3. 先輩、コバンザメ、引越し

 お婆ちゃんの家に通うようになって、一週間が過ぎた頃だった。

 まだ両親から迎えに来るという連絡はなかったが、この頃にはすでにそんなことはあまり気にならなくなっていた。




 その日はお婆ちゃんの家でお茶を啜りながら、僕が所属するスポーツクラブの話をしていた。

 最初は僕の活躍を、少々の誇張と脚色を混ぜて話していたのだが、それも尽きるといつの間にか、チームメンバーの話や、先輩の話に移行していた。

 僕の所属するクラブには泣く子もさらに震え上がらせる怖い先輩がいる。小さなミスも決して許さず、口答えしようものなら必ず鉄拳が飛んでくると噂の、いつも顰めっ面を浮かべている六年生の先輩だ。


 そんな、とても怖い先輩の話をした時だった。


「そんなに怖い先輩なら、パシリにでもなんでもなってやりな」

 お婆ちゃんは熱いお茶をごくごくと豪快に飲み干したところで、いつものように僕の頬を両手で包み込む。


「いいかい、もし自分より大きくて、強い人と対峙そうになったら、迷わず媚を売ってその人に取り入るんだよ」


「なんで」潰された口でなんとか発音する。


「ジャイアントキリングなんて、現実的じゃないのさ。弱い奴は強い奴に負ける。これは世の中の根底にあるルールだよ」


 世の中は勝ち残りのトーナメントではなく、生き残りのバトルロワイヤルなのだと、そんな言葉も続けたが、当時の僕にはよく理解できなかった。


「獰猛なサメも、自分に引っ付くコバンザメを咬み殺すことはしないのさ」

 そう言って、お婆ちゃんはもはや聞き慣れた奇妙な笑い声を上げる。そのまま、僕の頬から手を離し、座布団に座り込んだ。




「お婆ちゃんは、いつからここに住んでるの?」


 お婆ちゃんが軋む床の上で小気味良く小躍りを始め、僕がその奇妙な音色に耳を傾けていた時、ふと浮かんだ疑問をそのままぶつける。


 田舎というのは近隣の繋がりが異様に強いのだと、僕はここでの短い生活の中ですでに学んでいた。しかし、お婆ちゃん宅には今まで、一度も僕以外の来客が来ていない。その事に違和感を覚えたのだ。


「いつからだろうねぇ。ただ、短くはないけど、長くもないよ」お婆ちゃんは首を傾げるようにして答える。


「それって、どれくらいなのさ」子供ながらにこちらをはぐらかすような雰囲気を感じ、さらに追求する。


 今までのことはよく覚えてないけど、お婆ちゃんはそう言って曖昧な口調で続ける。

「実はもうそろそろ、引っ越しでもしようかと思ってたんだけどね」


 その言葉を聞いて、一瞬僕の中の時間が止まったような気がした。どうせ、自分も夏休みの間しかいられないくせに、なぜかその言葉にひどくショックを受けたのだ。

 そんな僕の様子を見て、お婆ちゃんは目を細めると、顔の皺をさらに深くして笑った。


「まあ、でも坊主がいるなら、もう少しここにいるのも悪くないかね」







「面白いお婆ちゃんですね」

 賀川青年は僕の話を聞きながら、一切手を休めることもなくメモ帳にペンを走らせ続けていた。


「変わってはいたけど、間違いなく良い人でしたよ」僕は笑う。


「そんな人がいたなら、結局退屈のしない夏休みになったんじゃないですか」


 自分のことのように、嬉しそうな雰囲気を漂わせながら、そう言う賀川青年の顔を見て、この先の話を続けるべきか、逡巡した。


「途中までは、今までの人生で一番有意義な夏休みだったんですけど」


 僕の口調に不穏な雰囲気を感じ取ったのか、賀川青年は一気に神妙な顔つきになる。


「何か、あったんですか」

「まあ、それなりに」


 お婆ちゃんと過ごした日々は、決して長くはなかったし、案外、小学生の頃の記憶なんて、どんな良い記憶だろうと、大人になれば曖昧になっていくものだ。それでも、僕がお婆ちゃんと過ごした日々を、今も鮮明に思い出せるのは、あの日があったからかもしれない。

 

 

 

 

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