第5話
私が話し終えると、クリスティーネ司教は、しばらく黙ってこちらを見つめていた。
クリスティーネという人は、無慈悲で冷酷で、人の心を持ち合わせない悪魔のような人物として忌み嫌われる。
ただ、少なくともそのときの私は、司教の頑なさや酷薄さの奥深くにある繊細さのようなものを感じていた。どこか、先生に似ている。
私は確かに、このときそう感じた。ただ、私は、私がそのときにそう感じていたということをずいぶん長いこと忘れていた。その後に起こったことの恐ろしさが、全ての印象を葬り去ってしまったから。
「ナターシャ、私は、あなたの病気を治してあげられるかもしれません」
司教は私にそう言った。私は耳を疑った。次に、司教を疑った。先生でさえ、私の心臓は治せなかったのだ。
私は生まれつき心臓が弱い。心臓は、生命の源であると同時に魔力の源でもある。その心臓の欠陥を癒すことは、魔力の源をゼロから作るということで、それには途方もない魔力が必要なのだと先生は言っていた。
顔の痣は、18歳になったら消してくれると約束していた。なんであれ、生まれ持ってきた身体を作り替えるのは重大なことだから、自分の責任で判断できる年齢になるまで待つべきだと先生は考えていた。私もそれに納得した。病気のことは、それとは違う。先生にも無理だったのだ。
「一つだけ、あなたの病気を治す方法があるのです。でも、そのためにはあなたの協力が必要です」
そういって司教は、羊皮紙に向けて呪文を唱え、羊皮紙に文字が浮かび上がった。羊皮紙は、たちまち細かい字で埋め尽くされ、私にはそれがどういう意味なのかほとんど理解できなかった。先生に読み書きを教わりはしたけど、難しい言葉はわからない。
「ここに、あなたの名前を」
司教がインクの乗った羽ペンを差し出す。自分の名前なら、書ける。さすがに躊躇した。いきなり現れて先生を連れ去って行った人を信用して良いのか。しかも、相手は教会の人間なんだ。あの男の仲間ということだ。
「あなたのサインがあれば、私はあなたを助けられる。ナターシャ、私はあなたを助けたい」
司教のエメラルドグリーンの瞳が、真っ直ぐにこちらを見据えていた。その言葉に嘘があるとは思えなかった。いや、実際のところ、嘘ではなかった。司教は、確かに私を助けようとしていた。あの男は処罰する、とも司教は約束した。同じ女として、あの男が私にしたことを、司教は本気で怒ってくれている。それは、私にとって、司教を信じる理由としては十分だった。
私は、羽ペンを受け取り、少し震えながら、自分の名前を羊皮紙に書いた。
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