5. 病院、ハガキ、ネクタイ

 病院で聞かされた話では、山で山菜を採っていたお婆ちゃんが、山遊びをしていて滑落した僕をたまたま見つけ、救助してくれたということになっていた。


 僕が見たスーツの男性も、ボロボロになったはずのお婆ちゃんも話には出てこなかった。


「それって、どういうことなんですかね」


 首を捻る賀川青年に、僕は申し訳ない気持ちになる。

「実は僕もよくわかってないんですよ」


 お婆ちゃんは僕を庇ってボロボロになったはずだ、といくら主張しても脳の検査の回数が増えるだけで、最終的には滑落の衝撃で記憶が混濁しているのだろうという結論に至った。


「お婆ちゃんに直接聞ければ、それが一番良かったんですけど」

 僕はしばらくの入院生活の後、そのまま自宅へ連れ戻された。もう一度行きたいといくら母親に頼んでも連れて行ってはもらえなかった。一人で山遊びをしていたことで信用をかなり損ねたらしい。


「それじゃあ、お婆ちゃんとはそれっきり?」


 まあ、そうですね、と僕は頷く。


 直接会わなくても、電話をしたり、手紙を書いたり、いくらでも連絡を取る方法はあっただろう。

 しかし、僕はそれをしなかった。きっと当時の僕からしたら、怖かったのだろう。ボロボロになっていた、なんなら生きていなかったかもれない人が平然と生活しているということが。


「ただ、一度だけ向こうからハガキが届いたことがあって、確か四年後ぐらいですかね」


「へえ!」

 賀川青年は再び前のめりになって、面白くなってきたぞ、とでも言いたげに肩を回した。「それで、どんなことが書いてあったんですか」


 僕は賀川青年の様子を見て、苦笑する。


「葬儀の案内でした。そのお婆ちゃんの」







 当時、中学二年生だった僕は、勉学よりも部活動に尽力するタイプの子供だった。

 その日も練習を終え、帰ってきたのは暗くなってからだ。幸い母親はまだ、仕事から帰ってきていない。つまり、家にいるのは僕一人ということになる。


 僕はリビングのソファに腰掛け、一枚のハガキをぼうっと眺めていた。マンションの一階にある郵便受けに入っていたものだ。


 そのハガキには、あのお婆ちゃんが亡くなったこと、その通夜が明日、葬儀告別式が明後日に開かれること、そしてその詳しいスケジュールが形式的な挨拶とともに書かれていた。


 なぜ僕の家にこのハガキが届いたのかは、わからない。血縁関係があるわけでもなければ、付き合いがあったのは数年前の夏休み、それも数週間ぐらいのものだ。それに僕の住所を教えた覚えもない。


 正直、行くべきかどうか、かなり悩んでいた。

 ほんの一年ぐらい前までは、血だらけで倒れているお婆ちゃんの姿を、よく夢にみた。その度にベッドから飛び起き、驚くほど高まった動悸を抑えるのに必死になる。きっと、トラウマになっていたのだろう。


 しかし、それと同じぐらい、あのお婆ちゃんと一緒に、暑いと茹だりながら過ごした日々を夢にみることも、多かった。


「決断を迷っている時はね、リスクが少ない方を選びな! それが長生きのコツだよ」

 お婆ちゃんの笑い声が頭に響く。




 あれから二日後の土曜日、僕はタクシーの中にいた。

 カーラジオでサッカー中継が流れており、僕はそれに耳を傾けていた。窓の外に流れている夏の風景は小学生の頃に見た景色のままだ。


 昨日は学校があったので、通夜式への参列は断念した。金曜日の夜から出発することも考えたが、タイミング悪く母親が帰って来る日だったので、それも諦めた。

 結局、出発は土曜日の早朝ということになり、僕が数時間電車に揺られ、町へ向かう最寄駅に到着した頃には、とっくに葬儀の時間は終わっており、告別式に間に合うかどうかという時間だった。


 迷った時はリスクの少ない方を選べ、というお婆ちゃんの教えに従うことはなかった。


 きっと、お婆ちゃんと過ごした数週間は、僕の一生の思い出になる。

 僕が歳を取り、いつか終わりが訪れるその時に、あれは恐ろしい思い出だったと身を震わせるか、良い思い出だったと笑うことが出来るか、それはこの決断にかかっているのだ、そう思った。


 決着を付けなければならない。

 僕は、不老不死ではないのだから。




 タクシーを降りると、すでに建物から煙は上がっているようだった。

 僕は早足でその建物へ向かう。

 結局、告別式には間に合わなかった。タクシーが町に着いた頃には、すでに出棺は終わっている時間だったのだ。

 僕は町の外れにある火葬場にそのまま向かってもらうように頼み、なんとか収骨までには間に合いそうだった。遺族でもない僕が入れてもらえるかはわからなかったが、ここまで来たのだから引き返すわけにもいかない。

 

 火葬場は独特の雰囲気に包まれていた。建物が古いこともあるのか、白い壁のあちこちが薄汚れている。僕は不快な動悸を感じながら、玄関へ向かって真っ直ぐに進む。


 火葬場の入り口の端ではスーツを着た男性が数人、タバコを吸っている。横目に通り過ぎようかとも思ったが、思わず、足を止める。


 その中に、あの男性がいた。


 山の中でお婆ちゃんと話していた、あの男性だ。葬式だというのにあの時と同じ真っ赤なネクタイをつけている。


 息が詰まり、足は思うように動かない。視界が歪んでいくような気すらした。僕で薄れつつあった黒いトラウマが渦を巻き、僕を飲み込もうとしているようだった。


「お前、あの時子供か」


 ふと気づけば、僕の隣にはあの男性が立っていた。あれからかなり背は伸びたが、それでもこの男性は僕より十センチ以上高いようで、冷たい目線が頭上から降り注ぐ。

 動悸がさらに激しくなり、今すぐにでもその場を逃げ出したい衝動に駆られる。


 その時、お婆ちゃんのある言葉が頭をよぎった。


 何でもない日常の一幕、たった数週間、その中で教えてもらったお婆ちゃんの言葉はきっと、僕の人生を照らす灯火なのだ。


「かっこいい、ネクタイですね!」

 お婆ちゃんの教えに従って、そんな言葉を口に出した。







「僕としては、『自分より強い人間には全力で媚を売れ』というお婆ちゃんの教えを実践したつもりだったんですけど」


 僕がそう言うと、「それにしても、ネクタイはないでしょう」と賀川青年は苦笑した。


「それでも、何故か上手くいったんですよ」


 その後、男は少し驚いた顔を浮かべたが、すぐに僕を火葬場の中に連れて行ってくれた。その男は一応喪主だったらしく、係員に話を通すと、僕も収骨に参加出来ることになった。


「その男性はお婆ちゃんの息子さんか何かだったんですかね」

 僕の話を聞いた賀川青年はそう言って首を捻る。確かにそう考えるのが自然だと、僕も思っていた。


「ただ、収骨が始まる直前に、変なことを言われたんですよね」

「変なこと?」そう言って、賀川青年は前のめりに僕の目を見る。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る