心のどこかで信じていた僕の考えを肯定してくれているような気がした。


「そう考えたら辻褄が合うとは思いませんか?」


「なんですかそれ……」

 ため息まじりにそう呟く賀川青年の顔を見て、僕は苦笑する。

 正直に言うと、僕はただこの話を誰かに聞いてもらいたかっただけなのかもしれない。


 荒唐無稽だけど、もしかしたらと思える少しの希望が飾られたこの話を。


「せっかく、日本のマリーシア王のルーツを聞けると思ったのに」


 賀川青年が不満そうに呟いた言葉に、僕は耳を疑う。

「マリーシア王って、それこそなんですか」


「世間じゃ、そう呼ばれてますよね。良い意味でも、悪い意味でも」


 マリーシアとはポルトガル語で「ずる賢さ」を意味する言葉だ。

 僕が生業としているサッカーでは「機転が利く」プレーのことを指したりするが、一方でアンスポーツマン的なプレーに対してもマリーシアという言葉が使われることも多い。


 大袈裟に転んで審判を欺く、いわゆるシミュレーションを得意とする僕に使われるときはおそらく後者の意味合いが強い。


「まあ、それでチームを勝利に導いているんですから、僕は全然良いと思いますけどね。当然シミュレーションだけが評価されているわけでもないでしょうし」


 僕に対する肯定的な意見は、当然ながら少数派だ。しかし、意外にもここにいる賀川青年はその少数派に属しているようだった。


「その骨折だって、チームに貢献した結果じゃないですか」


「僕を嫌っている選手に派手に転ばされたことを貢献と言えるなら、監督の肩を揉むことだってチームへの貢献になっちゃいますよ」


 もしかしたら、この青年は僕のファンなのではないか、そんな自惚れが湧いてくる。息子にせがまれた賀川館長が仕方なくPR活動の一環として、僕をここ呼んだのではないか。


「それに、僕のプレーのルーツなら、もう話しましたよ」


 僕の言葉を聞いて、賀川青年は「え」と目を丸くする。「どこでそんなことを」


 僕はそんな賀川青年の様子を見て、微笑みながら答える。

「判官贔屓って言葉、知ってますか?」








 博物館を出ると、すでに外の雨は止んでいた。

 空の雲は蓄えた鬱憤を発散し終わったらしく、いつの間にか姿を消している。茜色の夕焼けが背中を照らし、僕の影を細長く伸ばしていた。


 駅まで送っていくという賀川さんの申し出を断り、僕は松葉杖をゆっくり動かす。今日はなんだか歩いて帰りたい気分になったのだ。


 駅まではそれなりの距離があったが、思い出を回顧しながら歩くにはやや短い。夢中で歩いているうちに、いつの間にか、駅前の大通りに入っていたようだった。

 帰宅ラッシュで賑わう大通りを人の波に逆らいながら歩く。松葉杖をついて歩くサッカーのトッププレイヤーを誰も気にしていない。

 その時、目に付くものがあった。

 前から歩いてくる三人組の女性、一人は高校生ぐらいだろうか、もう一人はおそらく成人は超えている。そして真ん中を歩くのは老年の女性だ。


 その三人組とすれ違う瞬間、どこか懐かしい匂いを感じた。

 どこかで嗅いだことのある匂い。


 思わず振り返るが、その女性たちの姿はすでに人混みに紛れ、どこかへ消えてしまった。


 その代わり、どこからか不思議な笑い声が聞こえてくるような気がした。

 無邪気に笑う子供のようにも、しゃがれた妖怪の恐ろしい笑いのようにも聞こえる、そんな声が。

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マリーシア ホバー @hover

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