第5話 パンドラ

 夜半に目を覚ます。隣に横たわる彼に背をむけていた。

「葛,葛,葛――ねぇ葛ってば……」

 彼の腕が私の頭を抱いた。ローズ系とは異なる石鹸の匂いがする。自分だけ町の公衆浴場へ行ったのだ。

 人の髪に鼻先を押しあてる。「すごく痛むんだ,どうしよう……」底なし沼で私を救ったときの負傷のことだ。癒えない傷口が唇に擦りつけられる。血の味がした。

 腕を投げて返す。彼が何か言おうとする前に頭にこびりついた言葉が突いて出た。

「ネットパンドラ――」

 返事はなかったが,背後から伝わる鼓動の激しさが彼の心情を物語っていた。

「ネットタブーを操る力があるって? 大勢の人を殺したって?」

「……恐い?」

 背をむけたまま上半身を起こす。「やっぱりネットパンドラなんだ」

 彼も起きあがる気配がした。「ネットパンドラの正体は,暴いちゃいけないことになってる」

「それもネットタブーの一つ?」

「……もう寝よう……」

「私には教えられない?――当然だよね」

「よく分かんねぇんだよ!――」荒々しい呼吸に後ろの髪が揺れた。「自分でも分かんねぇ! 気づかねぇうちに,体力を消耗してたり,誰かの血を浴びたりしてんだ。何かが起きてる。けど記憶は全然ねぇ――放射能を浴びすぎて頭がやられちまったのかもしんねぇ」

 肩を抱き寄せられる。いつもより強烈な力だ。「……こんな隠れ家捨てて,どっかよそへ行こうか」雨の降りしぶる白昼に吹く風みたいな息が頸部に絡みつく――

 彼を突き飛ばし岩室から逃げた。流星群の噴射するそらが激しい軋みを発している。1人で眠っているとき,そばで聞こえる息遣いのようだ。無我夢中で走り続け身動きできなくなったとき胸まで泥に浸かっていた。

 呼吸も心臓もとまり1度死んだ私は奇跡的に蘇生した。警察が動き,浮浪者の森から1人の少女が救出された。ほかの7人は依然見つからない。私を病院に運んだ男の行方も知れない。

 夏休みが終わるのを待たず施設に入った。義務教育を終えると同時に働きはじめ,自称黒魔術師と生活を共にした。昨夜彼女がネットパンドラという言葉を口にした。

 ネットパンドラは自ら正体を明かし禁忌に触れて現実世界から消滅したのだと言う。

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