青春たちは今年も咲き散る

Re:over

青春たちは今年も咲き散る

 幸せとは何か。高校二年生になって何かが変わることもなく、日々は過ぎて行く。何も考えずに生きていけるほど馬鹿であれば良かった。自分から幸せと感じられるものを探せるほど活発であれば良かった。

 教室は男子と女子が複数人で話していたり、部活へ向かったり、SNSに投稿する動画を撮影したり、まさに青春といった感じだ。僕はそういうキラキラしたものとは無縁の人生を送っている。

 あの人のことを考えながら図書室へ向かった。キラキラした青春とは無縁の僕でも、楽しみにしていることの一つや二つはある。あの人、というのはずっと前から気になっている先輩のことだ。今日はいるかな、という淡い期待が脳内を支配している。図書室へ入り、目をキョロキョロさせる。それだけではただの不審者なので、本を探しているフリをする。

「そこの君、オカルト研究部に入らないかい?」

 声の方を向くと息が止まる。黒檀のような髪、透明感のある肌、健康的な唇、胸元にある緑の刺繍。僕に話しかけて来たのはあの人であった。

 僕は先輩の存在を感じたいがために図書室へ来たわけで、会話の脳内シミュレーションなんてやっていない。動揺と困惑で固まってしまった。

「別に怖がることはない。名前を貸してくれるだけでもいいし、部室へ来てくれれば私と世間話もできる」

 自分の価値を完全に理解している言葉だ。いや、そんなことはどうでもいい。それより、どうして僕に話しかけているのか。

「そ、そういう問題ではなくて、ですね」

「じゃあ、どういう問題があるんだい?」

 顔をぐっと近づけてこちらを見つめる。僕はその勢いに押され、一歩下がり、固唾を呑む。凛とした顔つき。少し油断しただけで瞳の奥へ飲み込まれそうになる。

「いつも私のことを見てくるのは、私に興味があるからだろう? 違うかい?」

 そう言いながら不敵な笑みを浮かべる。やばい。気づかれないようにそれとなく盗み見ていたというのに、どうしてバレたのか。いや、そんなことより、これは一種の脅迫だ。部へ入らなければ社会的に殺すぞ、と言わんばかりの圧を感じた。もしかしたら変態として吊し上げられてしまうかもしれない。

「入ります、入りますから」

「それは良かった。入部届けにいろいろ書いてもらうから付いて来てね、後輩くん」

 先輩の声色が明るくなり、僕は胸を撫で下ろした。

***

「やぁ後輩くん。今日の放課後は部会を開くから、必ず部室へ来るように」

 教室がザワつく。そりゃあ、綺麗な先輩が堂々と教室に入って陰キャに話しかけているのだから、みんな困惑するに決まっている。

「……分かりました」

 オカルト研究部へ入部したはいいものの、僕と先輩以外の部員はみんな幽霊らしく、大した活動も行っていない。幽霊というのはほとんど参加しない、という意味の。

「嫌そうな顔をするね。そんなに私のことが嫌いかい?」

「もう少し配慮してほしかっただけです」

「なるほど、君は注目されるのが苦手なんだね。次からは一度、体育館裏に呼び出してから伝えるとするよ」

 先輩はニヤニヤしている。

「それこそ注目されますよ!」

「やってみないと分からないよ。シュレディンガーってやつだよ」

 何も言い返すことができないまま、先輩は行ってしまった。流石に、部会なら他の部員も来るだろうか。

 放課後の部室には先輩一人しかいなかった。椅子へ座って本を読んでいた。

「適当な場所に座って。では、部会を始めます」

「他の部員は来ないんですか?」

「みんな忙しそうだからね。私たち二人だけで十分だよ」

 二人だけの部会とは。

「ところで後輩くん。君はこの学校の七不思議ならぬ三不思議を知っているかい?」

「図書室の本、体育館裏の雑草、幸子さん」

 図書室の本。図書室に謎の本が現れるという話だ。その本を読むと呪われるらしい。どうやったら本が現れるかなどの細かい話は知らない。

 体育館裏の雑草。体育館裏で告白してフラれた人の執念が雑草に取り付いたことで、ここでカップルが成立したら雑草に足を掴まれてしまうというものだ。

 幸子さん。学校の誰かに取り憑いて生活している霊のことだ。幸子さんは死んだ生徒の霊だとか。青春泥棒である。

「正解。私が図書室にいたのは『図書室の本』を探していたからだ。部誌に載せるネタ集めをしていたってこと。実際にやってみると分かることも多い」

 こちらに目を向け、ニコリと笑う。おそらく、『体育館裏の雑草』は一人じゃできないから手伝え、ということなのだろう。

「『図書室の本』も、まだ試していないことがあるから、それも手伝ってもらうんだけどね。とにかく、今日は事前知識を教えるから、ちゃんと聞いておきなよ」

「分かりました」

 先輩は黒板に図を書いたりして三不思議についての成り立ちや事件など、考察を交えながら説明した。その先輩はとても楽しそうで、聞いてるこっちも楽しくて、この時間が永遠に続けばいいなと思った。

***

  図書室の本が現れる条件には色々な説、噂がある。しかし、それを整えるのは現実的ではない。

「僕が本を読んでいる間、先輩は何をするんですか?」

 僕はその辺にある手頃な本を取った。

「私は条件を揃えるために色々とね。まぁ、私のことは気にしなくてもいい」

 窓際ということもあり、夕陽が差し込んでいて眩しい。

「では、後はよろしく頼むよ、後輩くん」

 そう言って僕の肩をポンッと叩く。

 僕は言われた通り、図書室の隅で立ち読みをする。集中して立ち読みしてればいいと言われた。確かに、夕陽が落ちる時に図書室の隅で立ち読みしていれば現れるらしい。しかし、幽霊は人が多い場所が苦手で、それに加えて図書室に一人きりという条件もあるという。もしかして、司書の先生に頼んで、僕一人にさせているのかもしれない。

 先輩に叩かれた肩が焼けるように熱い。日に照らされている訳でもないのに。気になって仕方がない。読んでいる本の内容が頭に入って来ない。集中しろ、集中しろ、と念じる。熱が毒のように体中へ広がり、現実と本と妄想がごちゃごちゃになる――

 気がつけば日が落ちて夜になっていた。ふと、隣の棚に異様な大きさの本があることに気がついた。棚から真っ黒な背表紙が不自然に突き出てた状態で置かれている。

 近づき、手に取る。ラベルが付いておらず、図書室の本ではないようだ。恐る恐るページを捲る。特に何もない。普通の本であった。

「わっ」

「うわっ!」

 背後から声が聞こえて身の毛がよだつ。反射的に声とは反対へ体が飛び退き、本をその辺に落とした。その拍子に頭をぶつけてその場で崩れる。顔を上げると先輩が爆笑していた。

「今、その本は君にとって謎の本であっただろう?」

 まだ心臓はバクバクしている。少しずつ力が抜けていく。立つのもめんどくさくなる。

「どうだった?」

「……立てないです」

「仕方ないなぁ」

 先輩は手を差し出した。もちろん、一人で立てないわけではないが、このくらいしてもらわないと割に合わない。

 僕は先輩の手を取った。ひんやりとしていて、その上柔らかい。そのまま立ち上がろうとしたが、先輩の細い指を意識しすぎて強く握れなかった。そもそも、先輩に僕を引き上げる程の力があるとは思えない。

「冗談ですよ、そこまでビビってないです」

 先輩の指にさよならを告げ、一人で立ち上がろうとした。その時、足が絡まり、バランスを崩して咄嗟に先輩の腕を掴んで引っ張ってしまう。僕は地面に倒れ、遅れて先輩の顔が急接近――したところで止まった。フワッと春の匂いが鼻をかすめる。目の前にはつぶらな瞳――澄んだ夜空が広がっていた。

 足と足が重なっている。前髪がゆるりと垂れた。情報量が多すぎて処理が追いつかない。先輩も驚いた表情を浮かべていた。

「大丈夫かい?」

「は、はい。大丈夫、です」

 恋に落ちる、とは言うが、飲み込まれる感覚。つぶらな瞳はまだこちらに向いている。恥ずかしくて、永遠に釘付けになってしまいそうで、目を逸らした。ものすごく不自然な動作で、これじゃあ好意をさらけ出しているも同然。

「次は一人で頑張ってね」

 先輩は立ち上がりそう言った。そして、落ちた本を拾う。

「本当に、すみませんでした」

「そんなにびっくりしたかい?」

「そ、そんなわけないじゃないですか!」

 また転けてしまわないかと心配で、本棚に手をかけて立ち上がる。

「それより、もう暗いので帰ります。お疲れ様でした」

「後輩くん、鞄忘れてるぞ」

 先輩はニヤニヤしながら鞄を渡し、労いの言葉をかけた。

***

「やぁ後輩くん。おはよう。偶然だね」

 校門を過ぎた辺りで先輩に声を掛けられた。振り返り、先輩と並ぶまで立ち止まった。

「おはようございます」

 まさか朝から先輩と会うなんて思ってもいなかったので、恥ずかしさから目を落としたまま上げられなくなっていた。生徒会選挙の候補者たちが公約を掲げ、ランニングしている野球部が目の前を横切り、トランペットの音が遠くから聞こえる。横顔を一目見たいという気持ちもあったが、そこに気を回す余裕はなかった。

「昨日は大丈夫だったかい? 頭をぶつけて馬鹿になっていたらと考えたら……笑いが止まらず夜も眠れなかったよ」

「そこは嘘でも心配で、って言ってくださいよ」

 緊張であまり上手く笑えなかった。勝手に意識して、赤くなって、馬鹿みたいだ。

「今日は『体育館裏の雑草』の検証をするから、放課後、体育館裏へ来るように」

「分かりました」

「まぁ、せいぜいロマンチックな告白文を考えておくといい」

 やっぱり僕が告白する側らしい。先輩のことが好きでなければ別に問題はないのだが、本心を告げることになるわけで、どういう気持ちで告白すればいいのか分からない。下手なことを言ったら笑われるだろうし、かと言って、本気で考えたら好意がバレそうで恥ずかしい。

「では」

 別れ際、先輩は控えめに手を挙げた。ほんのり冷たく柔らかい手の感触を思い出す。ある意味、女性の手は凶器なのかもしれない。そのまま教室へ向かう先輩の後ろ姿に見惚れそうになるのをグッと我慢した。

 授業中、先生の声が遠くなる。昨日の出来事が脳内でループする。先輩に関する記憶たちがグルグルグルグルと回る。凛とした表情で本を読む先輩、いたずらな表情を浮かべる先輩、僕の反応を見て爆笑する先輩。夢現で、目を閉じたら現実を忘れてしまいそうだ。

***

 体育館裏は収納庫が二つあるだけで、人通りはほとんどない。告白するには丁度いい場所だ。雑草は綺麗に整えられているので、足に絡まるはずがない。もし、噂が本当なら、伸びて足を掴むのだろうか。

 そんなことを考えて緊張を紛らわせようとするが、上手くいくはずもなく。先輩が来るまでスマホの電源を付けたり消したりしながら告白文を心の中で繰り返す。

「やぁ後輩くん。待たせたね」

「僕もさっき来たばかりですよ」

「そうかい。それで、何の用だい?」

 拳を握り、吐き零しそうな心臓を飲み込み、心の中に保管してある言葉をゆっくり取り出す。

「その……まだ知り合って一ヶ月も経っていませんが、表情豊かな先輩のことが好きです」

 恥ずかしくて俯いてしまう。発音もたどたどしい。この場から逃げたい気持ちが溢れて溺れそう。地震が起きた感覚に襲われ、たっているのがやっとだ。自分が何をしているか忘れそうになりながらも、ギリギリのところで踏ん張り、一文字ずつ、丁寧に言葉を紡いだ。

「それで、先輩のいろんな表情を、傍で見ていたいです」

 これでは本気の告白。もっと平常心でいなければ。そう思うほどに意識して、平常心から遠のいていく。

「そうか。私で良ければ、こちらこそよろしく」

 先輩は何の躊躇いも恥じらいもなく返事した。そこに思考を巡らせるより先に言い表せない幸福感を覚えた。僕は、美人の先輩に告白してやったぞ! そしてOKを貰ったんだぞ! と世界の真ん中で叫びたい。

 しかし、これはあくまでも噂話の検証をしているだけ。それだけなのだ。僕が何を伝えようとも、先輩は台本を読んでいるだけ。とはいえ、本当に付き合えた時のことを考えてしまい、必死にニヤけそうな口を結ぶ。

「……何も起こらないね」

 先輩はあくまでも何事もなかったかのように振る舞う。

「そ、そうですね」

 もう少し演技してくれたっていいではないか。そんな淡白だと、逆にフラれてしまったみたいではないか。めちゃくちゃ恥ずかしい思いをしながらも、しっかり告白したんだから褒めてくれてもいいではないか。もどかしい気持ちが喉に積もっていく。

「帰ろうか」

 僕は顔を上げて先輩の後を追う。でも、何か違和感を覚えた。先輩なら、他のアプローチも試したいと言ってくると思っていた。雑草の様子も調べず、すぐに撤退するのはおかしい。先輩の隣に並び、顔色を伺う。ほんのり赤い気がした。

「後輩くん、勘違いしないでくれよ。これは夕陽のせいだからね」

 心なしか、その笑顔はぎこちないものに思えた。

***

 『幸子さん』については検証のしようがないので、保留という形になった。放課後の楽しみがなくなり、寂しくなる。図書室へ行く理由も無くなってしまったし、家へ帰っても退屈だ。

「部室へ来てくれれば私と世間話もできる」

 という先輩の言葉を思い出した。部室へ行けば、先輩はいるだろうか。でも、用もなしに行くのはおこがましいのではないか。いろいろ考えたが、気がつけば部室へ向かって歩いていた。

 目の前まで来て不安が込み上げてくる。かといって、ここで引き返したら後悔しそう。でも、先輩にからかわれそう。思考が行き来している間に戸の前に来てしまった。半分ヤケクソで戸を開く。先輩は原稿用紙を広げた机に向かって座っていた。

「お、お疲れ様です」

「やぁ後輩くん」

 目先のことばかり考えていたせいで、何を話すだとか、来た理由だとか、何も考えていなかった。焦って何か言おうとするも、緊張で頭がうまく回らない。

「ここに座るといい」

 先輩は隣の席を指さした。僕はその言葉に安堵し、席へ座る。原稿用紙を覗くと、達筆な字がズラっと並んでいた。

「後輩くんは、休日何をして過ごしているんだい?」

「えっ?」

「世間話をしに来たわけだろう?」

「あ、えっと、アニメ見たり、ゲームしたり、本読んだり、ですかね」

「そうか。本はどういうのを読むんだい?」

 先輩は手を止めては動かし、器用に話す。僕はその横顔を眺める勇気はなく、ベランダの方を見ていた。夕陽が眩しいのか、先輩が眩しいのかよく分からなかった。

「先輩はいつもここで作業しているんですか?」

「そうだね。受験勉強も、しばらくはここでやると思うよ」

 ということは、部室に通えば、毎日先輩と会えるのだ。気持ちが昂って胸が熱くなる。既に明日が楽しみだ。もしかしたら、遠足前夜の園児みたいに眠れなくなるかもしれない。

 こんなに楽しい日々が始まったというのに、しばらくすれば夏休みになる。夏休みは先輩と会う機会がないし、会おうと思っても難しい。夏休みが明けたとしても、先輩は受験勉強でより忙しくなるだろう。漠然とした不安が込み上げてくる。

***

 夏休みは最悪なものだ。暑いし、怠いし、先輩と会えないし。先輩の記憶が遠い。たかが一ヶ月、されど一ヶ月。まだ二週間しか経っていないのに、先輩成分が足りなくて熱中症になりそうだ。いや、むしろ会ったら熱が増してぶっ倒れるかもしれない。

 夏の暑さに頭をやられたのか、こんな変なことしか考えられなくなっていた。それで、こんな頭のおかしくなった人間はある意味最強だ。

「今週末、肝試しに行きませんか? 送信っと」

 どうにかして先輩と会いたい僕は、オカルト研究部ならではの行事であろう肝試しへと誘った。ベッドでゴロゴロしながら返事を待つ。しかし、返事どころか既読すら付かない。

 時間が経過し、徐々に冷静を取り戻していく。送ったメッセージを確認する。この文面だと、二人きりで行くみたいで恥ずかしさが込み上げてきた。

「うぉぉぉ! 何血迷ってんだよ過去の自分! 殴りてぇ」

 悶え苦しんでいると、返信が来た。とりあえず返信が来たことに胸を撫で下ろす。

「胃矢駄……いやだ!? 」

 部屋を満たすほどのクエスチョンマークが飛び出してきた。距離感を誤った? 毎日先輩と話していたから、いい調子で仲良くなれていると思っていた。そして後悔が増幅し、枕に頭を叩きつける。

 今度は着信音が鳴る。

「やぁ後輩くん。元気かい?」

「は、はい」

 心に傷を負っている相手に電話してくるのは重罪だ。言われる言葉によっては電話越しに泣いてしまうかもしれない。

「週末ではなく、明日ならいいぞ」

「え、本当ですか!」

 思わず水を与えられた魚のように喜んでしまった。完全に嵌められた。先輩は場所と時間を指定し、電話を切った。

 翌日、先輩は時間ピッタリにやってきた。一時間も前から待っていたのが馬鹿みたいだ。

「では、行こうか」

 そうして向かった先は廃病院であった。何でも、有名な心霊スポットだとか。人気のない山道をしばらく進むと廃病院が見えてきた。建物はツタで覆われており、入口は壊されていて、壁にはスプレーで落書きされている。

 中へ入ると、待合室や受付もあり、思ったよりも普通の病院であった。

「幽霊が襲ってきたら囮になってくれよ、後輩くん」

「いやいや、幽霊なんている訳ないですよ」

 先に進むと、中庭を囲うように廊下があり、中庭側には窓が、反対側には個室が並んでいる。窓は所々割れている箇所があった。

 診察室には資料などが机や床に散乱し、至る所に赤いペンキが付着していた。他の部屋は、病床がひっくり返っていたり、壊れた車椅子が放置されていたり、カップ麺やお菓子、飲み物のゴミが捨てたられていたりと酷い有様であった。

 廊下を曲がると、人体模型が立っていた。二人揃って声を出して驚倒し、危うく尻もちをつくところであった。

「後輩くん、びっくりさせないでくれよ」

 そう言って先輩は僕の服の裾を掴む。先輩って意外と怖がりなんだな、と思った。肩を竦めながら歩く先輩を横目にまた奥へ進もうとした。

 ――高い音が鳴り響く。パラパラとガラスの破片が落ちてくる。二つ上の階の窓ガラスが割れたのだ。

 その瞬間、先輩は僕の背中に隠れた。服と背中をしっかり掴んでいる。

「こ、後輩くん。これは病院から出ていけ、という幽霊からの忠告だったりすると思うかい?」

 先輩の声も手も震えていた。本気で怖がっているらしい。

「いえ、あれは人為的なものですよ。静かにしてみてください」

「おいおい、何割ってんだよ」

「もたれたら割れたんだよ」

 割れた窓ガラスの向こうから男の声が聞こえる。ガラスが割れる前、懐中電灯の光が見えたので、誰かいるのは分かっていた。

「……なるほど。すまない、気を取り乱してしまった」

 先輩はそう言って服を掴んだまま僕から離れた。普段クールな先輩が怖がる様子はとても新鮮に感じた。

「先輩は幽霊とか信じているんですか?」

「もちろん。証明することは現状無理だが。そもそも、信じていなければオカルト研究部なんて入っていないからね」

 先輩ならシュレディンガーとか言って見たことないから信じないし、いないことを証明できないからいないとも言い切らないのかと思っていた。

***

 昨日から晴れが続いているが、変わらない寒さ。しかし、時間はじわりじわりと進んでいる。先輩がもうすぐ卒業してしまう。そうしたら、オカルト研究部はどうなるのか、先輩に対する好意はどうなるのか、と心配になる。

「やぁ後輩くん。おはよう。偶然だね」

 校門を過ぎた辺りで先輩に話しかけられた。数十回目の登校時エンカ。振り返り、相変わらずマイペースに歩く先輩が来るのを待った。

「もうここまで来たら偶然なのか、いつも通りなのか分からなくなってきました」

「偶然の積み重ねも慣れてしまえばいつも通りになるが、それ自体が偶然ってことに気がつくべきだよ、後輩くん」

 得意気な顔で僕の背中を叩く。

「最後くらい優しくしてくださいよ」

 今日が最後の登校日で、もう、こんな偶然が起こることはない。先輩のいない学校生活を想像できないほどに脳は毒されている。卒業式まであと18日と書かれた横断幕へ目をやった。

「もう少しで卒業だな」

 卒業……先輩の口から聞くのは初めてだった。だからこそ、その言葉の重さを改めて感じる。

「寂しいですか?」

「今の時代、連絡を取る手段は多いから、寂しくなるとは思わない。けど、実際どうだろうね。シュレディンガーってやつだよ。そういう後輩くんはどうなんだい?」

「さぁ、僕も先輩がいなくならないと寂しいかどうかなんて分かりませんよ」

 精一杯強がってみる。でも、先輩がいなくなると考えただけで胸が痛む。

「でも、寂しいことが幸せである場合もあると思います」

 自分らしくないことを言ってしまい、恥ずかしさが込み上げてくる。

「確かに、そういう考え方もあるね。じゃあ、私は後輩くんから幸せを奪うことになるな」

「どういうことですか?」

「私が幸子さんだからだよ。青春泥棒の」

 いたずらな目でこちらの顔を覗き込む。

「急におかしな冗談を言いますね。それなら、僕の青春を奪ってみてくださいよ」

「証明しろ、というわけだな。良いだろう。卒業式当日、絶対に出席してくれよ」

 僕をからかうために何か企んでいるのだろう。何をしてくるのか気になっている自分がいた。

***

 卒業式当日、花道を通り、校門前まで来た。後輩はこちらに気がつくと表情を綻ばせた。全く、可愛い後輩だ。

「やぁ後輩くん」

「卒業おめでとうございます」

「ありがとう。では、約束通り証明するぞ」

 そう言って後輩の手を握った。暖かくて大きな手。

 ――次の瞬間に、それは冷たい小さな手になる。私が後輩くんに乗り移って視点が変わったからだ。

 先輩が少しふらつく。意識を返した時、毎回こうなる。背中へ手を回し、倒れないよう支える。

「えっと……私は……」

「卒業おめでとうございます。先輩」

「……後輩くん? いや、今は幸子さんと呼ぶべきか」

「そうですね」

 先輩は卒業する。だから、後輩の体に乗り移った。

 私は幸子と呼ばれている、人の意識に取り憑く亡霊。人の青春という幸せな一年間を奪う存在である。

***

「その本、面白いよね」

 僕は図書室で本を読んでいた男子生徒に声を掛けた。

「え、あ、はい」

 事故で死んだ私は生きていた証が欲しかった。この世に何かを残したかった。それで、生前に作ったオカルト研究部が廃部にならないよう、こうして霊となって部員を集め、存続させている。

「もしそういうのが好きならさ、オカルト研究部に入ってみない?」

 それが『幸子さん』の正体である。

***

 卒業式が終わった記憶がある。それも自分の卒業式。僕は校舎の柱にもたれかかっていて、コンクリートの温度がじわじわと伝わってくる。顔を上げると先輩がこちらへ向かいながら小さく手を振っていた。

「やぁ後輩くん。卒業おめでとう」

 満面の笑みである。一年前よりも大人びた雰囲気を纏っていて思わず息を呑んだ。

 僕はまた先輩の後輩を目指していた。でもそれはただの記憶だ。

「何だか不思議な感覚です」

 まるで心に穴が空いたような感覚。記憶もただの情報でしかない。

「そういうものだよ。私だってそうだったさ。何なら、意識が戻った時に知らない感情まで付いてきたんだぞ」

「偶然の積み重ねはむしろ必然、ということですかね」

 先輩は穏やかな顔で頷く。長いまつ毛がふわりと上下し、顔をじわりじわりと近づける。

「そういうことかもね。大学でもよろしくね、後輩くん」

 この結末は幸子さんからしたら必然だったのかもしれない。じゃあ、これは偽りの幸せだろうか。そんなことはない。幸子さんは"僕"として一年を過ごしていたのだから、先輩に取り憑いていた時も"先輩"として過ごしていたに違いない。だから、先輩に対するこの気持ちに間違いはないし、僕は多分、先輩の後輩であれば幸せなんだと思う。

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