4. 雨、山、不思議

 クラブの話をしてから、大体、三日ぐらい経った頃だろうか。

 夏休みの日数も少なくなってきて、僕が祖父母の家で宿題に取り組むことも多くなってきた。数日、雨が続いていたこともあるのかもしれない。


お婆ちゃんの家に宿題を持って行っても良かったのだが、きっと、お婆ちゃんとの会話に夢中になり、手が付かなくなるだろう、そう推測したのだ。

 

 母親から連絡が入ったと、祖父から聞いたのはちょうどその頃だった。

 こちらは落ち着いたので、多分、二日後には迎えに行けるという話だ。


 母の言う、落ち着いた、という言葉がどういう意味なのか、当時の僕にはわからなかったが、僕の中で鳴りを潜めていた黒い影が再び、僕の喉に手をかけてくるような気がした。




 その日は宿題を早めに切り上げて、昼からお婆ちゃんの家に向かう事にした。お婆ちゃんならきっと、僕の心を覆いつつある謎の黒い影をどうにかしてくれるのではないか、そんな気がしたのだ。


 祖父母の家を出たところで、空から降る小雨が、カッパを被った僕の身体を小さく叩く。

 見上げると黒々とした鬱憤を湛えたような雲が空を覆っていた。いつもは軽い足取りが、今日に限って重い。空から降る雨粒を全て、この足が吸収しているのではないかと思うほどだ。


 夏が終わりかけている所為なのか、最近降り続けている雨の所為なのか、うるさくて仕方がなかった虫の声も、今はほとんどしない。

 お婆ちゃんの家に着くと、まず建て付けの悪い横開きの扉をノックする。いつもなら、すぐにお婆ちゃんが出てくるはずだ。


 しかし、今日は何故か、全てがいつもと違っているようで、いくら待ってもお婆ちゃんは現れない。


 痺れを切らした僕が、扉に手をかけると、鍵はかかっていなかったようで、案外すぐに開いた。この扉を閉める時には特殊なコツがあるのだと、お婆ちゃんから聞いていた。何度かチャレンジはしたが、結局、開けたまま放置する。


「お婆ちゃん?」


 家の中に響き渡るよう大きめの声を出すが、返事はない。家主の許可もなく、勝手に家に上がるのは気が引けたが、僕は静かに靴とカッパを脱ぎ、玄関を上る。もしかして、お婆ちゃんは病気か何かで倒れていて、僕の助けを待っているのではないか、そんな不吉な予感が僕の中をよぎったからだ。


 まず、いつもお婆ちゃんと話をする居間へ向かう。廊下の軋む音が暗い家の中に、やけに響いた。廊下を少し進むと、すぐ左側にある襖の奥が居間だ。僕がその襖を覗くと、そこにあるのは床に敷かれた畳、その上に置かれたテーブル、そして、さらにそのテーブルの上にある一枚の紙切れだけだ。


『暇なので、山菜を採りに行ってきます』


 そう書いてあった。




 こんな雨の日に山菜採り、そんなことあるのだろうか、今思えば違和感は幾つかあったが、当時の僕はそこまで思考が回っていないようだった。とにかく、お婆ちゃんに会ってこの漠然とした孤独や不安を一刻も早く取り除いて欲しかったのだ。


 気が付けば、僕は細い一本道を右に外れ、木々が深くなる道を黙々と歩いていた。いつもは草が鬱蒼と茂っている道は、大きな何かが通ったようになぎ倒されていて、いつもより歩きやすい。


 あちこちから水滴が滴る音が聞こえる。薄暗い山の雰囲気は、毎日通っていた頃とは全く別の世界のようだ。濡れた草木は滑りやすく、油断すればすぐに転んでしまいそうだった。

山菜がありそうなところなど、見当もつかない僕は遊び場にしていた頃の記憶を頼りに、とにかく色々なところを歩き回る。


 虫がよくいる木の前、

 雑草が伸びてもはや見る影もない僕の秘密基地跡、

 結局一匹も魚を捕まえられなかった川のほとり、


 どこを探しても、お婆ちゃんの姿は見つけられない。

 滑りやすい山道を注意深く進むのは、かなり体力を消耗することだ。当時の僕はすでに体力の限界を迎えつつあり、思わずその場に座り込む。一体、どこに行ったんだ、そんな的外れな文句が口を衝きそうになった時、お婆ちゃんの言葉がふと頭を過ぎった。


「実はもうそろそろ、引っ越しでもしようかと思ってたんだけどね」


 まさか、お婆ちゃんも僕を置いて行こうとしているのではないか、そんな絶望にも似た焦りが僕の中に芽生え、身体は反射的に動き出していた。

 冷静さを欠いた子供の行動ほど、危険なものはないのだと今になって思う。


 僕は山の中を息を切らせながら、走り回った。最初は危険なところを出来るだけ避けていたが、そんなことを気にしている心の余裕はすぐになくなった。

 焦りに身を任せて走り回り、しばらく経っただろうか。

 息を吸うのも吐くのも苦しいほど僕の肩は激しく上下していた。吐き気も込み上げてくる。足は震えて、立っているのがやっとだ。


 そんな時に、ようやくお婆ちゃんの姿を見つけた。

 山の中腹近く、普段は誰も近づかないようなところに、お婆ちゃんはいた。

 道の片側は半ば崖のような傾斜の厳しい坂になっている。僕がすっぽりと隠れるほど草木は伸び切り、視界もろくに確保できないが、僕はただ必死にお婆ちゃんの元へ駆けていこうと一歩を踏み出した。


 しかし、一瞬の困惑でその足は止まった。


 人影はお婆ちゃんだけではなかった。

 おおよそ、山登りに適してるとは思えない黒いスーツ、それに身を包んだ男性が一人、傘を刺しながらお婆ちゃんの横に立っている。男性の付けている真っ赤なネクタイがやけに目についた。


「お婆ちゃん?」


 僕の声を聞いて、二人は初めて僕の存在に気がついたようだった。お婆ちゃんの隣にいる男性は、遠目から見てもそれなりに若いことがわかった。おそらく、お婆ちゃんの子供だと言われても通じるだろう。


「坊主かい?」

 驚くようなお婆ちゃんの声を聞いて、精神的にも肉体的にも限界が近かった僕は、棒のようになった足を必死に動かした。


 きっと、お婆ちゃんに会えば、解決するはずだ。僕を掴んで離さないこの黒い影を消す方法を教えてくれる。お婆ちゃんだけは僕を置いていくはずがない。


「危ない!」


 お婆ちゃんのその声が聞こえた時には、すでに遅かった。

 着地するはずの足が空を切る。身体のバランスが完全に失われた。倒れ込むような形で僕は、山の傾斜に放り出されたのだ。

 草木で限られた視界では気が付かなかったが、道の一部が崩れていたようだった。そこに足を付こうとした僕の身体はそのまま倒れる。


 生まれて初めて死を体感した。子供ながらに僕の人生はここで終わるのだと、そう察した。


 まず、身体が地面に叩きつけられる衝撃を覚悟したが、先に別の衝撃が来た。


 お婆ちゃんが僕の身体を野球のスライディングのような形で抱きとめたのだ。息をするのも苦しいほど強い力で身体全体を抱きしめられる。これでは、僕だけではなく、お婆ちゃんまで死んでしまう。そう思った時には僕の身体とそれを抱きしめたお婆ちゃんはそのまま地面に叩きつけられた。




 頬を伝う、雨の冷たさで目を覚ました。


 まず、身体を起こさなければ、そう思い全身に力を込めるが、まるで金縛りにでもあったかのように動かない。


 雨は、僕が気を失っている間に強まっているようだった。木々を叩く音が耳障りなほどうるさくなっている。

 地面に伏せたまま、まだ朦朧とした意識をなんとか覚醒させようと頭を回す。

 そうだ、僕はあの崖のような傾斜をお婆ちゃんに抱きしめられながら転がり落ちたのだ。


 お婆ちゃん、お婆ちゃんはどこだ。

 現状を把握した僕はうつ伏せのまま首を動かして、お婆ちゃんの姿を探す。


 どこだ、どこだ、どこだ。


 首と視線を動かして、僕たちが転がってきた傾斜の方向、山の頂上側を見た時、それはあった。


 大人になってから思えば、当然のことだった。僕を抱きしめ、石や枝木から庇ってくれたお婆ちゃんが無事であるはずがない。


 全身は擦り傷や切り傷でまみれており、赤く濡れている。僕の頬を乱暴に包んだくれた、右腕は普通では曲がり得ない方向を向いている。左足も同様だ。どこかで打ったのか、頭から赤黒い液体が今も流れ出ているようだった。


 遠目から見ても、それが生きているものではないのだと、わかった。

 

「えっ!」

 映画でも観ているように僕の話に聞き入る賀川青年を見て、思わず苦笑する。もしかしたら、彼にはインタビュアーとしての天性の才能があるのかもしれない。


「お婆ちゃんは、それで亡くなったんですか」

 目を見開きながら、話の続きを促す賀川青年はすでにメモ帳を閉じてしまっている。


「いや、僕もそのあとすぐ、気を失っちゃったので」

 僕が次に目を覚ましたのは、大きな市立病院だった。母親が泣きながら僕に抱きついてきたのをよく覚えている。どうやら、山で倒れていたところを助けられたらしい。


「じゃあ、お婆ちゃんは?」

 賀川青年が不安そうに僕を見つめる。


「ここからが、ちょっと不思議なところなんですけど」僕は当時を思い出しながら語る。


「その、倒れていた僕を助けたっていう人が、お婆ちゃんだったんらしいんですよね」

 

 

 

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