2. 山、影、老婆

 僕が、小学四年生の頃、おそらく夏休み中だったのだろう。僕は遠い田舎にある母方の祖父母の家にいた。


 両親は一緒ではなく、僕だけが祖父母の家に預けられたのだ。というのも、当時の僕はちゃんと理解していなかったが、両親は離婚の準備を進めている最中だったらしく、それが終わるまでは、祖父母に預かってもらおうということらしかった。


 僕はそれまでの人生を、そこそこの都会で過ごしていたものだから、ゲームもなければ、友達もいない土地で夏休みを過ごすなど、絶対にあり得ないと思っていたし、実際、最後まで馴染むことはなかった。


 祖父母の家に預けられ一週間も経てば、僕は慣れない田舎の生活にうんざりしていた。

 家にいても仕方がないから、朝ごはんを食べて家を飛び出し、昼ごはんを食べに家へ戻る、そして昼ごはんを食べると、また家を飛び出す。それから晩ごはんまで、外をぶらぶらと歩く、そんなことを毎日繰り返していた。







 蝉と、よくわからない虫の大合唱の中を、暑い日差しを浴びながら歩いていく。昼ごはんの素麺で腹を満たした僕はいつものように遊びに出かけていた。

 僕が歩く細い一本道は時々通るトラックがギリギリ、一台通れるほどの幅だ。左手にはよくわからない野菜が植えられている畑があり、右手には雄大な山々が連なっている。


「暇だなぁ」

 そんなことを呟いても、一緒に遊ぶ友達も、どこかへ連れて行ってくれる両親もいない。返事をするのは、あちこちでけたたましく鳴く虫たちだけだ。


「うるさい!」

 苛立ちに身を任せ、声を荒げても、僕の声はどこまでも続く自然の風景に吸い込まれていくだけだ。


「はぁ」

 ため息をついても、僕の孤独や不安をより深くしていくだけだった。




 僕が歩いている細い一本道をしばらく進むと、右に逸れる道が現れる。

 伸びきった草に覆われ、わかりにくいがその道は確かに近くの山へと続いており、そのまま進むと、やはり木々が深くなっていく。


 この山が、僕の唯一の遊び場だった。


 山は危険だから、絶対に一人で入ってはいけない、そう祖父には言い聞かされていた。

 この山には傾斜がキツく、半ば崖のようになっているところがあちこちにあり、実際に入ってみると祖父の言う危険というのも理解できた。しかし、そんな言葉では暇を持て余した子供を縛り付けることはできない。

 僕は早々に祖父の言いつけを破り、山での遊びに興じていた。


 街にはいないクワガタを取ったり、

 草を束ねて秘密基地を作ったり、

 川の魚を捕まえようと奮闘したり、

そんな遊びに夢中になっていると、すぐに時間が過ぎていく。

 気が付けば、陽は傾き、木々の影を長く映し出していた。

暗くなりつつある山に一人でいられるほど、怖いもの知らずではなかった僕は足早に山を後にした。

 



 夕陽が僕の背中を照らす。今度は右手に移った謎の畑も、夕陽の灯りを浴びて、茜色に輝いていた。

 当時の僕にとって、陽が落ちていく帰り道ほど嫌いな時間はなかった。

夕陽に照らされ、一本の細い影が僕を先導する。

少し前まではその影もさらに長い二本の影に挟まれ、仲良く並んでいたはずだ。


 今頃、父と母は仲良くしているだろうか、友達は両親と晩御飯を食べている頃だろうか、そんなことを考えていると、巨大な孤独の手掌が小さな僕の身体を握りつぶそうとしているような気がした。

 必死に歯を食いしばり、堪えようとするが、いつの間にか流れ出ていた涙も、口から漏れる嗚咽も栓を失ったように止まってくれない。


 そんな時だった。


 どこからか不思議な笑い声が聞こえてきた。

 無邪気に笑う子供のようにも、しゃがれた妖怪の恐ろしい笑いのようにも聞こえる、その声は、ちょうど僕が通り過ぎた古い家屋から聞こえるようだった。


「坊主!」


 突然、聞こえたその言葉が、僕に向けられているものなのかもわからぬまま、後ろを振り返る。すると、ちょうど通り過ぎた古い家屋の門前に、和装に身を包んだ老年の女性が仁王立ちしていた。







「ええと、老年の女性ですか」


 たまらず口を挟んだといった雰囲気の賀川青年の言葉には、骨に関する思い出ではなかったのか、と困惑するようなニュアンスが含まれていた。

 確かにこの記憶を骨に関する思い出、と括るのは少々乱暴な気もしたが、それでも今後の顛末を考えれば、あながち間違ってもいない。


「まあ、これからですかね」


 僕がそう言うと、賀川青年はそうですよね、と焦ったように再びメモ帳にペン先をつける。


「ところで、こんな文章知ってますか?」

 僕はポケットから取り出したスマホの画面を賀川青年に見せる。彼は身を乗り出して、検索欄に表示された文章を目で追っているようだった。


『不老不死の人間が生物学上の確率では5人いる』


 そう書かれた文章を見て、賀川青年は困惑をさらに深めたように首を傾げる。「なんですか、これ」


「不老不死って検索すると出てくるんですよ。サジェストに」


 ピンと来ていない様子の賀川青年には、まずサジェストとは何なのか、を説明する必要があるようだった。


 サジェストとは、検索サイトの機能の一つで、検索欄に文字を入力すると、その下にずらりと並ぶ予測変換のことだ。きっと『不老不死』と入力すれば、通常は『不老不死 実現』『不老不死 生物』というように出てくるだろう。


「そのサジェストに、この文章が」

 賀川青年は僕の説明を聞いて、多少の理解は進んだようだったが、それでもやはりまだ納得していない様子で続けた。


「それで、これがどうしたんですか」

「まあ、それもこれからですかね」


 僕はそう言うと、再びあの奇妙なお婆ちゃんとの出会いを語り始める。

 






「坊主! 泣くんだったらね。思いっきり泣きな!」


 その老婆はずいずいと近寄ってくると、僕の眼前でしゃがみ込み、僕の頬をその皺くちゃな両手で押しつぶすようにして包み込んだ。


「押し殺すみたいに泣くんじゃないよ! もっと豪快にわあわあ泣くんだよ!」


 僕の頬を伝う涙はすでに孤独に耐えかねて流れたものではなく、恐怖から流れ落ちる防衛本能的な涙に変わっていたのだが、老婆はそんなことに構う様子もなく、そのまま捲し立てる。


「それから、しばらく泣いている姿を周りに見せつけるんだ!」


 僕は訳もわからず、ただこの老婆に対する恐怖心から大きな声で泣き喚く。


「そう! それでいいんだよ! そうやってしばらく泣いたらね」


 老婆は皺くちゃの手を僕の頬から離すと右手の中指と親指を使って僕のおでこをパチンと弾く。


「ちゃんと泣き止む!」


 老婆がそう言った瞬間、何故か僕の目から溢れる涙がぴたりと止まった。先程まで感じていた老婆への恐怖もふっと消え失せたようだった。口を一文字に結び、じっと老婆を見上げる。


「うん、強い子だ」

 老婆は顔の皺を深くしながら、微笑む。


「判官贔屓って言葉、知ってるかい」


 僕は老婆の言葉に黙って首を振る。

 そりゃそうだ、と老婆はあの不思議な笑い声を上げた。あの笑い声はやはり、この老婆のものだったのだ。


「人間はね、本能的に弱い方を応援したくなるもんなんだよ」

 だから、と老婆は続ける。

「泣くときは思いっきり周りにアピールするんだ。僕は今、弱い方です! だから僕の味方をしてください! ってね」

 周りを味方にできるやつは強いよ、そう言って、老婆は楽しそうに笑った。僕もなんとなく釣られて笑いそうになる。


「私はずっとここにいるから、またなんかあったら来な」


 老婆はそう言って立ち上がると、伸びをするように腰をそらせた。

「明日も」僕は下を向きながら、小さな声を出す。

「うん?」老婆は聞き取れなかったようで、僕に合わせてしゃがみ込んだ。

「明日も来ていい?」

 耳打ちをするような小さな声で僕が言うと、老婆はまた、あの奇妙な笑い声を上げた。

「お菓子も、準備しておくよ」


 老婆の言葉を聞いて、僕の心に渦巻いていた黒い影が、少しだけ薄まった。そんな気がした。


「ああ、そうだ」と老婆は何かを思い出したように声を上げると、再び僕の頬を皺くちゃの手で包んだ。

「さっきの話だけどね。転んだ時も、一緒だよ。思いっきり痛がるんだ」

 周りが驚くくらいにね、と続く老婆の僕は真剣な顔で聞き、頷く。


 古い家屋に戻っていく老婆の背を、僕はぼうっと見送っていた。

 きっと、ここから僕の生活は激変するだろう、そんな予感がしたし、実際にそうなった。


 帰り道を先導する細長い僕の影も、今日はどこか楽しげに見えた。








「なかなか、強烈な話ですね」


 そう言う賀川青年の顔は、興味深い歴史の授業を受けているような真剣さに満ちていた。実直なところは父親に似ているのかもしれない。


「最初に会ったときはびっくりしたけど、やっぱり凄い人でしたよ」

 僕は当時を振り返りながら、しみじみと語る。


「会うたびに色んな人生訓みたいなものを教えてくるんですけど、それがまた変なのばっかりで」


「判官贔屓の話をしてましたね」

「そうそう」僕は頷く。


「弱い人は迷わず助けなさい、とかそういうんじゃなくて、弱い人を助けるときは、まず自分に降りかかるメリットとデメリットを天秤にかけなさいって言っていたこともありましたよ」


 お婆ちゃんが語っていた人生訓は大人が子供に教えるべき、透明で輝かしい模範的なものではなく、くすんでいて鈍い光を放つ処世術的なものばかりだった。


「結構、たくさんあるので語り始めたキリがないんですけど」

「印象に残っているものだけでもいいので、詳しくお願いします」


 賀川青年は前のめりになって、僕の目を見る。骨に関する思い出、というのはすでに頭から抜け落ちているようだった。

 


 

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