第4話
クリスティーネ司教は、この時40歳。聖公会の高位の聖職者は皆、魔法の力で老化を抑制し、若い姿を保っているが、クリスティーネもまた、艶のある紅の髪と、透き通るようなエメラルドグリーンの瞳を持った、20代そこそこの娘の姿を維持している。大理石で彫られた女神像に命が吹き込まれたかのような外貌は、審問院総裁代行兼主席審問官という肩書きと相俟って、えも言われぬ峻厳さと冷徹さを醸し出している。
審問院は、その名の通り異端審問をつかさどる教会の機関であり、近年その活動を休止していたが、昨今の政情の混乱の中で復活していた。実質的な総裁であるクリスティーネの役割は、教会内部の派閥争いを収束させ、教会権力に拮抗しようとする国王政府を牽制することであった。クリスティーネは着実に、その役目を果たしていた。クリスティーネと彼女の属する派閥は、その権勢を順調に拡大させつつあった。
政争の具となっている審問院のあり方に、教会内部からの批判も出てきている。審問院を再び廃止すべきだと主張する声が強くなっていたが、クリスティーネとしては、ようやく手にした自らの安定した権力基盤を失うわけにはいかない。
クリスティーネは、審問院を存続させるべき根拠を示す必要があった。クリスティーネには、敵が必要だった。そして、これまで教会秩序の枠外に置かれるものであった「道士」たちに目をつけた。郷里から追放された道士たちは教会を恨んでいる。彼らは結託して、教会に対する叛逆の陰謀をめぐらせている。
クリスティーネはこのように主張した。道士たちが陰謀を企んでいるという言説そのものは、クリスティーネの初めて言い出したことではない。たまたま生まれつき、強い力を持っていたというだけで住む街を追われる道士たちが教会を好ましく思っているはずはなく、中には本気で教会を倒さんとするものたちがいてもおかしくはない。
クリスティーネは、各地の道士たちの中で、疑わしい点のあるものを次々と異端の廉で告発していった。その者たち中に、ルートン教区、バローム村の西の森に暮らす道士、イリーナ・エルゼネスカヤがいた。イリーナ道士は、以前からその魔力の強さを警戒されており、また、かなり昔から、実際に外法の研究をしているという疑いもかけられていたのである。
クリスティーネがイリーナ道士を告発した直接的な根拠は、この道士がバローム村の娘を拐ったという情報である。
クリスティーネは国王政府から預かった憲兵を率い、イリーナ道士を捕縛し、イリーナの館に囚われていた娘を保護した。娘の名は、ナターシャといった。
クリスティーネにとって厄介だったのは、この娘が自分は誘拐されたのではなく、自らのぞんで「先生」と暮らしているのだと主張することであった。
誘拐という事実がなければ、道士を粛清する理由がない。あるいは、イリーナが外法の研究をしていたという事実(そのような「事実」は今の所一切見当たらなかったが)を示すことができれば、イリーナは疑いなく異端であり、それを「先生」と呼ぶナターシャも異端道士の弟子として処刑すれば済むことではある。
ただ、クリスティーネは、ナターシャを死なせたくなかった。
クリスティーネは、帝国辺境の、貧しい農家の娘だった。ナターシャと同じように、兄弟が多く、親の愛情を受けずに育った。貧しい人間には、他人を(それがたとえ我が子であろうと)愛する余裕などないのだ。クリスティーネはそのことをよく知っている。顔の痣のせいで村の子供にいじめられたというナターシャの孤独も惨めさも、女であるクリスティーネにはやはりよくわかった。
ナターシャにとって、イリーナという「外の世界」がどれほど大きな存在であったことか。狭い、小さな村の中で一人ぼっちだった少女に、今生きている場所とは違う、もっと広く、大きく、豊かな世界があることを見せてくれた「先生」が、ナターシャというこの、痩せっぽっちで不器量な娘にとってどれほどの救いであったか。
クリスティーネにとっての「外の世界」は、たまたまグランディアハン聖公会だったのである。もし、クリスティーネが幼少の頃にこの「先生」に出会っていたなら、クリスティーネはきっと、ナターシャのように、「先生」といつまでも一緒にいたいと願っただろう。それ以外のことは何も望まなかっただろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます